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優しい響きに誘われて

ペットボトルはプラスチックだから、僕の選択に間違いはどこにもないはずだ。

「燃えるゴミ」「プラスチック類」「ペットボトル」「カン」・・・とゴミ箱が並んでいた。僕は右手に空のペットボトルを持っていた。リズミカルに指に力を入れて、パコパコ鳴らしながらゴミ箱に向かった。たぶん、そのプラスチックに独特な、角の取れた丸っこい優しい響きに体が反応したのだと思う。投げ入れたあとすぐに気づいたのだが、疑いようもなくペットボトルが吸い込まれていった先は「燃えないゴミ」だった。何か悪いことをした気がして、そそくさとその場を後にした。

ペットボトルがプラスチックであることは間違いのだから、「燃えないゴミ」に捨てた僕の選択に狂いはないはずだ。だけど、どこか気後れした感覚もやはり嘘ではなかった。

ちょっと話は変わる。

ある行為の持つ意味を振り分ける時に、それが「寛容」のカゴに入れられるのか、「臆病」のカゴに入れられるのかは、とても悩ましい。

子どものいたずらを注意しなかったとしよう。この時、何もしないという行為を僕は選択したわけである。では、その行為の選択理由はなにか。おそらく僕はただビビっただけなのだろう。だけど、「そのいたずらも子どもにとっては意味のあることなのだろうから、伸びやかな成長のためにやめさせることは野暮だ」といって、自分の優しさに酔いしれることもできる。なぜなら、なにもしないという行為の選択理由を、第三者が審級できるわけではないのだから。ならば、僕は優しい自分でいたいから、その行為の意味を「寛容」のカゴに投げ入れる。その角の取れた、響きのいい言葉に誘われて。

でも、ペットボトルは、「ペットボトル」と書かれたゴミ箱に入らなければいけない。だとしても、やっぱり、あのペットボトルをいまさら正しいところに捨てに戻る勇気は僕にはない。そもそも、「燃えないゴミ」は、すでに僕の手の届かないところにいってしまったはずだ。

もう夜も深い。仕方がない。

そう呟きながら、何度も何度も、死ぬまで入れ間違え続けるのだろうと思う。

そしていつか、自分が「燃えるゴミ」であることに、感謝する日がくる。感謝しながら、きっと泣いている。

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