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神仏分離 横須賀市浦賀の神社を事例に

   初めに

 この文章のもととなったものは、6年前に記した「浦賀の神社について」と言う文章で、最近それを読み直したところ、これを大幅に修正、加筆を加えて、明治初年代に全国で展開された神仏分離、廃仏毀釈の具体例として記すことにしてみてはどうかと思った。
 「浦賀の神社について」を書こうと思ったきっかけは、横須賀市浦賀町にある西叶神社、東叶神社のホームページを閲覧し、現在ではパワースポットとして紹介されることが多い両社の意外な歴史を知ったことによる。
 この文章を記すことによって、神仏分離、またその逆の神仏習合などに興味のある方の一助になればよいと考えている。

   神仏習合

 結論から書くと西叶神社、東叶神社ともに近世までは境内にあった別当寺の別当と言う僧侶が管理する神社であった。
 だがこのような形態の神社は、浦賀地区に限ったものではなく、全国津々浦々に存在し、普通に見られたものであった。
 このような僧侶が神社を管理する、つまり神を祀ると言う行為は神仏習合に基づくものである。そして、この神仏習合を生み出した思想的背景が本地垂迹説である。
 思想的背景などと書くと誰かが唱えたかのように思えるが、これは日本に仏教が伝来した時から自然的に形成されていったものである。
 その根底にあるものは仏教が伝来した土地では、土着の宗教の神を排斥したり、貶めたりすることなく、守護神として包摂する仏教の包容力である。
 このことによって仏は神の本地(正体)、神は仏の垂迹(仮の姿)と考えられるようになっていった。
 その具体例の一つに八幡神がいる。奈良時代の東大寺における大仏造立は、歴史的に有名であるが、その大仏造立が困難になった時に、大分にある宇佐八幡宮から八幡神が奈良に上り造立を霊的に助けたのである。このことによって八幡神は東大寺の守護神となった。それを祀ったのが現在の手向山八幡宮である。
 いわば八幡神は神仏習合の端緒を開いた神であり、以降、時代が平安、鎌倉と進むと八幡神は八幡大菩薩と仏教的な呼称になり、僧形八幡神と言う僧侶の姿をした八幡神の仏像が製作されるに至った。そして、その八幡神の本地は阿弥陀如来と考えられていた。

   神宮寺、別当寺

 こうした神仏習合思想の下に作り出されたのが別当寺であった。ここではまず論を分かりやすくするために、神宮寺の説明から入りたいと思う。なお神宮寺と別当寺の区分は明瞭ではないのだが、私は別当寺よりも規模の大きなものを神宮寺と考えている。
 関東の中でも有名な神宮寺であった場所が、現在の鎌倉市にある鶴ヶ丘八幡宮である。だがこの神社は近世までの呼称は、鶴ヶ丘八幡神宮寺であり、その境内には宝塔や経蔵、護摩堂などの仏教施設が立ち並び、八幡大菩薩を祀る、もしくは供養する為に社僧と呼ばれる僧侶が神前にて読経を行う空間であった。
 このような神宮寺は、全国各地に存在し現在、大社と呼ばれるような有名神社が、かつては神宮寺であったと言う場合も多い。
 それに対して別当寺は、この文章で取り上げる浦賀地区のようなローカルな場所にも存在していたと言うことができるだろう。
 別当寺の多くは神社と隣接するか同じ境内の中にあり、その神社の祭祀を取り仕切っていたのは、先にも記したように別当と呼ばれる僧侶であった。

   神仏分離

 そのような神宮寺、別当寺という神仏習合に基づく宗教空間、宗教施設は現代では見ることができなくなった。それは幕藩体制が崩壊し、薩長及びに朝廷によって樹立された明治政府の宗教政策によって発せられた明治元年の神仏分離令によって引き起こされたものである。ここにその神仏分離令を記してみる。

「一 中古以来、某権現あるいは牛頭天王の類、その外仏語をもって神号に相称え候神社少なからず候。いずれもその神社の由緒を委細に書き付け、早々申し出ずべく候事。ただし、勅祭の神社、御宸翰、勅額等これあり候向きは、これまた伺い出ずべく、その上にて御沙汰これあるべく候。その余の社は、裁判、鎮台、領主、支配頭等へ申し出ずべく候事。

