トンネルと自分

【禅語 百不知百不会】 「分からない」は智慧の種

皆さんは、仕事に行き詰まったとき、どうしていますか?

答えが出るまで、考え抜く。
何か行動をおこす。
誰かに相談する。

ビジネスにおいては、
「分からない」という状況がやってくると、
何とか解決しようとします。

分からないことをそのままにしておくと、
能力が低いと見なされるかもしれない。
以前の私は、そんな強迫観念もありました。

では、あなたは分からない状態は好きですか?

好きですという人は希ではないでしょうか。

それは、分からないことが苦しいから。

悩みでいっぱいになって、何も手につかなくなったり、
無気力になったり。

何度も嫌なことを思い出したり、誰かを責めたり。

いい答えはないか。

早く答えを出したいが、正解が分からない。

行動を起こすかどうか。
でも、上手くいかないときが怖い。
でも、何もせず手をこまねているのもどうなのか。

真面目で頑張っている人ほど、
どうにもならない、分からないというのは苦しい。

では、分からない状態とどう上手く付き合っていけばよいのか。

実は、分からないことを解決するだけが答えではないのです。
禅と出会ってから、分からないときの悩み方が
変わってきたように思います。


以前、禅の師匠である藤田一照さんが、
「分からないことは解決するだけが道ではない。
分からないことと共にいると、分からないことが深まっていく。
分からないことは、何かが生まれる種かもしれませんね。」
と話されていました。

たとえば、好きと嫌いという軸で物事を考えている次元では、
出せる答えは限られています。
そこに、役に立つ、役に立たないという軸が
加わったとします。

すると、役に立つし好き。役に立つが嫌い。
役に立たないが好き。役に立たないし嫌い。
という4つの選択肢が生まれます。

このように分からないという状態は時間が経つにつれて、
深まっていきます。

また、藤田さんは、
分からないというのは魚を捕るときの網のようなものだと話されていました。分からないまま放っておくと、だんだん網の目が細かくなっていく。

頭で無理矢理解決しようとするのは、
粗い網の目の状態で、何か答えを出そうとすること。

それでは、いつも同じような粗い答えしか導き出されません。
むしろ、考えることを諦めたときに、
何かが立ち上がってくることもあります。

自力で出した答えではなく、
どこからか答えがやってくる感じともいえます。

答えを出すというのは、能動的に関わるアプローチ。

「悩んだときは、坐りなさい。」

これが師匠から教わった、私にとっての禅です。

分からないまま坐る。

これは、分からない状態を受け入れ、ただともにいるという
とても受動的な姿勢です。

坐っていると面白いですね。
最初は、なんとか答えを出そうとする思考が
懸命に働いてくれるのです。

「思考は分からない状態が好きではないのだな。」

そんなことを感じながら、ただ坐っていると、
思考も答えを出すことに飽きてくるのでしょうか。
静かになっていきます。

分からないことがあったことさえ、どこかに行ってしまいます。

そうしていると、また「分からない」ことが戻ってきたり。

戻ったり、消えたり。

そうして、坐る時間がただ過ぎていきます。

また、坐るのだけが禅なのではありません。
たとえば自転車に乗っているとき、近くの公園を歩いているとき、
電車に揺られながら目を閉じていると、
心は静かになっていきます。

禅の心は、どこにでもあります。

葛藤していても、ご飯がすごく美味しかったり、
新緑の美しさにハッとしたりします。
人って不思議な力をまだまだ持っているのだと思います。

禅の心でただ過ごし、分からないことを忘れた頃。

ふと「気づく」ことがあります。

私の場合は、分からないという場所から生まれた答えではなく、
どこか違う場所から何かがやってくる感じかもしれません。

この「気づき」は心に吹き込んでくる新たな風。

すぐに解決してしまうと、この気づきには出会えません。

分からないは智慧の種。

分からないが熟成される中で、生まれてくる智慧が
「気づき」と言えるのではないでしょうか。

悩み抜くことができる、鍵のように思います。

あるクリエイターの方が
「アイディアとは漬物のようなもの」と言われたのが印象的でした。

美術館で美しい絵を見ても、
そのときいきなりインスピレーションが湧き出してくることは少ない。

数ヶ月、数年後に何かを考えているときに突然思い出したり、
あるいは気がつかないうちに何かに生かされていたり。

見たモノ、聴いたことをいきなり活かそうとするほど、陳腐になる。
寝かすことが大事だということでした。

分からないときに2つの選択肢を持つことで、
普段の仕事も変わってくるのではないしょうか。

原因を追及し、解決しようとするのか

それとも分からないことを寝かしてみるのか。

なので、最近は速さを優先するテーマと
深さを大事にするテーマと、
対応を分けるようになりました。

大事なことについては、安易に答えを出さない。
分からないままギリギリまで寝かしておく。

以前よりも、「分からないこと」と
ただ共にいることができるようになりました。

「百不知百不会」(ひゃくふちひゃくふえ)という禅語があります。

宋の時代に活躍した無文禅師が悟りを得た後に残した言葉とされていて、
「自分はまったく知らないし、なにも分かっていない」という意味だそうです。

私たちはどこから来て、どこへ行くのか?
生まれてきた意味は何なのか?
この世は分からないことだらけです。

修行の末に達した境地が、
分からないことを分かるということだったとは。

藤田老師に質問しても、
何か明確な答えをいただけることはほとんどありません。

そもそも私が発する問いそのものが浅く、
まだ本当の問いではないのだと思います。

やはり「気づき」は誰かに与えられるのではなく、
自分自身が体験するしかないのだと思います。

果たして、これから「分からない状態」から何が起こってくるのか。
そう思うと、少し楽しみでもあります。


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