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『古事記』『日本書紀』『出雲風土記』の『大国主』の国譲り+α

ここに、『古事記』『日本書紀』『出雲風土記』の国譲りの文がある・・・
年単位をまたいで翻訳し、やっと完成。世間にあるやつより詳しいと思うよ。6547文字

明治4年、杵築大社が出雲大社に

出雲大社は古来から、その地名に由来して杵築大社と呼ばれてきた。明治4年(1871年)に、出雲大社と改名した。

宇迦能山の山麓の杵築に住んだ大国主

大国主が国を天照の子孫に譲ったあと、杵築大社を自らの住居にした。宇賀郷と杵築大社の位置関係を調べると、宇賀郷は出雲郡の楯縫郡に接している。
宇賀郷の南には山脈があり、現在の太々山(341m)、天台ヶ峰(490m)、鼻高山(536m)、旅伏山(412m)が東西に並んでいる。杵築大社は山脈の南西の麓に位置しています。宇賀郷とは反対側にあり、少し距離が離れている。しかし、この山脈を宇賀の山と考えるなら、杵築大社は確かにその山の中にある。つまり、須佐之男命が言う「宇迦能山の山本の大神殿」とは、杵築大社を指し、大国主の将来の住居となったのか?


1.『古事記』の “大国主神の国譲り”

自分の住処として壮大な宮殿を立てることを条件に、大国主神が統治していた葦原中國すなわち瑞穂の国を、天つ神の御子に差出すことを了承したという一文が記されています。

ただ僕(あ)が住所(すみか)をば、天つ神の御子の天津日継(あまつひつぎ)知らしめす、とだる天(あめ)の御巣(みす)如(な)して、底(そこ)つ石根に宮柱(みやばしら)ふとしり、高天の原に氷木(ひぎ)たかしりて治めたまはば、僕(あ)は百足(ももた)らず八十(やそ)くま手に隠れて侍(さもらひなむ

いつものワザと読めないようにした文

ワシ:葦原中國って瑞穂の国のことだったんだ・・瑞穂の国=大和なのか、違うのか?天つ神の御子に差出す・・・唐に差し出す話だよな。

【翻訳】

ただ僕が、住処をば、天つ神の御子の天津日継を知らしお治めるに足りる、天のお巣のように、石根の底まで宮柱を太く知り、高天原の氷木が高いのを知って治め給えば、僕は百に満たない八十(歳)、熊手に隠れて田舎で控える。

氷木=千木 のうち、先端部分が横削ぎになっているもの

原文は「僕は百に満たない八十」だから”歳”のことだろな。
知らしめすの翻訳は普通は「知らしお治める」になるだろうが、「知らし〆る」かもな。「〆るが治める」に変化したのではと勘ぐっているんだけど・・・。


2.『日本書紀』の国譲り

大国主神が、一定の条件を呑んで潔く国を引き渡す見返りとして、壮大な宮殿を建てることを、高天の原にいる高皇産霊尊の側から申し出たことが書かれている。

稲佐の浜の夕日と「天日隅宮
佐の浜は南北約 10km にわたる砂浜で、かつては西へ開いた出雲の海の玄関口として多くの船や人を迎えました。「国譲り神話」の舞台となったのは稲佐の浜の北端で、この弁天島がある辺りと言い伝えられています。ここでオオクニヌシは国譲りを承諾した。

今、汝がところ 言うことを聞くに、深く その理りあり。故、更に条にして勅使 給う。
それ 汝が 知らす 顕露(あらわ)の事は、これ 我が 孫 治すべし。
また 汝が住むべき 天日隅宮は、今 供 造りこと、即ち 、の栲縄を以て、結いて 百八十 紐にせむ。
其の宮を造る制(のり)は、柱は高く太し。板は広く厚くせむ
又 田 供 佃(つく)らむ。
又 汝が往来(かよ)いて 海に遊ぶ 具(そなえ)の為には、高橋・浮橋及び 天鳥船、亦供 造りまつらむ。
又 天安河に、亦打橋 造らむ。
又 百八十縫の白楯 供 造らむ。
又 汝が祭祀を主らむは、天穂日命、是なり。とのたまふ。
( 『日本書紀』 岩波文庫版 巻第二 神代下 第九段 P136~138 )

クソ読めね〜〜!!(;・∀・)

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