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私はなんでこんなに性格が悪いのか? 「波」が「海」に戻るとき・・

自分でも「なんでこんなに残酷な言葉が浮かぶのだろう」と思うことがあります。人を責める言葉。悪口、うらやみ、不安、裏切られた・・・こういう言葉が浮かんでいるとき、言葉に飲み込まれています。

我に返ると、こんなことを考えている自分が嫌になります。

「なんでこんな残酷なことを思ってしまうのだろう」。思いたくもないのに、残酷な自分に乗っ取られてしまうのが辛い。

以前は、こういう残酷なことを考えるのが「自分の性格」だと思っていました。なんと嫌なやつなのだろうと。死んでしまえと思ったこともあります。

なので、大学に入ってからは、なんでこんなことを考えるのか?幼少期の体験などを分析し、心理学を学びながら自己分析をしました。

私はなんでこんなに性格が悪いのか。少しでも性格を直したかったのです。

自己分析の中で、いろいろな自我が見えてきました。もちろん過去の経験が今の自分を作っている部分もあります。自分を知ることで、少しずつ自己肯定が出来るようになりました。しかし、どれだけ自己理解が深まっても、根本的な苦しみは消えません。

そもそも「自分」という範疇では捉えられない、なにかがあるのではないだろうか。



自分ってなに?

そんな疑問から禅を学びはじめました。

残念ながら、学ぶほど分からなくなりました。しかし、今はそれが禅ではないかと思っています。禅は自分を捉えるのではなく、「自分」という枠から出る方向性ではないでしょうか(あくまでも個人的体験です)。

考えているのは、もちろん自分です。しかし、人の気持ちは、自分の思い通りにはなりません。

人のことをうらやむのではなく、心から祝福できる自分でありたい。いいところを認められる自分でありたい。傷つけるのではなく愛する自分でありたい。

心からそう願います。でも残念ながら、そうはなれません。いい自分を考えるほど、悪い自分がクッキリと浮かび上がってきたりします。そこに生きる難しさや苦しみがあります。

これは「生きる」という課題でしょう。生涯をかけて取り組むものだと思います。今お伝えできるのは、途中経過です。

あるとき残酷な言葉が浮かんできているとき、あまりに苦しくて、思わず大きく息を吐きました。そして、身体にいっぱい空気を吸い込みました。そのとき、すっと言葉が消えたのです。

今消えたのは、思考の言葉ではなかったのか?

頭がしゃべっていたのでは?

頭で考えていたことが、言葉になっていたことに気づいたのです。頭の言葉って、どこか角張っていて、よそよそしい。それが息をのむ込むことで、全身に感覚が広がりました。そのとき、頭の言葉は消えました。

頭と身体が馴染んだというか、交わったのです。言葉はなくなり、柔らかいぬくもりがやってきました。

それから、残酷な言葉が浮かぶたびに、息を吸い込んで、全身に馴染ませるようになりました。随分、残酷な言葉は減りました。



体験を少し整理したいと思います。以下はメモの一部です。

思考は「自我を言葉にしようとする働き」。言葉にしているとき、頭の働きが活発になってくる。身体から首が切れている状態で「言葉」が浮かんでくる。思考は、表面的なざわつきを言葉にするのが得意。ざわつきは一時的な現象であって、真意ではない場合が多い。安心感がない。焦りがそのまま言葉に出る。人と比較し、優越感に浸ったり、劣等感に落ち込む。

現代は、上手く言葉にすることがよしとされる世界です。しかし、その言葉はあまりあてにはなりません。思い通りにもなりませんし、そもそも、あなたの中で浮かんでくる言葉は、自我というほんの一部分を切り取っただけの表現です。

では、一部分ではない表現とは、なんでしょうか。

それが先程お伝えした「身体の表現」です。言葉が身体と交わったときに消えるというのは、部分から全体へという働きが起こっているのではないか。

以下は引き続き、メモからの抜粋です。

思考は「言葉にする働き」。身体は「言葉にしない働き」。言葉にしないことで、違う形でメッセージがやってくる。イメージや直感。何気ない動き。上手く言葉にならないからいい。

言葉はどこから生まれるのか。

禅では、「私」を海と波に喩えて表現します。

師と仰いでいる藤田一照老師は「2つの波のあり方があります。それは海という自分の出自を知っている波と、海という出自を知らない波です」とおっしゃっていました。

海を知っている波とは、仏教でいう「法(ダルマ)」に活かされている自分であり、大自然の見えない働きの一部としての「わたし」であること。

一方で、海を知らない波とは、「私」としての個人サイズで生きている自分であるということ。

自分という存在にこだわっているとき、思考という波は、海から切り離されています。海を離れた波は、一人ぼっちです。それは怖さや孤独という苦しみを生み出します。それが私の場合、「残酷な言葉」として顕れているのではないか。

一方で、海の深い部分はつながっています。

波を表現するのは思考の言葉。海とつながっているときの表現は、身体からのメッセージではないか。

波と海は、本来つながっています。しかし、波は波であろうとします。いかに海とつなげてやるか。本来の働きに戻してやるか。



思考で言葉を発していることに気づけるでしょうか?

この問いをすると、案外多くの人が気づいています。頭で考えて言葉を発していることに。

言葉を飲み込む。我慢ではなく、まさに飲み込んでみる。つばといっしょに身体に落としてみる。呼吸と一緒に身体に馴染ませるのもいいでしょう。

思考の言葉を身体に馴染ませてやるのです。頭の働きを身体とつなげてやるイメージでもいいかもしれません。

言葉の波は身体という海とつながると、消えていきます。全体とつながると言葉はなくなるのです。

ということは、私が苦しんでいた残酷な言葉は、「今頭が切れているよ」というメッセージだったのではないかという仮説が生まれてきました。

これは、楽しいときも実はいっしょです。楽しい言葉がたくさん浮かんでいるときは、確かに心地よいかもしれません。しかし、頭が身体から切れているのはいっしょです。だから楽しいことは、どこかでやりすぎたりします。

苦しいことも楽しいことも、悲しいことも、嬉しいことも、すべて言葉になっているとき、それは身体から切り離されている働きが起こっているのです。だから、どんな気持ちもいっしょと言えます。

出来ることは、言葉に飲まれないこと。楽しいことに飲み込まれたとき、やがてそれは「さらに欲しい」という執着になっていきます。あるいは、「失いたくない」という不安になっていきます。思考は言葉を増殖させていく働きを持っています。

いかに言葉になったときに、それに気づき、身体とつなげてやるか。それが言葉が自由になる方向です。言葉という波は、海に解き放たれるのを待っているのです。だから、苦しみも悲しみも喜びも、すべていっしょなのです。

全身を感じられるようになると、周りの音が聞こえてきます。全身と周りは馴染みやすい。そうして無限に広がっていくのです。



頭は分かれる方向。
身体はつながる方向。

言葉とどう付き合っていくか?

今振り返ると、この問いを持ち続けて生きてきました。そして、少しずつ深まっているように思います。

なにかのヒントになれば幸いです。なにしろ言葉を超えていくプロセスなので、言葉の世界のような正解がある訳ではありません。ぜひいろいろ工夫してみて下さいね。

コーチングのセッションでは、こうした気づきをクライアントさんといっしょに体験しています。何か響いた方は、ぜひいっしょに探究していきましょう。

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