一 仏像をもって神体と致し候神社は、以来相改め申すべく候事。附、本地と唱え、仏像を社前に掛け、あるいは鰐口、梵鐘、仏等の類差し置き候分は、早々取り除き申すべき事。右の通り仰せ出され候事。」   (畑中章宏著『廃仏毀釈』より)

 最初の条では、権現や牛頭天王、その他仏教用語を用いて神の名前にしてはならないことが書かれており、その神社の歴史を仔細に書いて、届け出なければいけないことが記されている。だが、それは逆に考えれば仏教用語を使って、神を祀る神社が多かったことの証でもある。
 権現というのは仏が仮の姿で現れたものという意味で、近世までは神社においても『古事記』や『日本書紀』に登場するような●●の尊(みこと)などと言う神の呼称よりも、熊野本宮の熊野権現、讃岐琴平宮の金毘羅権現、吉野金峯山寺の蔵王権現、現在でも登山客で活況を呈している高尾山の飯綱権現など一般には、権現名が定着していた。
 一方、牛頭天王についてはインドや朝鮮半島に来歴を持つとされる謎多い神であるが、疫病を広める神、逆に解釈すると疫病を鎮める力を持っている神として崇められてきた。
 牛頭天王に対する信仰を祇園信仰と言うが、その祇園信仰の総本宮が現在の八坂神社であり、ここはかつて祇園社感神院という名の比叡山延暦寺が管轄する神宮寺であったが、明治の神仏分離令で祭神は素戔嗚尊に改変された。
 現在では馴染みのない牛頭天王であるが、そもそも祇園祭は牛頭天王を鎮めるための祭りとしてはじまった。その祇園信仰は全国に広がり、各地で牛頭天王は祀られていた。でなければ、わざわざ条文に牛頭天王という名前を用いてはならないと書くはずがないのである。
 次の条文では仏像、鰐口、梵鐘などの仏具を神社に置いてはならないことが記されている。
 また同じ明治元年には、別当社僧復飾令が発布された。これもここに記してみる。

 「今般王政復古、旧弊御一洗なされ候に付き、諸国大小の神社において、僧形にて別当あるいは社僧等と相唱え候輩は、復飾仰出され候。もし復飾の儀余儀なく差し支えこれある分は、申し出ずべく候。よって、この段相心得べく候事。ただし、別当社僧の輩復飾の上は、これまでの僧位官僧返上は勿論に候。官位の儀は追って御沙汰あらるべく候間、当今のところは、衣服は浄衣にて勤め仕るべく候事。右の通り相心得、復飾致し候面々は、当局へ届出申すべき者也」   (同)

 ここで記されていることを端的にまとめれば、別当、社僧の身分の全面的否定である。「衣服は浄衣にて勤め」という箇所は、これまでの別当、社僧に神職の格好をして、神道式にて儀礼を司れという命令である。このような発布が相次いだことから、神仏習合は解体され、神仏習合に基づいた宗教空間、宗教施設は急速に姿を消していった。
 そして、この機に乗じて急進的な国学者などに先導された、仏像などの仏具や寺院そのものを破壊するいわゆる廃仏毀釈の嵐が日本に吹き荒れた。
 それは1000年近い時間を醸成して作り上げられてきた神と仏が融和した文化的土壌を一夜にして破壊した行為と言っていいだろう。
 だがなぜ、明治政府は神仏分離によって、神と仏の間に明瞭な線を引き、別当や社僧などの神前にて仏式儀礼を執り行う者を否定したのだろう。

   国家神道の成立

 その背景には明治政府の宗教政策であった神道国教化、つまり国家神道の成立があった。国家神道は『古事記』や『日本書紀』に登場する神々にヒエラルキーを作り、その祭祀の頂点に天皇を位置付け、祭政一致国家を目指し、国民をその総氏子、言い換えれば臣民を作り出すことが目的であった。
 であるから、そこに僧侶が関与する余地はなかったし、ましてや仏が神の正体であるとする本地垂迹説などは当然否定の対象になった。また、そこから生まれた権現や素性のよく分からない牛頭天王などは、国家神道の末端装置として機能することになった神社から取り除かなければならないものであった。
 これらの神仏分離、廃仏政策を推し進めたのは明治政府内にいたと思われる急進的な国学者などで、そこでは古代の復古として国家神道を目指していたと思われる。
 しかし、これは私の推論なのだが、明治政府の内部には当然、日本の近代化を目指す者たちもいた。それらの者たちは悪戯に古代の復古を夢見て、国家神道を成立させたとは考えにくい。それらの者たちにとって国家神道は、神道の近代化を目指すものではなかったのだろうか。
 日本の近代化を目指す者たちがモデルにしたのが、欧米の国家像であった。例えばイギリス国教会というものがある。そこでは王の戴冠式から葬儀まで、王に関する儀礼は国教会が担うのである。
 天皇家の儀礼も、天皇が即位する儀礼でさえ、近世までは即位灌頂と言って仏式のものであった。そういった仏式のものを一切取り払い天皇家、もっと言えば国家の儀礼は全て神道が取り仕切る。そして、その頂点に位置する天皇は司祭者であり同時に、西洋的な君主なのであるという形を彼らは作り出したのではないだろうか。
 言わば国家神道とは古代の復古と近代化の折衷によってできたものではないだろうか。そう言った彼らにとって、やはり神仏習合は取って捨てなければならない過去の遺物であったのだろう。

