自由になるための読書論

はじめに

 読書は、人間に許された最も幸福で、最も心身が伸びやかになる方法だ。たかが読書、されど読書である。ただ多くの本を読むことだけが読書ではない。ただ正確に文脈をまとめられるだけが読書でもない。小説を読むだけが読書ではない。哲学書を読むだけが読書ではない。読書は、あらゆる書物、あらゆる表現を読んだときに自己の心の奥に発する燈火そのものであり、燈火に照らされる己の心の内側を見つめる行為でもあり、そして人々を燈火で遍く照らす叫びである。
 世の中には、本をよく読む人と、まったく読まない人に大別される。中間層がほとんどいない印象がある。例えば、「月に1冊も本を読まない」という人はいるだろうし、「月に10冊も20冊も本を読んで本棚がいっぱいである」という人もいるだろう。しかし、「だいたい月に2冊をコンスタントに読んでいる」という人はあまり見かけたことがない。このことは、読書が習慣になっている人となっていない人との間で大きな差があることを物語っているように思う。読書が習慣になってしまうと、新しい領域の読書に挑戦したり、あるいはもともと興味のある領域の読書を隅々までしようと際限なく関心の幅が広がっていく。一方で、活字を読むことが苦手な状態だと、そもそもあまり書店に行くこともないだろうし、読むといっても雑誌の類を一瞥して終了という人も多いのではないか。そこから先は興味も広がらないし、そういう状態で200ページも300ページもあるような本を根気よく読もうとは誰も思わないだろう。
 残酷なことに、この世の中には死ぬまで読むことのできない本がたくさんある。人間の寿命と、存在している本の割合があまりにも多い。このことについて、恐らく読書が好きな人は少し残念に思うだろうし、読書をしない人は興味の範囲外だからそんなことを言われても想像がつかないことと思う。学業も、仕事も、みな読書から遠ざけるように忙しさを増していく。その荒波の中で、読書という救命浮輪をしっかりと掴むのか、それともあっけなく離してしまうのか。勝負はそこでついてしまうように思う。
 私はすべての読書家と、読書に興味を持たない人々にお勧めしたい。読書は人間が己の本質に気づくことができる唯一の方法と言ってもいい。そんな読書に魅入られて、好きな本を好きなだけ読む幸せを求め、その手段としての読書法や読書の本質について、少しでも伝えることができたらと思う。巷間に溢れる人々の読書への思いを、私なりに解釈して再考という形でまとめることにする。

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