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長州藩における部落の成立から明治維新にいたる歴史

6131文字
ネットで見つけた論文のPDF要約。やはり部落と明治維新は関係があるのかと思った。難しいけど面白いし資料として取っておく。

部落問題の研究と展開 : 山口県地域を中心とした実証的史的分析:PDFリンク

URL https://hdl.handle.net/11094/37818

Note
著者からインターネット公開の許諾が得られていないため、論文の要旨のみを公開しています。全文のご利用をご希望の場合は、大阪大学の博士論文についてをご参照ください。

論文内容の要旨
本論文は、二部からなっている。第一部は「長州藩における部落の成立と展開」と題したもので、『長州藩部落解放史研究 (1980 年、三一書房)として先に刊行したものであり、長州藩における部落の成立から明治維新にいたる歴史を、 3 章 14 節にわたって分析している。

第二部は「山口県融和運動史」と題したもので、『融和運動の史的分析』 (1989 年、明石書店)として刊行されたものであり、山口県における近代部落解放運動を、主に部落改善運動・融和運動に焦点をあてて、 5章30 節にわかって検討している。第一部は本文 330 ページ、第二部は 305 ページ、 A 5 版で 600 ページを越える労作である。


第一部は、序章において、長州藩の被差別部落(以下、部落という)について、その概況を述べる。さて第一章は「被差別部落の成立」に関する問題をとりあげている。 まず中世の大内氏支配下における賎民の存在形態を検討し、部落との関連については論証できないものの、現存する史料に広くあたって、その実態を明らかにしている。

そして部落の成立は、長州藩が設置されて以後のことであるとし、それを17世紀半ば雑多な中世的賎民が「糠多」の名称に集約されるようになり、身分的に把握されるようになったことに求めている。ついで「垣之内」の地名をもっ村について検討し、 これが部落と関係があること、それは計画的に一般村より隔離されてつくられ、 この村名は垣根によって固まれた景観によるものとした。

また 17 世紀後半、藩は皮革の確保のため、各部落に「特牛皮」 (こつとい皮)の納入を命じているが、それは舞牛馬処理権とその場所(芝)の成立と一致しているであろうとしている。そして舞牛馬処理の実体についても、具体的に明らかにしている。

大内氏百済聖明王の第3子琳聖太子の子孫という。欽明天皇と関係が深かった百済の聖明王はどんな人物?


第二章は「部落差別の展開」と題するが、まず長州藩における雑多な被差別民の実態を分析する。1712 年(正徳 2) 藩は茶〜・宮番・道之者・遊君などは積多の類とする法令を出したが、 このように多くの被差別民がいたのであり、それを藩は誠多の同類としたのであった。本論文では非人・宮番・

28P

犬取り・徳定・角定とよばれた被差別民の実態を明らかにし、広く長州藩における差別状況を検討している。ついで長州藩における差別意識の拡延を明らかにし、さらに幕末になるとともにその差別のなかで、身分を越えた愛を貫いたものや、「脱賎」の道を歩んだものがいたことを述べている。第三章は、「解放への胎動」としているが、

ーでは長州藩の天保2年大一撲に随伴しておこった、いわゆる蕨多騒動をとりあげて民衆の意識情況を分析する。皮革などの「糠」れたものを運搬すると、暴風雨がおこり収穫が悪くなるという迷信があり、それがー撲のひき金になるのであるが、 これらを含む差別意識について、克明な検討をしている。

ついで二においては部落民の生業について、とくに農業と土地所有を検討する。 長州藩では部落民は基本的に田畠所有体系からはずされているが、 19 世紀以後、部落民の意欲によって、小作農としてではあるが、農業への進出が一般的となっているとする 。

三は長州と薩摩との問でおこなわれた牛馬骨の交易の実態を明らかにし、それによって巨富をえた者がいたことを論証する。そのなかの人物は後に述べる維新団の代表的存在であった。

誰だ!?

四の「高須久子と吉田松陰」は、藩の革新派の精神的指導者であった松陰に大きな影響を与えた女性について紹介したものである。 松陰には被差別民である宮番の女性登波の敵討ちを賞賛した著作があり、 その教え子、吉田稔麿によって被差別民の軍事的登用がなされたが、このように開明的な松陰の思想は、久子との出会いによるところが大きいことを述べている。 高須久子は武士階級の家にありながら、寡婦となったのち、被差別身分の者と恋愛した疑いで投獄されていたが、 ここで松陰と知ったのであった。

吉田松陰                  吉田稔麿

五・六は、幕末長州藩における被差別部落民諸隊の活動の分析である。壌夷戦争をおこなった長州藩では、藩内民衆の軍事的動員をおこない、諸隊を創設したが、その中で吉田稔麿は被差別身分から「解放」を条件に、彼らの登用を献策して、「 屠勇」の者の募集をおこなった。そして部落民による維
新団・一新組の隊が創設され、さらには山代茶筌中や上関茶筌隊が成立した。

