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『リコリス・リコイル』感想と「育ちがいい/悪い」人から連想したこと

 私が『リコリス・リコイル』を知ったのはYoutubeで『よつばと!』の架空OPの動画を視聴している時に、関連動画で「さかな~」(リコリスファンの中ではお馴染みのネットミーム)という上動画を発見したことがきっかけである。この動画のたきな(左側)がとても可愛かったので、思わずアマゾンプライムで視聴したところ、思いのほか面白く一気見してしまい「この熱量があるうちに感想を書かねば!」というお気持ちに駆られて現在の執筆にいたっている。

 リコリス・リコイルを知らない方もいると思うので簡単にあらすじを紹介しておく。

平穏な日々――その裏には秘密がある
犯罪を未然に防ぐ秘密組織――「DA(Direct Attack)」。
そのエージェントである少女たち――「リコリス」。
当たり前の日常も、彼女たちのおかげ。歴代最強のリコリスと称される
エリート・錦木千束、優秀だけどワケありリコリス・井ノ上たきなが
働く喫茶「リコリコ」もその支部のひとつ。
ここが受けるオーダーは、コーヒーやスイーツの注文から、
こどものお世話、買い物代行、外国人向けの日本語講師etc、「リコリス」らしからぬものばかり。
自由気ままな楽天家、平和主義の千束とクールで効率主義のたきな、二人の凸凹コンビのハチャメチャな毎日がはじまる!

(『リコリス・リコイル』公式HPより引用)https://lycoris-recoil.com/story/intro.html

 本作のネットでの感想を少しみてみると、日常だけでなく暴力を描いている作品であると言われたりするが、公式のあらすじを素直に読めば、本作は錦木 千束(ちさと)と井ノ上たきな、二人の女の子を中心とした「日常系」アニメである。最終話まで視聴した後の感想としても、この作品の素晴らしいところは何でもないような「日常」の描写であるように思われた。ネットでの感想をちらほらと見ていると、本作を「日常系」としてみるか、「日常+α(暴力―具体的には、リコリスとしての敵キャラとの戦闘シーン、百合、社会問題など)」としてみるかによって作品に対する評価が分かれているようだ。私の観測範囲では、本作の日常シーンについて酷評されている方は殆どおらず、これについては私も同意するところである。一方で+α部分については評価が分かれているが、一クールという尺の都合上、作品世界や敵キャラに対する背景説明も不足しており、ここについてはさほど完成度が高いとは言えない、というのが私の正直な感想だ。私の基本的な方針として作品のいい部分にフォーカスを当てたいので、これより先は本作を「日常系」作品とみなした上で、その魅力を存分に語っていきたい。

 すでに述べたとおり、本作の魅力はなによりも「日常」の描写がすばらしいことである。主人公二人(千束、たきな)の何でもない会話、喫茶「リコリコ」での仲間との団らん等の日常シーン、とリコリスとしての仕事のシーン(+α部分)が小気味良く切り替わっていくのでいわゆる日常系作品ではあるものの、観ていてダレることがない。これは大前提として、本作の作画・音楽などのアニメーションとしての根幹部分の質が高いことに起因している。特にこうした日常系のアニメ作品は、物語として大きな展開が少ない分、基本的なアニメーション部分のできのよさ/悪さでその作品の質が決まってしまうところがあるが、本作についてはその心配は無用だろう。それほどまでにアニメーションのできが素晴らしいのである。

