創作と黒歴史の話

作詞少女という本には、主人公が詩を綴ったノートをクラスメートに馬鹿にされ、ゴミ箱に捨ててしまうというエピソードがある。

創作をしたことがあれば、誰もが少しは思い当たるところがあるだろう。

人は、過去の自分が創った作品を恥ずかしいと思ってしまう。それは、作品を通して過去の自分の考え方を思い出したり、技術的に稚拙だったりと、いろいろな理由があってのことだろう。恥ずかしいと思ってしまうことは仕方ないと思う。それは自分が成長した証左でもある。

だが、人は作品を恥ずかしいと思うと、それを黒歴史と呼んで否定したり、消去してなかったことにしてしまったりする。中学生時代に描いていたノートを捨ててしまったり、アマチュア時代の作品を非公開にしてしまったり。形は様々だが、作品をなかったことにしてしまう人が、たくさんいる。

これは、3つの点で重大な裏切りだ。

まず、自らへの裏切りである。作品を創ったとき、あなたはそれを捨てるつもりで創ったのだろうか。きっと、一生懸命になって、本気で創ったので
はないだろうか。それを黒歴史と呼ぶことは、それを創った自分を否定することにほかならない。それは、過去の自分への重大な裏切りである。

つぎに、作品への裏切りである。作品は、自分の意思を示すことができない。作品が笑われたり、バカにされたとき、作品を守ることができるのは、作者だけだ。その作者すら作品を否定すれば、もはやだれにも守ってもらえない。作者には作品を創った者として、作品を守る義務があると私は思う。恥ずかしいなどという理由で作品を見捨ててしまうのは、重大な裏切りである。

最後に、作品を好きな人への裏切りだ。私の好きな作品が、作者によってなかったことにされてしまったことがある。私は、大好きだったその作品を、もう二度と見ることができない。たとえ人気の作品ではなかったとしても、作者の知らないところで、その作品を好きな人がいるかもしれない。作品を消してしまうことは、そんな人たちへの裏切りでもある。

一度消してしまった作品は、もう二度と戻ってこない。人間は絶えず変化するから、その作品は唯一無二のものだ。技術的に稚拙なものかもしれない。だが、その稚拙な技術も含めて、その瞬間は二度とやってこない。創りたいと思ったとき、いつだって技術は足りないものだ。

私が過去に創った作品には「好きだけど下手」なものが多い。だが、私は過去の自分がそれを創ってくれたことに「ありがとう」と言いたい。技術はかつてより大きく成長したが、それでも、今の私には、過去と同じ作品を創ることはできない。

創作は、子どもを産むことに似ている。生まれてきた子どもは弱々しく、親に守ってもらわなければ生きていけない。成長して大人になれば、親の意思に縛られず世界へ羽ばたいてゆく。作者には、命をかけて作品を守る責任があるが、作品を縛ることはできない。作品を黒歴史と呼び、消してしまうことは、親が子どもを殺すような酷いことだ。誰にもそんなことをしてほしくない。

いつの日か、この文章が恥ずかしく思うこともあるだろう。私が文章を書くことを始めたのはつい最近だから、文章技術もほぼ素人の稚拙なものだ。だが、私は絶対にこれを黒歴史と呼ばない。この文章には、今の私が大切にしている考え方がつまっている。私が産んだ大事な子どもだ。

最後に、作詞少女から、伊佐坂詩文の言葉をすべての創作者に贈る。

お前は、人に見られちゃ恥ずかしいような本当の自分を、このノートに綴ってたんだろ。だったら、お前はこれを捨てちゃダメだ。お前がお前の心を裏切って、お前らしさをゴミ箱に捨ててしまったら、もう二度とそれは蘇らない。命に代えても守らなきゃいけないもの、それがこのノートであり、お前自身だ

【参考文献】

仰木日向, 作詞少女:詞をなめてた私が知った8つの技術と勇気の話, ヤマハミュージックメディア, 2017, p186

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