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綺麗な字の子。歪んだ字の子。 4

【初回】

【前回】

 *

 考えてから、実行するのは簡単でした。
 ただいつも通り早起きして、先輩とやらの下駄箱に淀川さんが入れた手紙を、ひょいと抜いてしまえば良いだけでしたから。

 これで手紙は届きません。
 淀川さんの想いは伝わりません。
 ほとぼりが冷めた頃、私は気を遣った風に彼女の様子を聞いて、返事のもらえない彼女に、字が汚いから断られたのかもしれない、と神妙な顔で言えば良いのです。

 なんて完璧な計画でしょう。
 そうすれば淀川さんは、また私に師事して字の練習をしてくれるはずです。
 私はその手紙を鞄にしまい込み、安心した気持ちで放課後を迎えました。
 当然、その日は練習なんてしないわけですから、私は家に真っ直ぐ帰ります。
 そして、手紙なんて捨ててしまえば良かったのに……つい、開いてしまいました。

 ……美しい字でした。

 一文字一文字に気持ちを込めて書いたのでしょう。
 時々震え、ペンの滲み方が変わり、またすっと整い始める。
 字は人の本質を表す、と母が言っていましたが、その通りだと感じました。
 手紙からは、何故でしょう。そんな言葉は一言も書いてはいないのに、淀川さんがどんな風に机に向って、どんな風に文字を紡いでいったか……そんな情景が、ありありと浮かんでくるのです。
 自然と、私は自分の行いを恥じました。
 その時になってようやく、自分がしたことの罪深さを思い知りました。
 私はこの手紙に籠められた淀川さんの想いを、踏みにじったのだ。
 ただ、自分が認められた存在でありたい一心に。
 浅ましい。愚かしい。なんて、醜い。
 胸が張り裂ける想いがいたしました。胃の中に鉛を流し込まれるような心地がいたしました。
 自分がこんなに、酷い人間だとは、思っていなかった。
 私は、その日まで、自分が善良な人間であると信じて疑わなかったのです。
 多少凡庸であろうが、その心根は善良であり、真面目であり、他人に非難されうるものではない、と。
 どうして、そう思えていたのでしょうか?
 私はただその日まで、愚かな真似をする機会がなかっただけだったのです。
 ただ縮こまって生きていたから、結果として善良という皮を被れていたに過ぎないのです。
 その事実が、私を苦しめました。
 善良であれと。真面目であれと。人に迷惑を掛けない存在であれと。
 父や母から、厳しく教えられていた私ですから。
 その瞬間に、私は自分が無価値どころか、この世にあってはならないものなのだという気持ちになりました。
 ……大げさ、ではないと思います。何物をも生み出さず、ただ他者に迷惑をかけるだけの存在であれば、それは不要のものであると、私は考えていますから。

 だから、なのでしょう。
 私はそこで、もう一度道を間違えました。
 このことを、誰にも気づかれてはならない、と思ったのです。

 気付かれれば最後、私という人間は社会において、迫害されるべき悪となってしまう。それは避けようのない事で……自分の身を護るためには、手紙の事は黙っていなければならない。
 私は、震える手で手紙を引き裂きました。
 何度も、何度も、文字の一つさえ残すまいという思いで、色のついた可愛らしい便箋を破り捨てました。
 小さな山になった紙くずをゴミ箱に注いで、袋を縛りました。

 私は、自分の罪に向き合う勇気さえ持ってはいなかったのです。
 勇気を持って先輩に気持ちを伝えようとした淀川さんとは、まるで違う。
 何の取り柄もなく、歪んだ性根を持ち、あろうことか他者へ害を齎す。
 そんな私に、唯一残されているモノがありました。

 ……文字です。

 私はまだ、淀川さんより字が綺麗でした。
 それだけが、私の最後の希望でした。
 彼女よりも字が綺麗な間は、まだ私にも、幾ばくかの価値はあるのではないか。
 そんな幻想に、私は憑りつかれました。
 私はすぐにでも字の練習を始めました。テキストを買い込み、誰にも気づかれぬよう、ただひたすら、字を書く事に打ち込んでいきました。
 より正確に。歪みの無い、美しい文字を。
 僅かなズレさえも、今の私には、赦されない。

「ねぇ、今日は暇?」

 ある日の休み時間、淀川さんに尋ねられました。
 もしかして、字の練習の誘いだろうか。期待したけれど、違いました。ただ遊びに行くのだと淀川さんは答えました。
 そんな暇は、ありません。私は字の練習をしなければならないのですから。
 そうでなければ、この世に存在してはならなくなってしまうのですから。
 断った時の淀川さんの顔は、あまり覚えていません。
 直視することが、出来なかったからかもしれません。

 それから、しばらく経ち。
 日も経ち、いい加減淀川さんの中で決着もついたであろうと感じたわたしは、尋ねました。
 あの先輩とは、どうなったの、と。
 手紙が行かなければ、想いが伝わっている筈もありません。
 私はそれを淀川さんの字の所為にして、再び字を教える立場に就こう。
 私の価値を証明するには、それしか……。

「あぁ、うん。早く言おうと思ってたんだけどさ……」

 けれど。
 淀川さんの反応は、私の予想と違うモノでした。
 どこか恥ずかし気に身をよじらせる彼女の顔は、体温が上がったのでしょうか、ほんのりと赤くなっていて。

「付き合うことになったんだ」

 ……何度でも。何度でも、です。
 淀川さんは……私の思いもしないことを、告げるのでした。


【続く】


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