 本作の平凡でなんてことない素晴らしい日常シーンは、主人子千束を中心とした喫茶「リコリコ」のメンバーによって成り立っており、これを支えているのは千束の「底抜けの明るさ」である。この「底抜けの明るさ」がまさに本作の突出した点であり、私に筆をとらせた最大の要因である。この「底抜けの明るさ」とは、ウィリアム・ジェイムズ『プラグマティズム』の中で出てくる「気質」(人の生来から備わっている特性としかよべないようなもの)という概念に由来する「明るさ」であり、世の中でよく言われがちな「くよくしてないで、明るくいこうぜ」という言葉が意味する明るさとは異なるものである。よく言われがちな陽キャのこの言葉には、これを受けとる側(陰キャ気質の人)に対して、受け取る側の暗さを自らの明るさより下に置き、「明るく振舞うことの方が正しいんだ!」という圧力に加え、そこに陰キャのあり方そのものを否定するような態度が無意識に内包されていることが多い。それゆえに、この言葉を受け取る側(陰キャ気質の人間)は自らが否定されていることを察し、彼らに対して反射的に反感を抱いたりする。要するに、このような陽キャの言葉の背後には「暗いお前は気に食わない」という感情が根っこにあり(無意識であることも多い)、これを感じ取った受け手(陰キャ)は、反射的に身構えてしまうわけだ。それに対し、生来からの明るさに強く由来する「底抜けの明るさ」は、その明るさを他人に押しつけるのではなく、その明るさが持つ磁場のような力によって周りが引きつけられ、自然と人が集まり好循環を生み出す。したがって、「明るくいこうぜ!(暗い雰囲気だすなよ…)」というタイプの陽キャが他人に無意識に押しつける明るさについては、そもそも問題にならない(発生しえない)。私のような陰キャ気質の強い人間の多くは、「明るくいこうぜ!」タイプの陽キャの明るさ(彼らの多くに悪意はない)が持つ押しつけがましさに苦労してきたことだろう。
 千束はこのような押しつけがましさを感じさせない「底抜けの明るさ」を持った人間であり、それゆえに私のような陰キャ気質の強い人間にもストレスを与えることがない。思い切っていってしまえば、本作の魅力の八割はこの彼女のキャラクター性にあるといっていいだろう(たきなファンの方には大変申し訳ない)。そして、この千束の魅力的なキャラクターを支えているのが声優、安済知佳さんの演技(彼女の演技の素晴らしさについては後程、詳しく述べる)である。ちなみに、安済さんは本年度の主演声優賞を受賞しており、他二名の受賞者が大ヒット作『SPY×FAMILY』のロイド役とアーニャ役の声優であったことを考慮すると、彼女の演技力と本作がいかに評価されたのかがわかるだろう。冒頭において、本作は一クール作品という尺の都合上、主要キャラクターについて深く掘り下げがされることはないとは述べたが、千束についてはこの短い尺の中でも彼女の過去について十分に掘り下げられている。それは、制作側がダブル主人公の一人であるたきなよりも明らかに千束の方に力を入れているな、と感じてしまうほどである。そんなわけで、当初はたきな目的で視聴したはずの私も終わってみればすっかり千束派になってしまったのである。
 このように本作はとにかく千束の生来の気質による「底抜けの明るさ」が素晴らしいのだが、それはすでに述べたように千束というキャラクター(底抜けの明るさを含む)がとても自然であることに大きく由来している。これについて語る前に、視聴者に不快感を与えるキャラクターについてもう少し確認しておきたい。上段で述べた陽キャ以外にも視聴者に不快感を与えるキャラクターは存在する。例えば、ロールプレイするだけの存在として完全に記号化(≒人格が存在しているように全く感じられない)されているキャラクターである。このようなキャラクターは、記号化が強すぎるゆえに、視聴者にとってはロールプレイだけをしているように見えてしまい、人間として描かれているにも関わらず、視聴者に「人格」(パーソナリティ)を感じさせることがない。したがって、視聴者は人間として描かれているのにも関わらず、実際にはロボットのようなキャラクターを長時間見続けることに不快感を覚え、時には継続して視聴することを妨げたりもする。
 千束はそのようなキャラクターとは異なり、その自然な「底なしの明るさ」によって、(物語の序盤で正反対の存在として描かれる)たきなに「初めての感情」を自覚させた。「初めての感情」は本作のエンディング曲『花の塔』の歌詞からの引用であるが、この曲はたきなの心情の変化を綴った名曲である。本作の視聴後にぜひともフルで拝聴していただきたい。たきなの心情変化の過程には主人公二人のホームである喫茶「リコリコ」のメンバーとの掛け合いもあるのだが、このなんでもないようなシーンもまた、われわれ視聴者に(あらゆる活動の根幹をになっているような)生命の源動力≒活力を与えてくれるものである。大げさに聞こえるかもしれないが、これは本作を視聴した私の紛れもない実感である。
 明るさに関わって陰キャについて言及したが、この関係についてもう少し補足しておきたい。まず、陰キャ気質の人間というのは、明るい人間が嫌いなわけではない。私のような陰キャは押しつけがましい陽キャが苦手なだけである。よく考えてみていただきたい、陰キャオタク(オタクの多くが陰キャ気質の持ち主である)の多くは「ギャルは実は性格がいい(素直である)」といった言説が大好きである。それは(オタクにも優しい)ギャルアニメ・漫画が世にこれほど生み出されていることや、かつてオタク界隈において高く評価され、一世を風靡していたギャルゲーというジャンルの存在からも明らかであろう。これは私の推測なのだが、オタクがこうしたギャル言説がすきなのは、彼らの中にある(様々な事情によって表に出すことが困難になってしまった)純粋な心の芽を陽キャのギャルたちが引き出し、開いてくれることを期待しているからだろう。オタクは基本的には純粋な心の持ち主であり、様々な事情で屈折していく事情もあるものの、純粋であるからこそ自らの興味のあるものについてはとことん探求していく。この探求は彼らのストレスを癒すものであり、同時にその純粋さを支える力にもなっている。