   近世の神道

 先に神道の近代化と書いたが、では近世までの神道はどのようなものであったのだろう。ここにその略説を記したい。まず神仏習合を中心的に推し進めたのは、仏教の中でも真言宗や天台宗の密教であった。
 その真言宗によって解釈された神道を両部神道と言いこれも神道と考えられていた。天台宗によって解釈された山王一実神道もそうである。
 また近世まで神道界をリードしてきたのは、神祇官長上であった京都、吉田家が提唱する吉田神道であった。寺院のように本山末寺制度がなかった神職は、後ろ盾がなく近世において身分的に不安定な存在であった。そのようなこともあって、近世の神職は吉田家に依頼して位階などを賜っていたのである。
 さらに伊勢、出雲、諏訪など神道は地方によっても、その特色を異にしていた。そのような現在の大社と呼ばれる神社には、社家と言って代々その神社の奉仕する神職の一族がいた(例えば諏訪大社なら守矢家)。しかし、この社家制度も明治になると廃止された。
 また伊勢神宮は近世末において、お伊勢参りで活況を呈していたが、それを陰で支えていたのが御師と呼ばれる者たちであった。彼らはその神社のご利益を全国に説いてまわり、その参拝客を先導する現在で言えば、ツアーコンダクターの役割を果たしていた。しかし、この御師制度も明治になると廃止された。
 一見すると明治政府の宗教政策は、神仏分離令などに見られるように、仏教の形を改変させたかに見えるが、その実は神道の姿さえも改変させていたのである。

   西叶神社について

 

(西叶神社)

 前置きが非常に長くなってしまったが、ここからは浦賀町における神社の神仏分離を具体的に見ていきたい。そのための資料として、江戸幕府が地誌書として編纂した『新編相模国風土記稿』(天保12年:1841年。成立)を資料として用い、実際に私が浦賀の神社に行って分かったことも加味して論を進めたい。
 まずは『新編相模国風土記稿』より、西叶神社に関する箇所を抜粋してみる(一部旧字体を改めた)。

「総鎮守なり、祭神は応神天皇なり、(中略)養和元年文覚源家繁栄の祈祷として石清水八幡宮を爰に勧請す、平家西海に亡び所願成就せしかば文治二年今の神號に改めしと云、本地仏阿弥陀如来、例祭九月十五日、東浦賀の同社と隔年に祭る。
△別当感應院 虚空山西栄寺と號す、古義真言宗逗子村延命寺末、本尊不動又虚空蔵を安ず」

