我慢していた子どもからの羽化

人によって大なり小なり「物語」と関わって生きてきたはずだ。私は両親ともに本好きの家に生まれ、母方の伯母が結構な漫画収集家だったころもあり、小さなころから漫画を読めていたので「物語」は物心つくころには身近なものとして存在していた。

そんな「物語」と共に育ち、進学と共に上京し一人暮らしを始めた田舎ものは、すぐに深夜アニメにのめりこんだ。まだ私が学生のころはYouTubeやらスマホが出始めくらいだったのでそんなに関わらずに生きてこれたのが今の学生とは違うところだと思う(ニコニコが全盛期くらいの時だ。私はニコニコ実況者たちがYouTubeにも出始めたくらいからYouTubeを見始めたのでニコニコにはあまり縁がない)


何故だかわからないが、地元の私の友人たちにはヲタク趣味の同級生が全くいなかった。むしろなぜかギャルばっかりだったのだ(私自身はギャルとは程遠いが意見をしている)彼女たちの関心はもっぱら恋愛だったり音楽(J‐popやK‐popなどAKBが出始めくらい)だったりスポーツだったり、アニメや漫画の世界とは程遠かったので、なかなか私は「自分がそういうものが好き」と言い出せなかったのである。


その中でも衝撃的だったのは「涼宮ハルヒの憂鬱」だった。

大学進学をして上京してからかのアニメを見始めたのだが、それは衝撃的で、自分にとってはセンセーショナルで、新しい世界を見せつけてくれた。なにをどう感化されたかは言語化は難しいけれども、「ハルヒ」という作品が私にヲタク趣味のガソリンを一気に入れてくれたのだ。

それからはいろいろと我慢していたものが爆発し、ままあって、いまは開き直ってアニメや漫画がそんなに好きでもない人にも「まあヲタクだよ」と自己紹介ができる。

「ハルヒ」と出会ったことで私は我慢していた子どものさなぎから羽化することができたのだ。

社会人になってから、ものをつくったり選んで買ったりする立場になり、いかに「クリエイター」という仕事のすばらしさを発掘するかが人生を楽しむ一つのエッセンスになってきた。アニメや漫画もピンキリだが、一期一会を期待し、本屋に向かってああでもないこうでもないと言いながら物色したり、kindleを使って本を探すのが今の私の好きなことの1つだ。


忌まわしい事件があり、今は遠い国の田舎にいる私でさえ胸が痛み、一緒に住む現地の家族も日本の心配をしてくれた。

思い出すだけで胸が痛い。

ニュースを見れば見るほどに涙が出てくる。

ご冥福をお祈りします。願わくば、彼らの残したものが多く残っていますように。