 前置きが長くなってしまったが、千束の「自然な明るさ」についてさらに掘り下げていく。既に述べたように、彼女の明るさは脚本によるキャラクターの作りこみに起因するというよりは、千束を演じる声優の演技力の高さが大きな要因である。この点については数話だけでも視聴いただければ、多くの方に同意いただけると思う。そして、この声優の演技力の高さが錦木千束というキャラクターに「リアリティー」を与えている。ここでの「リアリティー」とは、実際には「現実世界」に存在していないはずの千束という人格( ※1)が確かに存在していて、その人格に従って行動しているようにわれわれに感じさせる力を持っている、という意味である。文字としてアニメの千束のセリフだけを抽出すると、彼女の人に対する距離感や表面上の言葉が持つ当たりの強さなどに嫌悪感を覚える人もいるかもしれないが、そこは基本的なアニメーションの質の高さ、作品全体のテンポのよさ、そして何よりも安済さんの演技力によって見事にカバーされている。それくらい彼女の演技力は抜きんでている。これは余談だが、「リコリスリコイルのラジオ」(※2)を聴くと、声優の安済知佳さん自身の性格と千束がほとんど同一人物なのではないか、と思われるほどシンクロしていることがよくわかる(実際、SNSでも同様の指摘は多くみられた)。これも千束というキャラクターが「リアリティー」を持っている大きな要因であり、錦木千束というキャラクターが実際に存在しているように視聴者に感じさせる力を与えている。

※1ここでの「人格」とは独立した個人として自律した存在のこと、と解釈していただいて問題ない

※2 「昔から相談コーナー苦手なんだよね、わかんないってなっちゃう」という安斎さんの発言(15:03〜16:30秒)と彼女からにじみ出ている雰囲気から、そもそも何故このような悩みが生じるのかがわからず、「悩みがあるなら疑う余地もなくそれに向けて行動するしかないじゃん!」という彼女の「底なしの明るさ」、そして世界への信頼度の高さが感じさせれる。清々しいくらいの明るい回答である。

 ここまで、主人公千束の「明るさ」の中身について中心に語ってきたが、本作の千束のような人たちを見る度に思い出すのが、ニー仏さん(@neetbuddhist)が仰る「育ちがいい」人の概念である(詳細はリンク先のnoteを確認していただきたい)(※3)。「育ちがいい」人とは要するに、体質として他者や世界に対する信頼感が高いがゆえに、他者に対してやさしくすることに特段理由を必要としないタイプの人のことである。Twitter民からはそんな人間が「現実」にいるはずがないだろう、という嘲笑が入ってくることは百も承知なのだが、実際にこういうタイプの人間は存在するし、ありがたいことに私もこうしたタイプの方と交流をした経験がある。学生時代を思い出していただきたい。学生時代はとりわけ、勉強、スポーツ、容姿に優れている人がモテると言われたりする(これは一定程度事実であろう)が、特段それらに秀でているわけでもないのに、周りの学生から人気があった子はいなかっただろうか。そういった人たちは「育ちがいい」人である可能性が高いだろう。「育ちがいい」人はその育ちのよさゆえに、自然と人が集まってくるので、えてして人をひきつける「人たらし」の能力も同時にそなえていることが多い。すでに述べたように、本作の千束も立場や年齢の違いを超えて多くの人をひきつけている(たきなが千束を中心とした喫茶「リコリコ」のメンバーとの交流を通して心を開いていく過程は本作の名シーンの一つである)し、それはアニメの中だけでなく現実でもありえることである。こんなことは『リコリコ』を視聴した方ならば、私が言うまでもなく、すでに体感として理解していることだろう。

※3 千束が「育ちがいい」人であることの象徴であるような、たきなに対する次のセリフ「自分でどうにもならないことで悩んでもしょうがない。受け入れて、全力!だいたいそれでいいことが起こるんだ。」(9話より引用)がある。
本作の名言の一つであるこのセリフは、作中において千束が自らに言い聞かせるようなものでは決してない。自らの信念をたきなに理解してもらえるように、彼女に言い聞かせるように言葉を発しており、その語り方と声優の演技から彼女の強い信念を感じとることができる。

