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無題:地震計のようにはいかない

……

なにも、負の感情をまとって書く必要はないのだと思う。筆を持つまで随分と時間がかかった。

書きたいものが一節だけ浮かんでは消えて、消えて、消えて。正直、書きたいものなんてどこにも無いのかもしれない。でも結局は、こうして書き出していかないとどうしようもないというのは読んでいる皆さんにもわかることだろう。

「無題」シリーズを去年の2月に書き始めてから、もう1年と少しがたった。
この「無題」、いわゆる「No title」は、無題であるにも関わらずその後にタイトルが続く矛盾を示すことが多い。その在り方は自分の生き方の全てで、どうしようもない矛盾を抱えて生きている顕れだから。
中には本当にタイトルが浮かばなくて、「無題:    」「タイトルが浮かびません」といった具合になることもある。
ともあれ、無題という建前を維持しつつも、その時々で良い感じのタイトルが浮かべば、地続きかつ副題みたいな顔をして添えるようなことをしている。


私の人生は、どうやら地震計のようにはいかないらしい。地震という「揺れ」を、生きている間に起こる出来事や感情とかだとするならば、それを検知した人生の地震計は紙にその振動を、つまりは生きた軌跡を写し取る。
ただ、できることが減り、感情がすり減っていくのならばこの心の計測器も機能しなくなっていくのだろう……と、少し思ったことがある。
地震計自体の仕組みはどうあれ、揺れを感知すれば勝手に紙に書き取ってくれるのだから、妬ましい。

自分が予知した通り、文章が書けなくなってきた。行きたい場所があっても行かない。強制されたもので無ければ、たちまち意思が弱く早起きもできない。行動が始まらない。好きなものをずっと画面で眺めているだけ。見れていた推しの配信を見れなくなってきた。新曲がリリースされても手が伸びない。歌みたも聴かない。あらかじめ聴いたことのあるお気に入りの曲ばかり回していく。
出来ないことばかりが増えていく。出来ることが減っていく。人に愛されていた部分が消えかけていくような感覚。どんどん退化している。



今見返してもきついなコレ?なんだこれは。

どうも、ざんきです。いや~無題シリーズでこうやって自我を表明することってほぼ無いんだけどね。や~深夜中に寝落ちしちゃって。この記事をとりあえず3月中に投稿したくて、自我を切り替えてお送りしています。ああいう作風ってなにかしらを憑依してないと書いていけないのよ。

3月のnoteノルマは一応変なつぶやきで代替出来てはいるんですけども。どうですか、画面の向こうの皆さん。変わらずお元気でいる?

私の方は、自分が引き起こしたことによってしばらく二重苦しているという感じです。寒さも和らぎ段々と暖かくなっていく中で、季節が新たな歩みを歓迎するみたいなムード、きつい。
季節柄、この時期の短期アルバイトでは新年生の相手をすることが多く、彼ら彼女らがとても眩しく映るので辛いです。

あと、小学生がいっぱいいっぱいになって荷物を持って帰る様子を、目を細めて見たりしてね。
ああいう風に持ち帰るのは大変で賢くなく、奨励されないようなやり方なのかもしれないけど、君の周りに構成されている、関わりのある物質がそれだけ存在していたんだよっていう証明に他ならないので、何も持ち合わせていない自分に比べれば何よりも羨ましい行為だなぁと、一瞬の景色に思考を折り挟んだりしていました。

あと、多分最初の方に書いたと思うんだけど、自分が出来ることが本当に少なくなっている感じがする。このnoteに関してもね。
やらなきゃいけないことはともかく、やりたい事とかにも手がつかなくなっている感じがして、とてもまずい。こんな状況なので通院も続かないし。本当にダメダメ。
これ4月からほんまにやれるんか?去年からお送りしていた逃避行をまたしたくて仕方ないもんね。暖かくなったらどこかに出かけたくなるし、そのままふらついて消息を断ちたい感じ。

あと、そうだな~、3月に書く意味があるとするなら、3月中に好きな人が出来たんだよねって話、する?
や、好きな人って今見て想像したら恋愛のことばかり思ってしまうんだろうけど、ひと口にそう言っても俺には色んな好きな人がいるぜ、インターネット上に。ベイベー。
けどこの場合、今回は恋愛的なものと切り離して、切り離せて持てている愛なのか自分自身よくわかっていなくてね。

経験上、ぼくのような陰キャくん(というより、異性が苦手だったので昔から尚更関わらなかった)に関わってくれた、目にかけてくれた女性、まぁ女の子ということにしておくか。そういった子達はぼくの中で限られた存在になっていくので、それなりに記憶に残っていたりしちゃうのね。
誰だって色んな妄想はするものだと信じたいのだけど、その時期ごとに1番距離の近い女の子がその相手役になってしまったりする事が多々あって、そういう自分の煩悩具合が本当に嫌で嫌で。
だから、ただ単純に好きであるというだけなのに、そういったバイアス的な病理のせいで、一線を超えたいと思えてしまうような思考がもたらされる結果になるっていうのが少々いただけなくて。

