男の顔は履歴書

某日、渋谷シネマヴェーラで特集中の、「加藤泰傑作選」のなかの『男の顔は履歴書』(66年)を見に行く。

加藤泰と言えば時代劇や任侠映画で数多くの秀作、傑作を遺した職人監督、活動屋とも言える監督だ。

特に俺はやはり藤純子を大スターにした「緋牡丹博徒」シリーズが好きなのだが、このように特集上映に行くのは初めてであった。

『男の顔は履歴書』は加藤泰としては珍しく松竹作品。しかし主役は元安藤組組長・安藤昇先生である。だが安藤昇の役所はやくざではなく、意外にも町医者。

そんな昇先生の元へ交通事故で重傷を負った急患が運ばれてくる。安藤昇はその患者の顔を見て驚く。

この作品が素晴らしいのは構成の妙にある。物語を進行させながらも、時制を現在、過去、そのまた過去とうまく編集していて、作品に厚みを与えている。

時代は遡って終戦直後の混乱期。ある町に闇市マーケットがあるのだが、そのマーケットの利権を奪おうと九天同盟という三国人勢力が狙っている。

そのリーダーである内田良平は眉毛を剃り落としている。これは「仁義なき戦い」の梅宮辰夫よりも早かった。

弱体化している警察も九天同盟には手が出せず、九天同盟はマーケットでなにかにつけて暴れ回る。その急先鋒が菅原文太で、狂犬のように見境がない。東映移籍前の松竹時代の文太が見られるというのは貴重。

この狂犬のような役所がものすごくはまっていて、すでにのちの東映作品における文太の布石は敷かれていたかの如きである。

暴れ回る九天同盟に対して、マーケットの店主たちは日本人ヤクザの親分嵐寛寿郎になんとかして欲しいと頼み込むが、アラカンの組も若い衆を兵隊に取られ、今九天同盟と闘っても勝ち目はないと言う。その代わりアラカンはマーケットの地主である安藤昇に相談してみてはどうかという。

九天同盟は町で朝鮮キャバレーを経営していて、そこを根城にしている。チマチョゴリを着たアガシ(娘)のホステスがいて、そのなかに真理明美がいる。

安藤昇の病院ではパンパンの衛生検査をやっているのだが、そこにも九天同盟がやってきて、うちのホステスを先に診ろと昇に迫る。

マーケットの人たちからも九天同盟をなんとかして欲しいと懇願されている昇であるが、「もう争いごとはごめんだ」と立ち上がる気配はない。

そんななか昇は九天同盟のなかにある男の顔を発見する。マーケットの居酒屋で昇と酒を酌み交わすその男。マーケットの人々は昇が朝鮮人と飲んでいる姿を見ていぶかしがる。

昇と飲んでいるその男は、かつて沖縄戦線を共に戦った崔であった。

画面モノクロに切り替わり、壕の中に立てこもる昇たち日本兵。そとでは米軍の投降を呼びかける放送が鳴り響いている。

「俺が最初に投降する」と言って壕から出て行こうとする昇。

「貴様!生きて俘虜のはじをさらす気なのか!」それを許そうとしない上官。昇の事をかばう崔。

「貴様は朝鮮人だろ!黙っていろ!」

昇は軍医として、崔は朝鮮人軍属として沖縄戦線を戦い、その記憶はぬぐい去れないものに成っていたのであった。

「もう争いごとはたくさんじゃないか。これ以上お互いに憎しみあってなにになるんだ」

「あの時は日本のために戦っていました。でも今は自分たちの民族のために戦っているんです」

昇に立ち上がる気がないと分ったマーケットの人たちは失望する。一方、朝鮮人キャバレーで真理明美になにかと気をかけていた崔は、こんなことを聞いてみる。

「国に帰る気はないのかい」

「国に帰ると言っても私、日本で生まれたんですもの。今さら帰る国なんてないわ」

一方、若気の至り気味の昇の弟で学生の伊丹十三はあくまでも好戦的。マーケットの人たちを煽ってなんとか九天同盟に戦いを挑もうとしている。

だがそれを必死になって止めようとする看護婦の中原早苗。中原早苗と昇はねんごろな関係に成っている。

この作品が素晴らしいと思うのは、東映の同じような路線の作品が、日本人ヤクザ=正義の味方。三国人ヤクザ=悪者と往々にして図式化して描いているのに対し、日本人には日本人の立場があり、朝鮮人には朝鮮人の立場があるということを闇市という人間の欲望そのものが丸ごと投げ出された現場を通して描いていて、崔のようにそのどちらにもすっぱりと身を置けない人間も描いている点にある。

また中原早苗や真理明美のような女の視点を入れるということも任侠映画には稀な事である。

時制は現在に戻って、昇の病院に運ばれてきたのは崔なのであった。しかも女の子がいる。崔を跳ねた運送会社の社長がやってきて、その後の保証のために名前や連絡先を教えて欲しいというが、女の子は「お母さん。大使館へ行っていないの」というと社長は、「じゃあ。お嬢さん書けるでしょ。ここに書いてご覧」と紙を差し出す。