 私などは悲しいことに、多くのTwitterの皆様と同様(?)に、育ちの悪さにかけては天下一品のような残念な人間である。ニー仏さんも指摘されているが、「育ちがいい」人は、環境だけでなく生まれながらの気質に依拠する部分も多く、成人してから「育ちがいい」人になることは基本的には不可能である。そこで、インターネット中毒である私の頭の中には「人間なんて親ガチャ=生まれた環境(※4)でほとんど決まっちゃうんだから何したって意味ないよ」という一部の人にとってはクリシェとなっているような言説がリフレインされる。これについては、本作のもう一人の主人公の「育ちが悪い」たきなが徐々に他者に対して心を開いていく姿(成長する姿)が回答のヒントになる。確かに、たきなは最後まで決して「育ちがいい」人にはなっていないが、物語序盤において閉ざされていた心が開かれていくことによって、他者や世界に対するアプローチ (≒世界に対する信頼感)も初期と最後では大きく変化している。その具体的な場面については是非本作を視聴していただきたいが、たきなの他者に対する態度(千束や喫茶「リコリコ」のメンバーだけでなく、リコリスの同僚も含む)が物語が進むごとに徐々に柔らかく、優しくなっていく。こうした他者や世界に対する信頼感の変化というのは、何か論理や理屈で納得するだけで変わるようなものではなく、人が所属するコミュニティー(≒ホーム)を中心とした社会(世界)、人との関わりの中で徐々に変化していくものである。このように人間の成長過程を表現する手段として、アニメーションは本当に優れていることを本作は見事に示してくれたし、アニメーションの真髄はこうした「過程」を描けることである、と本作は改めて思い出させてくれた。

※4 そもそも「親ガチャ」という言葉は原理的にありえない。ガチャについて確認すると、まずガチャを引く主体/人が存在し、その主体によって対象物/ガチャが引かれることによって初めて「ガチャ」という枠組みが成立する。このように、ガチャは主体の存在を前提とするものであり、(当たり前だが)子供と親の関係に当てはめれば、定義上、子供は親を産み出す主体にはなれないので「親ガチャ」という言葉はそもそも原理的に成立しえないことになる。もちろん、親という主体が子を産む「子ガチャ」は原理的に成立可能である。「親ガチャ」という言葉を使う人の多くは、生まれた環境でほとんど全てが決まってしまうということを伝えたいのだろう。「(自分は)こんな(情けないような状況になる)はずではなかった!」と自らの環境の不幸を恨む言葉として、興味関心を引きつけるキャッチーな言葉を使いたい、という気持ちは「育ちが悪い」私も少し共感できる部分もある。しかし「親ガチャ」という言葉を、言葉を使うプロであるマスコミのような公共メディアもこのフレーズが持つ重大な問題点にさして言及することもなく、使用してしまうこの現状にはさすがに嘆息してしまう(リンク先のWkipediaにも原理的問題を指摘している記述はなく、ましてや2021年度の流行語大賞トップ10にさえ入っている)。これについては、中島義道さんが『「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの』で指摘するとおり、言葉を正しく使わないこと、相手の言動を正確に理解しようとする努力を怠ることによって、対話ができない日本人が増えている、ということだろう。自らのことを棚に上げての話にはなってしまうが、われわれは対話ができるようになるためにも、使う言葉の定義をしっかり確認して、正しい言葉遣いをするよう心掛ける習慣を作ることから始める必要があるのかもしれない。