屠勇隊(トユウタイ)
幕末の長州藩の最下層身分を組織した部隊。

とくに注目されるのは上関茶筌隊のことで、指導者の金作は自主的に隊を編成し、「賎しき者」の自覚的連帯をもって、身分解放をめざしたこと、このような性格をもった行動のため、藩は警戒して金作を捕らえ、上関茶筌隊は消滅したことを明らかにしている。 また一新組と大庄屋時政亀蔵の関係や、幕長戦争長州征伐)にあたって、これら被差別民諸隊が華々しい活躍をおこなったことを述べるとともに、隊員は一時的に身分からの「解放」はあったが、現実には差別的取扱いをうけた。

積多身分であった戦死者について記し招魂場に杷られなかったことなどの事実を明らかにしている。そして第一部の末尾には、 33 ページにわたる詳細な長州藩における部落史年表をつけて、理解に役立てている。



第二部山口県の融和運動について分析している。第一章は、明治中期にはじめられた部落改善運動について述べる。 それは部落に対して、「一般多数者」より欠陥として指弾されている、組暴・無教養・怠惰・不衛生などの生活態度を改善することによって、差別の解消は可能とする立場にたっている。

もちろんそれは差別者と差別の真因を追及しないものであるが、近代における部落解放をめざす運動の始まりであった。この改善運動は、山口県では全国的にも早く開始されたが、 それをになった河野諦円・赤松照瞳らの僧侶や、部落内の資産家の活躍を述べている。そしてそれらの運動の限界を知ることによって、やがて水平運動・融和運動が展開するとしている。第二章では、まず 1922 年全国水平社の創設とその影響を述べる。水平運動は部落解放は被差別部落

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民自身の手で獲得されるものであること、差別者に対する徹底的糾弾をおこなうことなどを運動の基本とし、また社会主義の影響をうけて、差別の原因を個人的な意識を越えた社会構造の問題であると考える者も少なくなかった。これに対して政府などは警戒を強め、水平運動に対抗する運動団体の育
成をはかった。そして山口県においては、 1924 年に半官半民の融和運動団体である山口県一心会が設立された。

融和運動は水平運動に対抗するとともに、かつての部落改善運動とも異なり、運動の対象および主体を全国民に拡大し、その反省を求めようとするものであった。とくに山口県一心会は姫井伊介が指導して、水平運動とは異なるものの、それを敵視せず、「相助」の関係を保とうとしたことが特色であったとしている。

第三章では、姫井の思想などを分析して、山口県における融和運動の思想状況を明らかにしようとしている 。 彼は小企業の社主であるが、米騒動やロシア革命を見聞し、労資対立の深刻さに考えるところがあったが、そのため労資協調主義にたって社会事業をおこない、融和運動に取り組んだのであっ
た。彼は有馬頼寧の指導する同愛会の系統に属し、部落問題は差別する側つまり「一般多数者」側の問題であるとして、一般の反省を求める立場にあった。

これは部落問題を国民全体のものとして提起する意義があったが、それを姫井は自他解放運動であるとし、「自己ノ罪ヲ知ルコトハ、差別者自ラ
ヲ救ヒ、同時ニ被差別者ヲ救フノデアリマス」
と述べていることも指摘している。

翻訳
「自己の罪を知ることは、差別者自らを救い、同時ニ被差別者を救うのであります」


融和運動
明治時代に部落出身の代議士・森秀次、和歌山の郷土史家・岡本弥らによって始められた。1914年には大江卓が帝国公道会を設立、1921年に華族で東京帝国大学助教授だった有馬頼寧が同愛会を設立、1925年にはこれらの団体を結集した全国融和連盟が発足した。1925年には国粋主義者の平沼騏一郎(平沼赳夫の父でのちの内閣総理大臣)を会長とする中央融和事業協会(中融)が発足した。

第四章では、昭和に入っての融和運動の変質をとりあげる。 1930年の世界恐慌ののち、融和運動は中央融和事業協会の統制が強められ、「一般多数者」を啓発・反省を求める運動から、 「内部少数同胞」を対象として「内部自覚」「経済更生」が運動のスローガンとして掲げられるようになったとする。そしてこのような方向で、山口県一心会青年連盟が結成され、また部落経済更生運動が組織された。

この中で政府がおこなった地方改善応急施設費補助事業は、恐慌に苦しむ部落民の生活要求に応える側面をもっていたために、融和運動は伸展し水平運動は弱体化した。水平社内部に解消の意見がでたり、部落委員会といった組織の必要性が論じられたのには、このような背景があったとする。

ついで経済更生活動のモデル的、活動として、松木淳・桂哲雄によって指導された島光社セツルメントの実践を明らかにしている。また山口県社会課の木村尭は先の補助事業の打切り問題のなかで、融和事業完成十ヶ年計画の策定を主張した。