 ここからかなりのことが読み取れる。まず西叶神社を作った人物は、文覚(生没年不詳)という真言宗の僧であるということが記されている。話をわかりやすくするために、文覚は源頼朝(1147~1199)の護持僧であったということにする。
 護持僧とは貴族や武士を個人的に、霊的に守護する僧侶のことである。その文覚は源氏の繁栄のために、養和元年(1181)、京都石清水八幡宮より、祈祷として浦賀の地に八幡神を勧請した。ここで八幡神が選ばれたのは、源氏が京都にいた時代から、その氏神を八幡神としていたからである。
 だが本文には「祭神は応神天皇なり」とある。ここが八幡神の性質の複雑なところで、この神は神仏習合によって八幡大菩薩と呼ばれる一方で、応神天皇とも習合していた。応神天皇は『日本書紀』に記されている人物であるが、実在したかどうかは議論が分かれている。
 その応神天皇の母が神功皇后で、「三韓征伐」で有名な人物であるが、神功皇后はその戦の最中にあって、応神天皇を腹に宿していたことから、この親子は戦神として尊崇され、特に武士などの信仰を集めてきた。ここでの八幡神は菩薩というより、戦神としての性質が強調されているのだろう。
 そして平氏が滅亡する願いが叶ったことから、文治二年(1186)、叶神社という神号にしたとされている。またその本地は阿弥陀如来とも記されている。
 別当寺に関しては、その名称が感應院虚空山西栄寺であったとあり、その本山は逗子村の延命寺であるとしているが、この延命寺は現在でも逗子にある寺で、逗子大師を名乗っている。
 昔は田舎本山と呼ばれる寺があり、延命寺がそれであった。田舎本山とは、例えば三浦半島なら三浦半島の同じ宗派の取りまとめ役であったのだが、延命寺は逗子から葉山、三浦半島の高野山真言宗をまとめていて、感應院はその末寺あったことが分かる。
 感應院の本尊は不動明王、または虚空蔵菩薩と記されているが、この虚空蔵菩薩は文覚自刻のものとされていた。
 西叶神社の別当寺として栄えていたであろう感應院であるが、先に記した明治元年の神仏分離令、並びに別当社僧復飾令を受けて、別当は神職に身を転じた。西叶神社のホームページにはこのように記されている。

「明治元年八月、第六十九代法印玉応は、別当住職をやめて神官になり、「神明の感応と奇瑞の現象を永く記念せんが為」姓を感見と改め、感見清(信明)と名乗った。この人をもって、西岸の叶神社の初代神官とし、現在の感見武宮司は第七十四代目(神職宮司五代目)になる」

 西叶神社の祭祀者74人の中で、神職が5人しかいないということは、別当寺の時代がどれだけ長かったか想像がつくであろう。
 ちなみに感應院は現在の社務所がある場所に建っていたと考えられる。現在は仏教色を感じさせない同社だが、その境内をよく観察してみると別当寺時代の痕跡が残っている。
 まずは石の塚のような塊があるのだが、そこに石仏がある。その姿は甲冑を着けていて、神とも仏とも判然とできないのだが、銘文には判読できなくなっているのだが、●●権現と記されている。また違う石仏は青面金剛のように見えるが、光背が火炎であるところから明王のように思える。
 

(西叶神社の権現像)

 狛犬も見てみたのだが、そこにも感應院の名前があり、さらに講中の名前があって、それは関西方面のものまであった。
 また社殿の前にある金銅製の灯籠にも感應院の名前が台座に刻まれており、それを建てたであろう別当の名前も刻まれていた。

    

(西叶神社の灯籠)
(灯籠の台座。六十六世別当實如の名前が彫られいている。さらに天保四年の銘文からこの灯籠が1834年に建ったものであることが分かる)

   修験道について

 次からは東叶神社と八雲神社について論じていきたいのであるが、その前に修験道の概略をしておきたい。なぜなら、この二つの神社が実は修験道と関わりが深い神社であったからだ。
 恐らくこの列島において、山岳信仰というものは縄文時代の昔からあったのだろう。だがその昔、山岳という空間は遠くから拝するものであり、神や精霊が住まう他界と認識され、人間が足を踏み入れることのない禁足地だった。
 だが奈良時代になってくると状況が変わってくる。むしろ積極的に、その他界に身を置き、そこで修行を経ることによって、神、仏、精霊の霊力を身につけようとする人々が現れた。彼らの多くは修行僧で、その代表的な人物が役行者、またの名を役優婆塞(伝634~701)といい彼は修験道の開祖として、仰がれるようになっていく。
 修験道は日本という風土が生んだまさに習合宗教と言っていいだろう。山岳他界観をベースに、そこに道教の神仙道、密教、神道、陰陽道、シャーマニズムなどが複雑に融合しあったものが修験道である。
 その修験道を実践する者を修験者、または山伏といい室町時代頃から近世の初頭にかけて、二大宗派を形成するようになっていった。それが天台宗系で聖護院を総本山とする本山派で、対する真言宗系の修験者は、醍醐寺を総本山とし当山派を名乗った。
 本山派、当山派の二大宗派が本格的に確立するのは、近世初めの徳川幕府による宗教政策によるものだが、役行者を開祖としない地方修験、山形の羽黒山、大分の英彦山などは独自性を保つために徳川家の菩提寺である寛永寺末に入った。
 もともと諸国を廻国して修行をしていた修験者であったが、近世になるとそれに規制が加えられ、定住化が進んでいった。これを里修験というが、彼らは村や里、都市部に定住し、そこに住んでいる者のために、加持祈祷や占い、まじないを行なった。
 修験者は妻帯が許されていたので、憑祈祷(よりぎとう)という形式の祈祷の場合は、妻を巫女として、その身体に霊を降ろし、託宣などを得ていた。
 現在では修験道、修験者、山伏と聞いてもピンとこない人も多いかもしれないが、かつては僧侶や神職と同じように、彼らは日本中の至る所にいて、宗教活動を行なっていた。
 しかし明治五年(1872)、明治政府は修験道廃止令を発布し、宗教としての修験道の禁止、及びに修験者の身分を否定した。
 修験道廃止令が出たことによって、本山派や当山派の修験者は、天台宗、真言宗の僧侶になることが強制され、羽黒山や英彦山のような地方修験は、そのまま神社となり、そこにいた修験者の多くが神職になっていった。
 明治政府が修験道を廃止した狙いはどこにあったのだろう。一つには修験道が仏教でもない神道でもない習合に基づく宗教である点を問題視したのだろう。二つには憑祈祷などに見られるように、修験者が人々に対して行なっていた宗教活動は、近代化を目指す明治政府の価値観とは相容れなかったという点があると考える。
 だがそのようなことを以てしても、強権的に発せられた法令によって、連綿と受け継がれてきた文化的伝統が、消滅の危機を迎えたことは確かなのである。