 また、アニメの中だけでなく現実世界の中にも「育ちがいい」人でなくとも、変わっていく人は存在する(あまりにも当たり前の話であるが)。本作を視聴して私が思い出したのは、コロナ禍において最後までその生を自らの意志で力強く生き抜いた人たちである。(※5)リンク記事を読んでいただければすぐに理解いただけると思うが、彼らも作中のたきな同様、必ずしも「育ちがいい」人ではなかった(NHKの記事は情報が少ないのではっきりと断言することは難しい)が、その終末期には己の意志を持って決断し、強く生きぬいたことは記事を通して伝わってくる。これについて「そもそも周囲の人達の協力がなければ、若い彼らが自らの寿命を全うするまで力強く生き抜くことなどできなかったのでは?」という指摘がされそうだが、それはある一面では事実であろう。本作に引きつけて言えば「そもそもたきなが千束に出会うことがなかったらどうなっていたんだ・・・」と言われてしまえば言い返す言葉もない。しかしながら、記事の長谷川美穂さんのケースにおいては、彼女の強い意志が周りの人間の協力を引き寄せるほどの力をもっていた、と考えることができるだろう(実際に、彼女の母親からそのように語られている)。そして、彼女の母親から語られる生前の彼女の姿についての発言を読むと、現代において彼女ほど生に対して真剣に向き合っている人間はどれほどいるのだろうか、と思わず考えこんでしまうほどの意志の強さを感じ、語弊を恐れずいえば、その意志の強さに私は感動してしまったのである。また、コロナ禍初期において、病床ではなく自宅で死去することを選ぶことはあの当時の雰囲気を知っている人間からすれば、並大抵の意志では実現できなかったこと(※6)を考えると、なおさら彼女の生き様とその意志の強さに敬意を表さずにはいられない。

※5 長谷川美穂さんのケースを知った人から「自分の寿命が短いとわかれば、みんな必死に生きるでしょ」という反論がありえるだろう。心情としてその半分は理解できる(私も怠惰な人間なので)のだが、おそらくこれを語る人が彼女と同じような状況に陥った時に自暴自棄になることなく、己の生を全うすることは正直、難しいと言わざるをえない。先が短いと分かれば私も必死に生きる、とは、言い換えればわれわれの多くは今この瞬間を生きていない、ということを意味しているだろう。もう少し丁寧に説明すると、この反論をする人は、今を生きることなく、他律的に何かを頼ってすがり、自らの力だけではどうしようもない<いつかどこかにある>未来の何かのために生きている。このような態度の(他律的な)人間が余命宣告された場合、すぐに彼女のように自律的な意志を育て、それをもとに周囲を説得してまで何らかの決断を下すようにはならない、と考えるのが自然だろう。この点について説明すると長くなるので、興味のある方は是非とも古東哲明先生の『他界からのまなざし』を拝読していただきたい。

※6 添付記事にあるように「全面的に面会禁止することによって患者の命を守る」といった方針の病院が主流であった中で、病院から抜け出し自宅で療養することを実行することはかなりハードルが高かったことは想像にたやすい。

 このような厳しい現実の状況があったにも関わらず、彼ら(の一部)は(記事を読む限り)周りから促されたわけでも、強いられたわけでもなく、自らの強い意志で自宅で亡くなることを選択したのであり、その決断の意志の強さが周りの人間を説得させたと考えるのが自然だろう。また、二十歳前後の人間であり、それに加えて、できることに大きな制約がある若者(状況は我々の多くよりもはるかに厳しい)が自分自身の意志を持ち強く生きぬいた、という事実がコロナ禍においてパニックに陥ってしまったわれわれの多くに、大きな感銘と勇気を与えてくれないだろうか。もちろん、記事の彼女も当初は自暴自棄になっていた(幼いころより入院生活が続けば無理もない話である)様子についても言及されているが、それでも最終的には自らの強い意志で己の最後の生の処し方を決断している。彼女の過酷な状況における成長と、この強い意志に基づく決断が彼女の母親の協力を促したのである。このように誰のせいにするでもなく自らの意志によって決断されたこの決断自体に対して敬意を持つことこそ、(SNSでは他人を見下すために使いがちな)「他者を尊重すること」そのものではないだろうか。そもそも尊重するという言葉はプラスの価値を持っている言葉であるが、このような言葉を他人の足を引っ張るために使ってしまいがちな我が国の現状については、大変嘆かわしいものである。ちなみに本作『リコリス・リコイル』ではこのように他人の足を引っ張るキャラクターがほとんど存在しないことも本当に素晴らしいところである。
 とはいえ、一応言及しておくと、コロナ禍で寿命を全うした彼らの決断内容の是非については、どのような価値観を持っているかによって評価が分かれるところであろう。既にお分かりいただいているであろうが、私自身の立場について簡単に述べれば、自らの意志と道徳律に従って自律的に生きることに価値を見出す人間なので、厳しい境遇でありながらも自ら考え下した彼らの決断そのものを高く評価し、彼らの決断内容それ自体も(個人的には)頷けるものである。
 ここまで長々とコロナ禍で寿命を全うした彼らについて言及したのには理由がある。それは、これまで述べてきた本作の主人公「育ちがいい」人である千束の底なしの明るさがもたらす「人を魅了する力」とコロナ禍において力強く生き抜いた人達の生き様の「カッコよさ」の根は同じところにあるためだ。両者はいずれも、自らの生を受け入れ、他人のせいにすることなく、自らの生を全うすることができる存在という同じ根を持つ。このような彼らの言動(≒生きざま)を通じて、われわれの多くはそこから「人を魅了する力」(≒「カッコよさ」)を感じるのである。そしてこうした「カッコよさ」を持っているのが、本作の主人公である錦木千束であり、彼女はカントの言葉を借りればまさに「自律」した存在である。

