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半宵の犬 (2)

ふと気づくとあたりは眩しかった。朝だ。抱えた仕事に潰されたまま寝てしまったらしい。時は無慈悲なものでいくら声をかけても立ち止まってはくれない。仕方がないので背広に腕を通しネクタイを締める。 耳のずっと奥で昨日の犬の声がする。犬の声などこれまで全く気にしたことはなかったのだが、この犬の声はなぜだか何度も何度も反響して頭から離れない。何がそうさせているのかと考えてはみるが、いくら考えても答えは出ないし、寧ろ考えれば考えるほどやはり何の変哲もない犬の声だったように思えてますます謎

    • 半宵の犬 (1)

      どこかで犬が遠吠えをしている。人のない夜半の寒空に響くこの犬の声はどうも虚しく頼りない。部屋で一人持ち帰った仕事をしながら私はふっとため息をついた。私はこんな寂しい夜にいったいなにをしているのだろう。 仕事が手につかなくなってふとスマホに目をやり、とりあえずスイッチを押してみる。特に何の通知も来ていないようだ。とりわけ仲の良い遊び相手がいるわけでもない私のことだ、なにか通知があったとしても会社からのメールぐらいだ。通知がないほうが平安でいられる。 なんとなく入れた海外製の

      • 心が亡ぶ

        「忙しい」、「心が亡ぶ」と書きます。確かに忙しいときにはやるべきことをただ機械的にこなすのみでそこに心というものはあまりないような気がします。良いことも悪いことも心に残る数多のことが忙しさに置き換えられている、そんな気がしてきます。 でも忙しさから解放されたときに気づくのです。ほんとうは置き換わっていたのではない、ただ忙しさが心を覆い隠してあたかも亡んだかのように見せかけていただけだと。忙しさから解放され生き返った心は、ちょうど忙しさの前にあったときと同じ姿をしていました。

        • 西の空が火をふいた。随分と大きな火事のようだ。 誰もあの火を消しに行こうとはしないであくまで他人事みたいな目であの火を見ている。現地は今ごろ惨事かもしれないというのによくそんなにも呑気でいられるものだ。 でもどうやれば消せる? 私の狼狽えている隙に黒い雲がこうやるんだよと言うかのごとく火を覆い隠した。

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        • 創作まとめ
          7本
        • 半宵の犬
          2本
        • ひとりごと / つぶやき
          3本

        記事

          黄色い鉛筆

          昨日の夕方、仕事帰りの夜道を歩いていた私は道に落ちている軽い棒をこつんと蹴ってしまった。なにかと思ってよく見てみると、黄色い鉛筆が落ちていた。その鉛筆を見た時私は六歳のときから後悔していることを思い出した。どうして六歳と記憶しているかというと、あれは小学校に入ってすぐの出来事だったからだ。 入学式の数日前、母が私に鉛筆を買ってくれた。一方の端には小さな消しゴムがついた、なんのことはない黄色くて長いふつうの鉛筆。でもそれまで私は自分専用の筆記具というのを買ってもらったことはな

          みえない

          私は死んだ。留学先のアメリカで事故にあってしまったのだ。あと一度だけでいいから日本の家族に会いたかった。悔しさでいっぱいだったが生命は待ってくれなかった。 死んでしばらくしたとき、急に身体に自由が戻ってきた。とりあえず歩いてみよう。足で地面を踏みつけるとずしっと重みが返ってくる、生きていた頃と同じだ。ずいぶんと勝手よく歩けるものだと感心して私は病室のドアを開けた。 ドアの外にあったのは病院の廊下ではなく、日本の実家の近くにあるスーパーマーケットだった。なるほど不可思議なこ

          癖字

          私の書く文字はとても癖が強いと言われます。私もそう思います。読みにくくならないようになるべく丁寧に書くことは心がけていますが癖というのは怖いものでふと気を抜いたところではっきりと現れてきます。 たとえば「門」、右下のハネを横向きに払う癖があります。「水」、右側のくの字が丸くなる癖があります。挙げ始めたらキリがないほどです。 私は自分の字が好きです。お手本にあるような美しくも無味乾燥な字ではなくて、崩れた味のある字のほうが見ていて楽しい。同じ文字を書いても人によって形に大き

