彼が見ている世界
ドアを引いた瞬間、
コーヒーの匂いに体が包まれた。
この瞬間がたまらなく好きだ。
ブワァっと包みこまれるこの瞬間。
コーヒーの匂いの余韻に浸りながら店内を見渡す。彼の姿はない。少し早く着きすぎたか。
私は外を見るのが好きだから窓際に座った。
メニューを眺めながら耳を澄ますと水の弾ける音がした。
今日は朝から雨が降っていた。
「空は何か悲しいことがあったのかな、」
そんなことを考えていると彼が来た。
透明なビニール傘。グレーのスウェットに黒のスラックス。ファッションモデルのような背丈。横に流れた髪の毛。前髪は彼の長いまつ毛に届きそうだ。その前髪をかきあげる仕草を見て鼓動が速くなる。
「おはよう、早かったね。」
「おはよう、うん、今日は早起き出来たの。(本当のことを言うと彼に早く会いたかったのだ。)」
「そっか、」と言って笑った彼の笑顔は私にとって最高の癒し薬だ。言葉に表すのがすごく難しいけど、とにかく笑顔が綺麗。そう。綺麗。
コーヒーを注文して彼を見る。
彼は色素が薄い、だから髪の毛と目はキャラメルのような色をしている。狐みたいだな、とよく思う。
「雨だね、俺は雨の日も好きだな。」
「どうして?」
「雨の日にしか聴けない音がたくさんあるから。」
「例えば?」
「地面に落ちる水の音とか、歩いた時に水が弾ける音とか、他にもたくさん」
彼の見ている世界はすごく綺麗だ。他の人は目をつけないような所にも目をつける。彼は私に綺麗な世界を教えてくれる。見たことの無い、透き通った世界を。
注文したキリマンジャロがきた。
今日は彼も私もキリマンジャロが飲みたい気分だった。スプーンで少しかき混ぜてから1口。
この酸味と後味がスッキリしているのがたまらない。1週間の疲れが吹き飛んだ。
「本当に幸せだよ、これ、」
と言って彼に目をやると、彼はまだスプーンでかき混ぜていた。グレーのスウェットから覗く手はスっと長く、関節がどこにあるのかひと目でわかる。私は彼の手も好きだ。
「飲みたいよ、その幸せ早く味わいたいんだけどさ、」
「猫舌ね、分かってるよ、あ〜美味しい。」
「ずるいよ。 ────あちっ。」
熱さを我慢して幸せを噛み締めている彼を見て口角が緩んだ。
「やっと飲めた、、、はあ幸せ。」
「───幸せの基準って何だろうね?」
「幸せの基準、か、」
私たちはよく 答えのない質問 を出しあう。そこで彼の考えを聞き、自分の考えに無いものを探すのがすごく楽しい。
んー、と少し悩んでから彼が答えた。
「幸せは基準を作ったらダメだと思う。その基準に達しないと幸せを感じられなくなるよ。」
「確かに、でも基準がないと自分が幸せかどうか分からない人もいるんじゃない?」
「それもあるね。でも俺はなんかこう、心に染みるものは全部幸せだなって感じる。」
「私もだよ。なんか、胸が満たされる感じ?心が温かく包み込まれた感じ、?がしたら幸せだなって思うよ。でも、これって基準としても見れるかな?」
「確かに、、」
そうこう話しているうちにキリマンジャロが冷めてしまった。カップを手に取り最後の1滴残らずに飲んだ。口の中にまたもや酸味が広がった。この広がりを家まで保ちたい、そう思った。
カフェを出た後は彼と少し街を歩いた。
雨は止んだが、雨が降った足跡はまだ新しかった。
隣を歩いていた彼が急に立ち止まって私を呼び止めた。
「見て、水たまりの中の世界。逆さまだし歪んでる。」
そう真剣に話す彼の横顔は本当に綺麗だ。少し切れ長の目、その下にある膨らんだ涙袋、筋が通った鼻。たまに、実在の人物か?と疑いたくなる。
「ほんとだ、水たまりの中の世界に言ってやりたいね。私たちの世界の方が良いよって。」
「雨の日限定の世界だし、確かに嫌だね。」
そう言って彼は軽く笑った。
周りから見たらどんな会話だよ、と思われるかもしれないが、私と彼にとってはこれが日常会話だ。
これから先、彼が見せてくれる世界はどんな世界なんだろう。
口の中ではまだ、
キリマンジャロの酸味が広がっていた。
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