結局のところ高校生くらいまではさ、好きになったらそれを確認して交際してそのまま~という状態が多いじゃない。その先のことなんて大体考えていない、考えが及ばないまま消滅することも多くて、長いこと続いてゴールインなんて話は自分の周りにはなかった。
自分もそのくらいの歳なら、告白してなんかデートしてくらいの気持ちでいいのかも知んないけど、もう大人やん。俺(ら)さ。なんか、その先を見据えて恋愛が展開されていくようになるのかなって思うとなんだか怖くて。結局、大人になって自分に降りかかる責任を負うことが出来ないってのが1番の腰抜けポイントよね。

だから(だから?)、好きを表明してもその先に行けないというか、進めないというか。そこで止まってしまう感じでね。でも、自分は果たしてその先に進みたいのか?この考えは自分の純粋な本心なのか?とか、色々考えたりしている。結局は、色んな理由付けをしてがんじがらめにして、臆病な自分を誤魔化しているだけなんだよな。
あとは、単に今の自分が誰かの隣に立てるような存在じゃないからとか、日々の生活の中で突然知らんやつが舞い込んで来ても、その中に自分の居場所を新しく確保するのは難しいとか、色々。そもそも自分の行為が全て空振り問題とかもあるし。
とにかく、今、「好きだなぁ……」と噛み締めるくらいの人はいても、それ以上の“何か“に変容しているのか、自分で判断をするのを必死に避けているって感じ。

でも、今まで好意を伝えずにとか、なんとなく好きかなぁ~とか、後々うわ、俺こいつのこと好きだったのか……と自覚して普通に苦しんだりとか、とにかくリアルタイムで好き好き言えなかったのが過去の教訓として存在しているので、今はインターネット空間なことをいいことにめちゃくちゃ好き好き言うてます。直接言うし、TLに書くし、全部見えちゃってます。ちなみにこれも時間差で見えるはず。あはは。ガチの直接で会って言ったらまぁ、死ぬと思うので言えない気もしますけどね。あはは(2回目)。

元々は、その人が描いていたイラストを結構前から認知していて、(プロフ記事にも書いた通り)好きなイラストを描く人でも何かこう、自分の中できっかけが無いとフォローしないみたいな線引きがあったんすよね。
月日は流れて、とある人のスペースの同じリスナーとして何度かご一緒していたら、そのご縁でフォロー飛ばして頂いたのが最初のファーストコンタクトだった気がするかなぁ。
その後、代々木決戦のnoteを読まれたのを機にめちゃくちゃ私が書いたものを読み漁られてしまい。。。その人自身、色んな作品を摂取していて素晴らしいものを見たり読んだりしているはずで、私の駄文はそれに比べるべくも無いものだと思っていたんですけど。私自身が愛さなきゃ行けない分まで凄く愛してくれたんですよね、私が書いたものに対して。

今まで、特定の記事を読んで私の文章がよかった~とか好き~みたいなことを言ってくれた人は、限られた人数だけどいてはくださってて。
でも、こんなほぼ隅々まで黙々と読まれた上でこんなことされたらそりゃ好きになるじゃん。当たり前では?いや~~過去の自分、まじでよく書いてくれたよ~~~(他人事)。
その後なんやかんやあって(ない)、今に至ってる感じ。
なんというか、その人の好きなものが偶然自分も好きなものだったみたいなものが凄く嬉しかったりしてね。相手が好きなものを(無理に)好きになろうとする必要はなくて、偶然好きなものが重なる瞬間とか、感性が近い?(これは自惚れポイントかも)とこんなにも嬉しいのかなってなる。
あとは本人の人柄とか、文章をめちゃくちゃ考えて書いていただいているところとか、顔文字の使い方が可愛いとか色々。

もっと丁寧に書き出したかったけど、もう23時55分じゃん!!!ドヘェ~~~~~、今回これ何書いてるの??
推敲無し!!!放出!!!こんなんなんのために書いてるん??駄文にも程がありんす~~~~ヤバいなんだ今回の話は、ダメだろ!、!!いいのか??本当にいいのか???

まぁ、とりあえず近況報告でした。どうしようもなさは変わってないけどね!!!!!わーーーーーーーー死にたいのかも!!生きたいのかも!!!分からないのに関係してしまうのだ~~~~~~~~~~~~~~~

あぁもう!全部いっそ夢ならいいのに………

by 素的(素的の写経普通に続けてないけど、色んなコンディションの悪さが重なって今お休みしておる)

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