 この「人を魅了する力」の根(≒自律)とは、思い切り雑に言ってしまえば、昔いわれていた「大人」になるということと殆ど同義であろう。一部ネット界で多くの方が指摘しているように、現代は子供(自らの被害者性についてマウントを取り合い、その立場から永久に他人に対して報酬を求める存在)であり続けることを求める言説やそれを肯定する人間もとても多く、あまつさえ、これを求め続けることこそが「賢い」生き方なのだとされている。ここで当然の疑問として「大人になる存在がいなくなると、社会を支える存在がいなくなり、社会を運営、持続することは不可能になるでは?」という問いがでてくるが、本稿のテーマとは外れるのでここでは深入りはしない。こうしてタイピングしているだけでもあまりにも悲しい現状に涙がでそうになるが、現代ではこのような子供であり続けることこそが、世の中でうまく生きる(=評価されるべき価値あること)ことであり、本作の言葉で言えば「効率主義」(物語序盤のたきな)にあたる(※7)

※7 ここでは「効率主義」を自発的な意志と呼べるものがない存在(≒子供)が社会(他人)から自らに求められたものだけに価値を見出し、それを無駄なく追及すること、と定義しておく。このようなものが本当に「効率」的なのか、という問いが浮かんでくるが、長くなるのでこれについては割愛する。少なくとも物語序盤のたきなの行動から彼女の思想を分析すると、このような思想の持ち主であったことは間違いないであろう。

 恐らく、本作のたきなというキャラクターは製作側によって意図的にこうした現代人の心性を象徴したキャラクターとして描かれている。そして、製作側としてはそんな現代人(たきな)に対して明確に「それではいけない」というメッセージを発している。(ただし本作において、このことを伝えることにどれほど成功しているかは、かなり怪しいところではある)。このことは、たきなが「育ちがいい」千束と関わることによって、自らの感情を自覚し表出すようになり、徐々に成長していき、終盤では当初の「効率主義」に反する行動をする姿が見られることからも想像することができる。千束と比較すると、たきなというキャラクターの掘り下げが少なかった本作ではあるが、この部分の描写についても最低限の説得力を視聴者に与えることができたのは、もう一人の主人公である千束のキャラクターに「リアリティー」があるからに他ならない。ただし、大急ぎで付け加えておかなければいけないのは、本作では千束が一貫して物語当初から「大人」であったのに対し、たきなは自らの感情を自覚しそれを表に出すようにはなったものの、最後まで子供であることは変わらなかった、という残酷な事実(そもそも高校生なので、子供であることはある程度は仕方のないことではあるが)である。個人的にこの部分については、率直に言って非常に残念だったのだが、一クール作品ということを考えれば仕方がないとも思う。また、放送時はオフィシャルにはなっていなかったようだが、つい先日、新作の製作が発表された。したがって、作中では意図して「たきなの未熟さ」を最後まで描いたのかもしれない。しかし、そうはいうものの、実際に二人の主人公を比べると余りにも人間としての器の差が大きく、終盤のそこそこシリアスな場面(「日常系」ではあるが+αでメインの物語も一応存在している)においては特にそこが目立ってしまった。これが私が本作の+α部分を高く評価できない理由にもなっている。ほかにも敵キャラの中身の薄さなど突っ込みたいことはそれなりにあるのだが、本題とはそれてしまうことに加え、長くなってしまうのでここでは割愛させていただく。

