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短編小説:ガーネットの誘い水

 真っ白なカンバスを、様々な色で埋めるのが好きだった。そこは何を描いてもいい、約束された自由。空を描くこともあった。くじらを描くこともあった。何も思いつかないときは、意味のない線を引いた。線と線が交わり、そこに意味が生まれることもあった。出来上がった絵を見るとほっとして、わたしはまだ描ける、もっと描ける、誰よりも素晴らしいものを、と誇らしくなったものだ。
 この先もずっと、こうして生きていくものだと信じきっていた。絵に描いた餅はわたしの腹を満たし、住居を構え、洋服をまとうものだと。

 足もとを見る。歩きつくした黒いパンプスがそろそろ寿命ですよと泣いていた。全身鏡に映っているのは、くたびれたパンツスーツのくたびれた顔の女だった。
 そんなこともあったよね、と自分に声をかける。そうそう、わたしだって夢があったんだ。誰よりも素晴らしい絵を描くこと。大人になって何かしらの役割を振られると思うけど、わたしは絵を描いて人々に驚きと感動を与える係になりたかったんだ。でもそれって誰の腹も満たせないよね。つまり自分の腹も満たせないってことじゃないか。
 だからわたしはすんなりと方向転換し、広告代理店に入社した。夢が叶わなくったってどうでもよかった。それよりも恥ずかしかった。何もかも中途半端なわたしが人様の心を揺さぶって、あわよくば金がほしい? バカじゃないのか?
 大人になって、ちゃんと自分のお守は自分でできるようになった。ご飯を食べ、家賃を支払い、スーツを着る。どこに出しても恥ずかしくない人間となった。わたしは現状に満足している。

 はずなのに。時々胸に冷たい風が吹くんだ。風が吹いて、木の葉が飛んで、その向こうに女の子が立っている。女の子は淋しそうにつぶやく。「どうして誰もわたしの絵を見てくれないの?」
 あのね。絵なんて誰でも描けるのよ。特別上手でもない、特別奇抜でもない。そんな絵を誰が見ると思っているの? そりゃあなたは子どもだから。大人はあなたを褒めるでしょう。でも、それだけ。何も思ってないの。心なんて動いていないの。「将来は絵描きだね」なんて無責任なことを言うの。
 今のわたしを見てごらん? こんなに立派になったでしょう?
 女の子は左右に首を振る。「つまんなさそうな顔してる」
 わたしが? つまらない? 何を言うか。毎日いろんな仕事をさせてもらえて、いろんな人に感謝されて充実している。今のわたしが満足しているなら、めでたしめでたしじゃないか。
 女の子は背中を向けて歩き出した。話にならないとでも言いたげに。わたしだってそう思う。だけど、それじゃあいけない気がして。ちゃんと話を聞いてあげたいのにどうしても反抗してしまう。わたしは止めることもできずに背中を見送るだけだ。

「あなたにはガーネットを授けましょう」
「ガーネット、ですか」

 この頃心の中の葛藤で忙しく、仕事で次のステップに踏み出せずにいた。踏み出したい、のに、心の中の女の子が邪魔をする。だから力強く一歩を踏み出すための、"お守り"がほしかった。
 同僚に訊くと、お守りにぴったりな天然石のお店があるらしい。そこでは悩みや占いの結果から、ぴったりの天然石を選んでくれるのだそうだ。石には以前から興味があった。この機会にお迎えしてみようと思って、店に足を運んだのだ。

 そこには自分のことを"魔女"と称する、いたって普通な女性がいた。柔和な笑顔を浮かべるその人に、どこか安心感を覚える。
「こちらがガーネットです」
 手からいくつかの丸石が転がる。黒色のように見えたが、光を透かしてみると透き通る赤い色をしていた。それは全身をみなぎる血のように赤く、燃え盛る炎のように鮮やかに、心の奥底に呼応するようだった。
「1月の誕生石です。1月生まれのあなたとよきパートナーとなるでしょう」
「はあ……」
「そしてなにより……ガーネットは情熱を意味する石です。あなたの胸に熱く、静かに渦巻いている願望を花咲かせてくれる」
「願望ですか。昇進ですかね」
「いいえ」
 魔女はまっすぐ目を見つめてきた。「もっと心の奥底にある根源的な、願望」
 どきりとした。魔女はわたしを見つめているのではない。わたしの心の中の女の子を見つめている。その願望は……絵を描くことだ。

 絵を描いたって誰も見てくれないじゃない。わたしの表現することは幼稚でありきたりなものなんだから。
 今でも覚えている。両親に「絵で生きていきたい」と言ったときの、落胆した顔。昔は何か描くたびに褒めてくれていたのに、その顔を見た時に人格すら否定されてしまったような気がして。
 その瞬間に、わたしは子どもを辞めたのだ。心に子どものわたしを置き去りにして、そのまま見ないふりをした。

「わたしの願望は、夢は、叶うわけないし。今更そのために職を捨てることもできません」
「あなたの夢は仕事にすることですか」
「そういうわけじゃないけど。仕事にならないことをしても」
 そこまで言って淀んだ。仕事にしたところでわたしは満足するだろうか?
 ガーネットを見つめる。情熱の石。わたしの胸に燃え盛るような情熱はあるのだろうか。本当にわたしのパートナーになりえるのだろうか。

 沈黙が訪れる。不思議と必死に言葉を紡ごうという気持ちは沸いてこなかった。心地よい沈黙だった。
「あなたは」沈黙を破ったのは魔女だった。
「あなたは恐れているのではないですか」
「恐れ……」
 はっとなる。わたしにとって絵を描くことは、自分の弱いところをさらけ出すようなものだった。わたしの弱いところを、誰かに見てほしかった。いや、そうじゃない。即ちそれは……認められたいのだ。
 わたしの外面や結果だけじゃなくて、わたしの弱いところも全部ひっくるめて認められたかった。だからわたしは絵を描き続けていた。

「わたし……認められたいんです。だけどいまさら、誰がわたしを認めてくれるのかなあって。怖いんです」
 魔女は愛おしげに目を細めた。
「あなたのその正直な気持ち、わたしは認めますよ。あなたも、自己表現ができた自分を認めてあげてください」
「できるでしょうか」
「そのサポートをするのがこの石たちです。あなたが自分自身に正直になれるように、そんなあなたを認められるように。この石たちがそっと寄り添って、あなたの力となります」
 ガーネットを掌に乗せた。ひんやりと石らしい触り心地なのに、触れている場所がぽかぽかする。暖かさが掌から、手首、血管をつたって全身に広がるようだ。
 この石しかない。わたしは確信し、ブレスレットにしてもらうことにした。
「では、魔女が魔法を込めて。あなただけの魔法陣を紡ぎます」
 魔女は楽しそうに、次々とガーネットを取り出した。机の上は薔薇の花びらを散らしたように艶やかになった。

 帰り道。あたりはすっかり暗くなって寒さも強くなったが、手首にぴったりと収まるガーネットの魔法陣はほのかにぬくもりを宿していた。心の中の女の子が、あったかいニットの帽子と手袋を身に付けているようで。穏やかな気持ちになった。
 絵を描いたってきっと誰にも見てもらえないよ。落ち込むかもしれない。「それでもいいよ。それでもわたし、描きたいの」
 あなたが、わたしがそう言うなら。わたしは絵を描きたい。真っ白なカンバスに空を描きたい。くじらを描きたい。まだ見ぬ未来を描きたい。
 体中が熱くなるのを覚えて、寒さも忘れて画材屋に向けて足を運んだ。

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