          限定

          「限定」、どんなにつまらないものでもこのドレスを着ればキラキラと輝いているように見えるものです。一昨日も仕事終わりに最寄り駅の前に広がる商店街を這いつくばっている時にケーキ屋さんの店頭にこのドレスが飾られているのを見てつい立ち寄ってしまいました。 その店でドレスを着せられていたのは「温州みかんのフロマージュ」。温州みかんという純日本的な主役にフランスの洒落たアクセサリー、それも「限定」なのだから今買わない理由などない。ただのチーズケーキよりもひとまわり高いけれど私は無神経に

          夜の海

          6月の半ばに私は夜の海に行きました。そこは私の住む家からは電車で2時間近くかかる遠いところです。着いたときはまだ明るく、ちょうど日が暮れはじめたころです。海を挟んだ向こうを走る電車が紅霞に包みこまれているのが見えました。 明るいときに見る海というのは大変きらびやかで、時折押し寄せる波はキャンバスに描かれたなにかをきれいさっぱり消し去っていくようです。少し遠くから砂浜にじっと座って眺めると心が洗われていくようなそんな清さを感じます。 けれども暗い時に見る海というのは昼間のそ

          じいじ

          昨年のはじめ、私にもついに念願の孫ができました。私は男ですから子供を産むというのがどんなものか、その痛みについてはなにも理解はしていません。ただ私の妻が理恵を産んだとき、そして理恵が健太を産んだとき、幸いそのどちらにも寄り添うことが出来たのですが、あのときの弱々しくも幸せそうな笑顔は忘れたくても忘れることが出来ぬほどに鮮明に記憶しています。 孫というのは本当にかわいいものです。愛娘にとっての愛息子、愛おしくないはずがありません。私の持てる愛情の全てを私なりの形で健太に届けま

          「夏、お前はなぜそれほどまでに遠慮を知らない? 俺はお前に幾度となく言ったはずだ、人間というのはお前が思っているよりずっとずっと熱に弱い生き物だと。人間ごときにはお前の力を抑えるだけの十分な能力は備わっていないからお前のほうが多少手加減をしてやらないと人間はいずれみな滅びると。これだけ言ってまだ分からないのか」木陰のベンチに伸びながら呟いてみた。俺がいくら説教をしたところで夏といったら手を緩めるつもりはさらさらないらしい。 俺は夏が嫌いだ。冬の寒さは着込めば耐えられるけれど

          じいさんのシフォン

          これは私が高校に通っていた頃の話だ。当時の私は学校の行き帰りに路線バスを使っていた。幸い最寄りのバス停から高校までは乗り換えることなく行くことができたから、それはそれは便利だった。 あれは冬の寒い日、私が学校から帰ろうとバス停に向かうと、待合用のベンチにニット帽を被ったじいさんが一人ずいぶんと小さくなって座っていた。見るとじいさんの左手の中でビニール袋につつまれたシフォンケーキがちょこんと顔を出している。じいさんは右手でちょっとずつちぎってシフォンケーキを食べている。 じ

          じいさんのシフォン

          まよなか

          「ただいまー」 闇に包まれた空っぽの部屋に声を投げたところで何も返ってきやしないことはわかっているのに、実家ぐらしの頃につけた癖はまだ抜けそうにない。 部屋の灯りをつけて壁にかかった時計に目をやる。もうすぐ0時、日付が変わるころだ。ふたりはそろそろ真上を向いて出会う。会社に入って3年、彼女なんか作る暇もなく夜の相手はいつも書類。こんな時間まで返事もしない書類と戯れる生活のまま老いて死ぬ、恐ろしい。 物思いの隙に背の高い針が短い針に追いついた。不思議な羨望の目で時計を見つ