 大人になることについて少し考えてみると、多くの方が指摘しているとおり、現代において大人になることはとても難しいことである。一言で言ってしまえば、それは大人になることのメリットが余りにも少ないからである。本作の中で言えば、千束は周りの人間からの一定の尊敬と理解をされているが、それは彼女が大人であるからなのではなく、「育ちがいい」人側である部分が大きいだろう。実際の日本社会をみてみれば、逆パワハラマイクロアグレッション、という言葉が象徴するように、弱者としての自分の立場を利用して自分が何かをするのではなく、半永久的に他者から与えてもらうことを求める言説ばかりであり、またそれを積極的に推進していく社会となっている。さらに付け加えると、強者は「弱者」である存在に何も言うことができない(何も言及するができない)。なぜなら、「弱者」である人間の感情が傷つけば、強者がどれだけの正論である何かを唱えようとも、パワハラと認定されてしまうからだ。だからこそ、この「弱者」は現代における最強のポジション(真の強者の地位)を獲得している。日本においてこの象徴例としてあげられるのは、『鬼滅の刃』の映画放映時に「煉獄さんが上司だったらいいのに(実際に私の上司は。。。)」という言説でSNSが埋め尽くされた、あの気持ち悪い空間だろう(twitter等で「上司 煉獄」で検索してみればたくさんの実例を確認できるが、あまりお勧めはしない)。この空間が示すことは、皆、上司には煉獄さんを求めるが、自らが煉獄さんになることは決して目指さない、ということである。それもそのはずで、精神が子供の「弱者」が圧倒的な権力を持つ現代社会において、自らが煉獄さんになれば一方的に搾取される(=サンドバックになる)だけの存在になることを、みな内心で理解しているからだ。大人になることのメリットがないことが、現代社会の管理職希望者の減少の要因のひとつにもなっているだろうし、このような現状は、何よりも私たちの多くが「大人になること」をおそれていることの証明になっている。千束のような自律した人間と比較すると、このような余りにもレベルの低い現実の話について嘆息するしかないが、こうした現状についてしっかりと直視して対策を練ることが社会にとっては本当に必要なことだろう。

 これまで見てきた通り、本作の主人公たきなが「育ちがいい」もう一人の主人公千束とのかかわりを通して、世界への信頼感を高め、人間として成長していく過程は本作の「日常+α」+αの部分であり、作品メッセージの一つである。このメッセージ自体は古今東西から続く創作物の王道のテーマであり、一般論として納得できるものではあるが、現代においてこれがどれほど有効なのだろうか、ということは先ほど述べたように少し考えこんでしまう。最後にこのことについてもう少し考えてみたい。

 別作品になってしまうのだが、大ヒット作品の『進撃の巨人』を思い出していただきたい。『進撃の巨人』は2010年12月に「このマンガがすごい!」の大賞を受賞した作品で、その人気については今更私などが語るまでもないだろう。『このマンガがすごい!」の受賞時は単行本ベースで一巻が発売してすぐの頃であった。私が本作を知ったタイミングは確か二巻が発売された頃で、その人気のためか私の地元の本屋で二話程度無料で立ち読みができる冊子があり、当時、読了後に衝動買いした記憶がある。
 一巻の内容をざっくりまとめてしまうと、塀の中で巨人に喰われることに怯えながら(巨人には勝てないので)慎ましく暮らすことを望む市民(≒「効率主義」)と、主人公エレンの強烈な怒り(この怒りには巨人に対する復讐心(母親が巨人に殺された)に加え、巨人に殺されることを指をくわえて待つしかしない市民に対する軽蔑も含まれている)から壁の外に出ることを強く求める姿が対比されて描かれている。初期エレンのこの怒りは確実に著者である諌山創先生の社会に対する強烈な怒りが込められており、この怒りが物語の序盤をとおしてわれわれ読者にささったはずだ。

 奇しくも、この対比はコロナ禍で過剰な自粛を求める人と、過剰な自粛を嫌いコロナ前の日常を取り戻そうとする人の関係と類似している。そして『進撃の巨人』は、絶望的な状況にも関わらず、このエレンの強い怒りによってその中で必死にもがき、なんとかして現状を打開しようとする姿に読者の心が打たれ、マンガが大ヒットしたはずである(※8)。素直にこの現象を考慮すれば、『進撃の巨人』の読者の多くがコロナで過剰自粛する側には共感しないことが予想されるはずである。私自身も当時(中学生)諌山さんの描くエレンのこのストレートな怒りの描写に強く魅了された一人である。余談だが、私個人としては当初の巨人対人間の序盤の話が一番好きであった。

