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1.イツハク・ラビンはヒトラーだー!!イスラエル反オスロ合意デモ

3418文字

最初に

イスラム調べに移動していたが、オスロ合意関係の調べは終わっておらず、まだまだ続く(^_^;)。
当時イスラエルではオスロ合意を潰せーーと右翼共が大変なことになってた。イスラエル人は、この反オスロ・反ラビン首相デモの黒幕はネタニヤフだと思っているようだ。暗殺への空気を作ったのはネタニヤフ。最高に邪悪な国だが、暗殺からイスラエル人からしてもイスラエルという国は変わり、イスラエル人も追い詰められている。

ラビン首相暗殺、オスロ合意終了、何がどうなったかを確認していく・・。


イスラエル - オスロ反協定デモ

Israel - Anti-Agreement Demonstration

木曜日の夜(6/10)、数千人の右翼デモ隊がエルサレムに押し寄せ、通りを渋滞させ、交通を停止させた。

オスロ2合意に反対するデモはエルサレムのミッドタウンから始まり、デモ隊はその後、合意の最終批准をめぐる重要な討論に間に合うようにクネセトまで行進した。

ショー: エルサレム、ジオン広場 6/10

横断幕を持った数千人のデモ参加者。 警察の列はプロ・ユダヤ教(pro-jewish )支持のスローガンで埋め尽くされる。英語のSOTアリエルシャロン:
「私たちが過去に知っていたラビンではない。まったく違う男だ。弱い男、シオニズムの基本的な要素だけでなく、テロ組織に屈服した男。」

英語SOTベンヤミン・ネタニヤフ:「イスラエルの人々は本当の平和を望んでいます。本当の平和とは、安全と信頼できる相手との平和を意味します。彼らはここにそれがあるとは感じていなない。彼らは偽物ではなく、本当の平和を望んでいます。」

バルコニーから群衆に演説するネタニヤフ首相

群衆 - ワイドに引き出す

ネタニヤフ首相、再び群衆に演説

ナタニヤフの背中 デモ参加者を横切ってパンするトップショット

たいまつを持ったデモ参加者

サイドショットで松明を持ったデモ参加者

2分3秒

ラビン暗殺:国を変えた物語

今週はイツハク・ラビン元首相暗殺から 19 年を迎えるにあたり、彼の死の前後に起きた 1995 年の政治的出来事に関する特別記事をお届けします。

キャロライン・フランク
2014年11月4日 16:57

ユダヤ人過激派イガル・アミールによるイツハク・ラビン首相の暗殺は、1995年11月4日、テルアビブのイスラエル王広場(現在はラビン広場として知られる)でのオスロ合意を支持する集会の終わりに起こった。オスロ合意は、パレスチナ領土におけるパレスチナ暫定自治政府の設立を構想していた。それはヨルダン川西岸にエリアA、B、Cを創設しましたが、パレスチナ独立国家の約束には至りませんでした。これは今日もイスラエル・パレスチナ紛争の中心となっている話題です。

暗殺までの数か月間、当時のリクード指導者(将来の首相)ベンヤミン・ネタニヤフは公共集会でオスロ運動の抗議者らに演説した。これらのイベントの中には、ナチス親衛隊の制服を着たラビン氏や、当時のパレスチナ解放機構議長ヤセル・アラファト氏に扮したラビン氏のポスターをデモ参加者が掲げたものもあった。

以下は、1995 年 9 月下旬のラビンに対する政治デモの写真です。投稿者はラビン氏とアラファト氏を「血の兄弟」と呼び、両者とも「ユダヤ人に対する罪」を犯していると非難している。

上: ラビン政権に対する抗議活動。

ラビン氏は、ネタニヤフ首相がこれらの抗議行動で暴力を誘発したと非難したが、ネタニヤフ首相はこの容疑を激しく否定した。ネタニヤフ首相はラビン政権がユダヤ人の価値観から離れていると非難した。以下は、1995 年 10 月 6 日のエルサレム・ポスト紙の一面に掲載された記事と写真です。これは、当時ユダヤ民族を分断していた緊張を浮き彫りにしています。

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