女の子が「崔春子」と書くと社長は、「なんだ。韓国人か」と冷たく言う。「バカヤローッ!」昇の一喝が飛ぶ。驚いた社長は、「な、なんだ君は。私を脅迫する気かね。君みたいな不良医者は医師会に訴えて首にしてやる」と言って逃げてゆく。

警察はついに文太を逮捕。しかしそれは火に油を注ぐだけで、九天同盟は警察署に押し寄せ「この町がどうなってもいいんだな!!」と警察を脅す始末。

そんななかついに伊丹十三を先頭にマーケットの人たちが、朝鮮人キャバレーを襲撃。しかし圧倒的勢力の差に逃げ出すものが続出。伊丹十三も捉えられリンチをかまされる。リンチをかますその一人に若き日の藤岡弘、がいて「お前ら日本人。おれたちの国でなにした?今こそ復讐する時だ」と言い放つ。

だが真理明美は隙をうかがって伊丹十三に食事を差し入れたりしている。はじめは朝鮮人を侮蔑していた伊丹もだんだんと真理明美の好意を抱き出し、二人は惹かれ合ってゆく。チマチョゴリを着た真理明美の姿が美しい。

その事を知った崔は、二人をなんとか逃がしてやろうと画策し、トラックを奪いそこに二人を乗せるが、二人は銃撃され死亡。崔も裏切り者の烙印を押される。

釈放された文太は酒に酔いながら夜のマーケットに現れ、ここをめちゃくちゃにしてやると吠える。

ことここに至って昇は立つ事を決意する。しかしそれは民族のためでもなく、国のためでもなく、誰の利害でもない弟を殺されたという個人的な決意なのであった。

その頃、マーケットの人たちは九天同盟の襲撃を恐れて、夜逃げのようにマーケットから出ていってしまう。

ゴーストタウンと化したマーケットで、安藤昇VS九天同盟の死闘の幕が上がる。多勢に無勢である。そんな事あるわけないと思いつつも加藤泰の演出の見事さで、迫力のあるアクションシーンが展開されて、文太も内田良平も絶命する。

昇は刑務所に収監される。当初は頻繁に面会に来ていた中原早苗も、次第に姿を現さなくなる。

時制は再び現在へ。崔の手術を執刀しようとするその手術室へ、崔の奥さんであり、春子の母親である女が飛び込んでくる。それは中原早苗であった。

昇収監後、崔と中原早苗はねんごろの関係になり、家庭まで築いていたのだ。

「私、みんなで韓国に行けるようにと思って大使館に行ってきたのよ。そうすればあなたも肩身の狭い思いしなくて済むし、春子だって学校でいじめられないわ!」

「ばかだな俺にとっての故郷はお前と春子がいる場所なんだ。日本だろうが韓国だろうが関係ないんだ」

その様子をじっと見つめる昇はすべてを了解したかのようであった。

「先生、どうかこの人を助けて下さい!お願いします!」

安藤昇のアップになり、昇は一言、「よし!」。

そしてエンドマーク。

これは傑作だと思った。松竹作品とは思えないアナーキーさ。だがそれは東映任侠映画のそれとも違う感触がある。大衆娯楽作品という形式の中で、ここまで深く民族差別というものを正面に据えたものが他にあるだろうか?

だがそれは決して説教くさいものではない。民族差別というものを超えて、なにか人間が生きるということの性を描いている。

へたな社会派映画や啓蒙映画なんかより、ぐっと本質を捉えている。この密度の物語がわずか89分に濃縮されているとは信じられない。傑作と言っていいだろう。

併映は股旅もの代表作『瞼の母』。長谷川伸の原作で大衆演劇なんかでもよくネタにされるコテコテの物語である。

幼い頃に母親と生き別れたヤクザ者の番場の忠太郎(萬屋錦之介)は、まぶたを閉じては思い浮かぶ、見た事もない母親を捜してあてどのない旅をしている。

が、片一方である親分に刀を向けた事から、その組の身内衆にも追われている。

最後は母親と再会を果たすのだが、母親はこんなヤクザ者が息子のはずがないと拒絶。晩感極まる忠太郎。まだ若かった錦之介の弾けた演技がいい。

三度笠の股旅姿になったところへ身内衆が現れ、忠太郎の命を狙うが忠太郎は「今夜の俺を怒らせないほうがいいぜ」とドスを抜く。

話の最初から最後まで読めるコテコテの作品である。しかし途中途中に伏線を張ったり、いろいろなキャラを登場させる事によって飽きさせる事がない。

特に加藤泰の代名詞とも言えるローアングルにこだわった画面構成が冴え渡っている。逆にこういったコテコテの作品をどこまで料理できるか、というところに職人監督の腕は発揮されるだろう。

映画館の暗闇の中で、加藤泰が紡ぎ出す人間劇に圧倒されっぱなしであった。

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