ところが、実際はこうしたエレンの姿に共感し、感動した人間が、それにも関わらず、多くのTwitter有識者の皆様が指摘するようなコロナ禍での日本人の対応(≒※9「効率主義」)が数年単位で続いた。初期コロナ禍において、こうした対応に疑念をいだいている人はなぜか(?)ごく少数であり、この対応に少しでも異議を含む発言があろうものなら(エレンに間違いなく軽蔑された側にあたる)多くの市民によって「人が死んでもいいと思っているのか!」という自動ロボットのようなセリフで一括され、あまつさえそれがまかり通る始末であった。これは余談だが、私は当時関西に住んでおり日本ではわりと冗談が通じる可能性の高いところであったのが、冗談でコロナの話(例:「いやー、ちょっと今日体調よくないですね…もしかしてコロナかもしれないですw」)をしようものなら、殺伐とした空気が流れたものである。私の知る日本人の所謂「文系」知識人(twitterでは地の底まで評判が落ちている)の中では、正面を切って過剰な自粛に対する問題点を唱えていたのは東浩紀さんくらいであり、悲しいことに東さんのような冷静な分析に基づく意見(※9)すらも、「反コロナ」であるとして、雑にくくられて語られてしまった現実は、彼が『ゲンロン0』で言及した現代の「友敵」理論を身をもって証明する結果となった。

※8 エレンの怒りはアニメ化の際に大ヒットし、当時では珍しい深夜アニメソングにも関わらず紅白出場を果たしたLinked Horizon『紅蓮の弓矢』の歌詞にある「家畜の安寧、虚偽の繁栄」の部分に象徴されている。ちなみに私の友人にこの部分の歌詞が大好きな人間がおり、たびたび口ずさんでいた記憶がある。


※9 この中身については多くの方が指摘しているので詳しくは述べないが、東さんの一連のTweetやコロナ禍についての記事をよんでいただければ理解していただけると思う。記事中でも触れられているが、実際にコロナ禍におけるわれわれの行動は、厳密には「効率主義」ですらない代物だったであろう。

 このように少しコロナ禍を振り返ってみると、あれだけの大ヒットをし、エレンに感情移入した人たちは「一体、初期エレンの何に心を動かされていたのだろうか?」という率直な疑問が出てくる。Twitterでよく言われるように彼らが哲学的ゾンビのような存在であるならば、そもそも『進撃の巨人』一巻でのエレンの姿に心打たれることはないわけであり、それが根本原因ではないはずである。この疑問についてはコロナ禍初期から現在まで一貫して考え続けているが、私自身が納得できるような答えは出せていない。現時点で言えることとしては「彼らは自分達が一体何に感動しているのか、ということをそもそもわかっておらず、これが彼らのコロナ禍での行動に何らかの影響を及ぼしているのではないか?」という霊感はあるのだが、この関連性についてははっきりとわかっていない。


 長々と述べてきたが、私が『リコリス・リコイル』について伝えてたかったのは、アニメーションの質の高さに加え、何よりも「育ちがいい」主人公千束のキャラクターが素晴らしく、それゆえに彼女を中心とした何でもないような日常シーンの質がとても高く、多少のストーリーの粗など気にならないほど視聴者にとって本当に心地いいものであった、ということである。幸か不幸か、私のような「育ちが悪い」人間であればあるほど、このような自らの可能性を拡張してくれるような「日常系」作品は日常生活をおくるうえでの活力を与えてくれるものである。逆に「育ちがいい」人が本作を観ると、どのような感想を抱くのかは少し気になるところではある。同時に、本エントリーで長々と私が述べたような本作の魅力は、わかる人が本作を視聴すればすぐに理解していただけるものであるはずだ。もし私の文章を読んで、少しでも興味をいだいた方がいれば、是非とも『リコリス・リコイル』を視聴していただきたい。何度でも申し上げるが、本作のような素晴らしいアニメーションは私のような陰キャ気質の人間にも俗世で生きる大いなる活力を与えてくれるものである。Afterコロナからの世の流れに嫌気がさし、さながら世捨て人のようになりかけている私のような人間にとって、これは本当にありがたいことであり、このような作品を鑑賞できることに大いに感謝を申し上げたい。こうした素晴らしい作品の存在のおかげで、私のような「育ちが悪い」人間もなんとか闇落ちすることなく生きていくことができる。最後に、本エントリーの後半からは、何故かコロナ禍に結びつけてついつい現状の嘆き(私のお気持ち)を語ってしまったが、それはこの問題の根深さに加え、普段であれば語ることのない(Twitterでもコロナについてはほとんど呟いたことがない)ようなことまでついつい語ってしまうほど『リコリス・リコイル』から栄養(≒活力、MP)を調達した結果であり、それほどまでに本作が素晴らしい作品であった、ということでご容赦いただきたい。


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