   東叶神社について

 

(東叶神社)

  以上のことを前提として、西叶神社と浦賀湾を隔てて存在する東叶神社について、考察していきたい。まずはまた『新編相模国風土記稿』を参照して、近世の東叶神社の様子を見てみることにする。

「正保元年九月十九日西浦賀の本社を勧請し、牛頭天王・船玉明神を合祀す、○神明宮 地主神なり △末社 稲荷 諏訪 金毘羅 秋葉 辨財天 護摩堂不動を安ず △別当永神寺 耀眞山階寶院と号す、当山修験醍醐三宝院末 鎌倉・三浦・武州武良岐三郡中修験二十院の触頭を務む」

 まずここから読めてくるのは、正保元年(1644)に現在の東叶神社の地に、西叶神社から祭神を勧請し祀ったことから、東叶神社は始まったということである。
 現在の東叶神社のホームページを見てみると、祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)とあるが、これは応神天皇の別名なので、同じ八幡神と考えていいだろう。 
 また同ホームページには、神社の縁起として西叶神社と同じく、鎌倉時代の文覚による伝承を載せているが、『新編相模国風土記稿』では、正保元年の勧請となっているから、この記載が正しければ東叶神社は、近世に創建されたということになってくる。
 またその際に牛頭天王と船玉明神(不明)を合祀したとある。さらに末社としては、稲荷明神、諏訪明神、金毘羅権現、秋葉権現、弁財天を祀り、境内の護摩堂には不動明王を祀っていたという、まさに神仏習合の空間が広がっていたことになる。
 さらに東叶神社にも西叶神社と同様に、別当寺があった。その名前が永神寺で、当山派修験醍醐寺三宝院末であり、鎌倉、三浦、武州武良岐(どこであるのかは不明)三郡の修験寺二十ヶ寺を末寺にする本山格の寺院であったことが分かる。
 当初私は、東叶神社が別当寺をなくし、単なる神社に転じたのは、明治五年の修験道廃止令によってであると思っていた。しかし、冷静に考えてみると永神寺の僧侶は、修験者でありながら別当でもあるという複雑な要素を持っていたと考えられる。同神社のホームページには、以下のように記されている。

「明治元年(1868)3月、明治新政府の布告により、僧位(法印)・僧官(大僧都)等を返上し還俗復飾の上姓を永井と改む」

 やはり東叶神社から別当寺がなくなったのも、明治元年の神仏分離令や別当社僧復飾令によってであった。しかし同社では大正時代ぐらいまでは、修験道独特の行法である柴灯護摩が執り行われていたようである。
 現在、東叶神社を訪れてみても、別当寺である永神寺の形跡はない。だが非公開であるが、恐らく護摩堂に安置していたと思われる不動明王像が現在でも祀られている。また境内には新しいのだが、石仏の不動明王像も安置されている。

   

(東叶神社の石仏の不動明王)

   八雲神社について

 

(八雲神社)