第五章では、日中戦争の開始後の運動の状況を述べる。 融和運動の指導者姫井は地方における戦時「革新」派となり、戦争協力の道を歩みはじめ、同胞解放同志会を創設し、ついには水平社の一部を吸収して皇民会(?)の結成をおこなっている。また島光社の指導者で元労農派の活動家であった桂哲雄は、部落民と一般民を半々とする山口村開拓団をつくって、満州移民を計画した。


論文審査の結果の要旨

本論文は、山口県における部落問題について、その成立から近代にいたるまでの重要な問題をとりあげたものである。 山口県には、戦国から近世における雄藩長州藩があり、明治維新においても重要

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な役割を果たした地域である。そして近代以後も、藩閥のお膝元として特別な地位を占めた。したがってこの地域における部落問題の推移は、全国的な意味でも重要な地域に属する。筆者は山口県文書館に勤務し、同館に保管される膨大な長州藩藩政文書や明治以降・現代にいたるまでの県庁公文書を自
由に閲覧し、また山口県教育委員会の同和教育関係資料調査収集事業の専門委員として県内市町村の役場文書や図書館資料などを調査した。その間に培った人間関係によって、多くの人々から聞き取り調査をおこなって、運動の細部までも分析しえた
のも、その特色であった。

また筆者が本論文に取り組んだ時期は、部落史研究が飛躍的発展をとげた時期にあたっているが、なかでも山口県の部落史研究は、豊富な資料の存在とあいまって,日本でも有数の研究水準の高い地域に属する。そのなかで、筆者はつねに研究をリードしてきたすぐれた研究者であった。本論文は、この筆者の研究成果をまとめたもので、山口県部落史に関する最初の本格的研究書であり、被差別民の成立から近代の太平洋戦争期にいたるまでの流れを、独力で明らかにした労作である。

まず本論文は、あくまでも実証を重んじて、多くの新事実を明らかにした。一部における、長州藩における舞牛馬処理権の研究、非人・宮番・犬取りの実態、薩摩との牛馬骨の交易、高須久子の紹介、被差別民諸隊の活躍とその顛末、なかでも上関茶釜隊と金作の事績を明らかにしたことは、本論文の
すぐれた成果である。また二部の研究についても、 もともと近代部落史研究の主流が水平運動の研究にあって、改善運動や融和運動をとりあげることはほとんどなかった状況のなかでなされた。

したがって融和運動の研究は、最近においてはじまったにすぎないし、事実、刊行された本格的な研究書は、本論文を含めて、二、三にとどまっている。その意味で、本論文は融和運動の研究分野における大きな貢献であり、もちろん山口県における部落解放運動の研究として、最初のまとまった研究書であるということができる。そして山口県における河野諦円・赤松照瞳らの先駆的活動や姫井伊介・桂哲雄らの運動における軌跡を明らかにしているのは、すぐれた成果であった。

>本論文は融和運動の研究分野における大きな貢献であり、
詳しいが、差別はイカンという思い込みで研究していそうだね・・(汗)

また筆者は、従来の通説にとらわれず、柔軟な思考をもって史実を追及している。 たとえば天保大一授は藩の産物取立政策に反対して起こったが、それとともに部落民への差別意識が引き鉄に利用されており、それが積多村襲撃という悲劇ともなったのであるが、この背景として部落民の経済的発展
があり、
それが差別意識とあいまって農民の恐怖と反発を買ったとする点などは、その一例である。

つぎに本論文は、実証的研究を通じて、部落史研究における多くの論点について、理論的問題提起をおこなっている。 70 年代以降の部落史研究においては、部落民が土地所持から疎外されているといった通説を否定して、土地所持の事実を明らかにしてきた。筆者は、本来、部落民は幕藩体制の下にお
いて、土地を所持し農業をおこなう存在であったか、という問題を改めて提起し、長州藩やその支藩の法令から検討して、本来、部落民は身分として土地所持を認められていないことを主張した。また近代における部落改善運動・水平運動・融和運動のそれぞれについて特質を明確にし規定をあたえているのも、重要な提案であった。

このように本論文は、部落史研究におけるすぐれた実証的成果であり、その実証に支えられて、理論的な問題にも取り組み、運動や個人の評価も的確であるといえる。 もちろん長州藩藩政史や山口県県政史のなかで部落の展開を位置づけることなど、さらに深めるべき問題は指摘できるが、本論文が

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全国的にみても重要な地域における部落の歴史を包括的に研究し、とくに主要な諸問題を精細に検討して、部落史研究に大きな貢献をおこなったことは明らかであろう。その意味で本論文は新しい部落史研究の水準を生み出した成果である。本研究科委員会は,学位請求論文として充分に価値のあるこ
とを認定するものである。

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おわり


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