 次に東叶神社から、そう離れていない場所にある八雲神社について考察してみたい。ただ八雲神社に関しては、明治以後無住の神社になったらしく、西叶神社や東叶神社のようなホームページによる資料がないために、『新編相模国風土記稿』の記述からしか往時の様子を知るしかなく、分かっている範囲で推論すると明治五年の修験道廃止令によって神社に転じたのではないかと考える。

「○不動堂 本尊は智証作 △天神社 烏枢沙摩明王堂 △別当満寶院 当山修験江戸青山鳳閣寺配下、中興栄達と云ふ」

 何回か八雲神社には足を運んだことがあるのだが、そこには鳥居もなく、屋根には擬宝珠が乗っていることから、神社建築の本殿ではなく、仏教建築の本堂であることは、すぐに分かった。
 さらにその本堂内を覗いてみると、かつて使われていたであろう護摩壇があり(最後に見に行った時には撤去されていた)、そこが参照した文章の不動堂で、かつては不動明王を本尊に護摩が行われていたであろうことが推測される。
 さらにその不動明王は、智証大師・円珍(814~891)作とされているが、八雲神社が当山派修験の寺だったとすれば、これは少し不思議なことである。
 近世まで八雲神社の名称は、満寶院八雲堂というものであった。現在の社名はこの八雲堂からきているのだろうし、明治以降祭神となった素戔嗚尊も、その詠んだという和歌に八雲という言葉が出てくることから、祭神とされたのかもしれない。
 近世の八雲堂には不動堂の他に、天神を祀る天神社があり、烏枢沙摩明王を本尊とする烏枢沙摩明王堂があったようで、これは珍しいことのように思われる。
 私は八雲神社が東叶神社から距離的にも近く、同じ当山派修験であったということもあり、この二つの寺社には何か関係があるのではないかと考えていた。しかし八雲神社の参照した文章には「江戸青山鳳閣寺配下」と記されていて、この青山鳳閣寺のことが気になってきた。

    

(八雲神社の不動明王。顔面は廃仏毀釈で破壊されたと思われる)

   二つの鳳閣寺

 この青山鳳閣寺とは現在の東京青山にあった当山派の寺院で、当山派の江戸触頭を務めた上に諸国総袈裟頭を務めていて、江戸市中だけで109ヶ寺の末寺を持つ修験寺であった。
 当山派だけでこれだけの数の修験寺が江戸にあったとすると、本山派も合わせると単純計算しても200近い修験寺が江戸には存在していたということになり、その存在の多さに驚かされる。
 さらに関東近郊には八雲堂と同じような、青山鳳閣寺末の当山派修験寺が点在していたようである。
 だが、この青山鳳閣寺には元になっている寺院があり、それは奈良にある鳳閣寺という寺で、ここはもともと役行者開基、当山派修験の派祖として仰がれる理源大師・聖宝(832~909)が中興したとされる寺院である。
 その鳳閣寺が当山派修験の諸国総袈裟頭として、全国の当山派修験を管理していたのだが、江戸にあった戒定院という寺を青山鳳閣寺と改称し、鳳閣寺の江戸別院にした時から、青山鳳閣寺が諸国総袈裟頭の役職も兼務したらしい。
 このことを知った時に私の中に新しい知見と共に、疑問が生じた。それまで当山派修験の総本山は醍醐寺と思っていたので、醍醐寺と鳳閣寺の関係性というものがよく分からなくなったのだ。
 例えばこれまで見てきたように、東叶神社には永神寺という醍醐派末の別当寺があった。そこからほどない距離に、同じ当山派修験の八雲堂という寺があったのだが、こちらは青山鳳閣寺末なのである。この関係性とは一体どのようなものなのかという疑問が生じた。

   修験道教団の成り立ち

 そこで私は、そもそも当山派修験がどのようにして成立していったのかを考え直してみることにした。だが、ここでは論を分かりやすくするために、先に当山派に対する関係である本山派の成立過程を見てみたい。
 天台寺門宗の開祖であり、三井寺(園城寺)を開いた円珍は、熊野の地で修行したということもあり、まずここで三井寺と熊野の関係が結ばれることとなった。
 その三井寺の僧に増誉(1032~1116)という人物がいて、白河上皇(1053~1129)の熊野行幸に際して先達を務めた。このことから増誉は初めての熊野三山検校職に任ぜられた。さらに増誉は京都に聖護院を開創し、ここを本山派修験の拠点とした。
 また聖護院は門跡寺院でもあった。門跡寺院とは皇族や摂関家の子息が、その寺に入り門跡と呼ばれる座主となるもので、皇族としては身分の保証、寺院としては寺格の保証を約束する制度であり明治になるまで続いた。
 このように本山派は皇族など有力者との関係、また総本山である聖護院の上に三井寺があることなど政治的にも有意な立場にあった。
 これに対する当山派なのであるが、当初は当山三十六正大先達衆と称する南都などの有力寺院の連合体のような組織であった。しかし、権威性では劣る当山派は、その棟梁として醍醐寺を戴くようになる。これには理由があった。一つは醍醐寺を開創した聖宝が役行者以来廃れていたという吉野金峯山及びに、大峰山山上ヶ岳を再興したということと、醍醐寺の塔頭寺院三宝院が聖護院と同じく門跡寺院であったということである。このことで当山派は権威性を獲得していった。
 吉野金峯山から熊野本宮までの山岳道を、大峰奥駈け道といい七十五の靡(なびき)という拝所を修験者は拝して行くのだが、以上のことから本山派は奥駈け道の熊野側を重要視するようになり、当山派は吉野金峯山から大峰山山上ヶ岳側を重要視するようになった。
 私はこの連合体であった当山三十六正大先達衆の中に、鳳閣寺が入っているのではないかと思い、修験道研究の第一人者、宮家準の書籍を当たってみたのだが、そこに鳳閣寺の名前はなかった。あくまで鳳閣寺は醍醐寺の末寺であったようなのだ。
 そこで以下のことを推論してみた。本山派修験の総本山である聖護院のその上には、さらに三井寺という寺院がある。聖護院は修験道に特化した寺院であるが、三井寺は台密(天台密教)の寺院である。
 この関係を鳳閣寺と醍醐寺の関係にも当てはめることができるのではないかと思った。恐らく鳳閣寺は当山派修験の諸国総袈裟頭として、当山派修験に特化した寺院であったと思われる。だが、その上に位置する醍醐寺は当山派修験を包摂しつつも、三宝院流という真言密教の流派を伝える中心地でもあった。
 青山鳳閣寺は明治五年の修験道廃止令に伴い廃絶されたと考えられる。しかし、奈良の鳳閣寺は現在も存在している。しかも戦後に醍醐寺から独立し、真言宗鳳閣寺派という宗教法人になった。一派を構えるには、それなりの事情があったはずである。その事情というものが明らかになれば、鳳閣寺と醍醐寺の関係性というものも、より明らかになると考える。

  結びに

 懇意にしている高野山真言宗の住職と以前、神仏分離やそれに伴う廃仏毀釈について、雑談したことがある。その際、その住職は「日本でも中国の文化大革命みたいなことが起きたんですよ」と言った。
 文化大革命を振り返ると、共産主義というイデオロギーのもとに、伝統文化や宗教が破壊されていった。明治における神仏分離も、これと同じことが言えると思う。そこでは近代主義というイデオロギーが振りかざされ、伝統文化に基づく宗教は否定、破壊されていった。
 現在の日本の歴史観は、明治維新全面肯定だと言える。確かに明治維新は日本に近代化をもたらしたが、これまで見てきたように日本の宗教風土を一変させるという負の側面ももたらした。
 明治からすでに一周以上回った現在、我々はいたずらに明治維新と、それ以後の近代という時代を礼賛するのではなく、第三者的視点からそれを考察してみる必要があるだろう。
 最後は浦賀というローカルな地域の神社史を超えて、修験道の通史のような感じになってしまったが、逆に捉えれば八雲神社というローカルな神社の断片的な資料から、当山派修験の近世における組織構造のヒントを掴めたかもしれない。だが醍醐寺と鳳閣寺の関係に関しては、なお不明な部分が多くそれは今後の課題として残った。
 なにぶん浅学のため、誤った記載や不明瞭な部分が多いと思うが、それはこの文章を読んでいただいた諸兄のご指導を仰ぎたいと願っている。

 (主要参考資料)

○西叶神社ホームページ
○東叶神社ホームページ
○『新編相模国風土記稿』(雄山閣)1998年
○畑中彰宏『廃仏毀釈 寺院・仏像破壊の真実』(ちくま新書)2021年
○宮家準『修験道 その歴史と修行』(講談社学術文庫)2001年
○宮家準『修験道 日本諸宗教との習合』(春秋社)2021年

 

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