SNSの話

私にとって最初のSNSは「mixi」だった。

誰かに招待されなければ入会できず、足跡もしっかりつく頃の話だ。個人サイトで交流のあった、インターネットの友人に誘ってもらって開始した。なんとなく当時は「知る人ぞ知る会員制オンラインサロン」みたいな印象が若干あり、私はそこそこ早い段階で入会できたので、それだけでステイタス感があった。

ただ、mixi内で様々な人と交流するということは無くて、既存の知人コミュニティの枠組みに、ほとんど留まっていた。プロフィールも兼ねて複数のコミュニティに入ったり、ライブのチケットを譲ったり・譲られたりするのに利用することはあったが、いま思えば、あまりSNSらしいことはしていなかった。

結局、私にとってのSNSらしいSNSは「Twitter」から、ということになる。



Twitterは、上記の知人コミュニティにいた一人のお姉さんが、日本でも開始された直後からハマっており、度々オススメされていた。「うーん、面白さがよくわからないし、まだいいかなあ…」なんて受け流していたが、ある日の夕方、時間があって気が向いたので、なんとなく登録した。2009年11月末のことだった。

Twitterをオススメしてくれたお姉さんは、その後もマイペースに使い続ける一方、私はそれを豪快に追い抜くような形で、あっという間にのめり込んでいった。その時々の面白そうな人たち(いわゆる「ネタクラスタ」など)を積極的にフォローしたり、そうした方々に感化された文体のツイートを多用するようになっていった。オフ会めいたものにもたくさん出向き、数多くのいろんな方々とお会いすることができた。

もともと私は、日記のような文章を長く書いていたし、引きこもりの頃は、毎晩のように誰かとチャットをしていた。テキストベースのリアルタイムなコミュニケーションに親和性があった一方で、Twitterにおける「誰かに向かって言っているようで・誰に向けても言っていない」独り言がベースにあるようなシステムが、最高にしっくりきた。

140字制限の中に、書きたいことをなるべく全部詰め込もうとすることも楽しかったが、これはいつからか「普通に何を書いても140字以内で収まる能力」として身についてしまった。むしろ「日常的な出力が140字ナイズされてしまった」というほうが、表現としては正しいかもしれない。とはいえ、Twitter以外でちゃんと書こうと思えば140字の枠を取っ払って書くことができたので、これは問題なかった。頭の中に「Twitterモード」が出来たのだろう。

最初につくったTwitterアカウントが、まさに現在でも使っている「zenpolyのアカウント」である。紆余曲折はありつつも、サブ垢は一度もつくらず、転生もせず、今日へと至っている。まさかこんなに長くハマり続けるとは、という感じだ。(ちなみにサブ垢ではないが、複数人で運営する企画アカウントや、企業アカウントの中身なら、少しだけやったことがある。)


2010年頃のTwitterと2018年現在のTwitterでは、その「社会的な位置づけ」も「空気感」も、あらゆることが変わってしまったけど、それでもたぶん、私はこれからもずっとTwitterをやっていくとは思う。

たまに「Twitterは面白くなくなった」と言ってしまわれる方がいるけど、面白さはその時々で変化するので、そこに対応するのをやめてしまったら、そりゃTwitterに限らず何も面白くないよね、とは思う。また、そのような方と私とでは「Twitterの何を面白がっているかの根本的な違い」も、あるのかもしれない。

私はとても飽きっぽいので、飽きっぽいことが「絶えず何かを生み出し続けるTwitterそのもの」を、非常に飽きにくくしているように思う。タイムラインを開けば、いつでも誰かが新しく何かを言っている。

かつては色恋沙汰を書いていた人が、いつの間にか育児の話を書いていたりするように、いろんな人生がTwitterを通じて垣間見えて、その蓄積や厚みが、本当に面白いな〜~と思う。「Twitterにいる人たち」という「大きな群れ」だけを見ていたら、たしかに往時と比べて面白くなくなってしまった部分もあるかもしれないけど、今もどこかで暮らしている「個人個人」のほうに、私は面白さのピントが合っている。そんなTwitterなら、いつまでも楽しいと思うし、この楽しさは、自己発信する人間がいなくなるまでは決して尽きないんじゃないだろうか。(だから、自身で何も書かずにリツイートばかりしている人には、もっと自分のことを書いてほしいな~~と、ちょっと思っている。)



一応、ほかにやっているSNSとしては、zenpolyの「Instagram」と、本名アカウントの「Facebook(ほとんど使っていない)」がある。「mixi」のアカウントは何年か前に削除した。

それから、「Google+」というSNSがある。先日、Google+の個人向けサービスが終了するというニュースが流れて、久しぶりにその名前を聞いた方も少なくないだろう。

Google+が開始された当初、Twitterの一部の友人たちがこぞってアカウントを作成し、ほんの一瞬だけ賑わい、そして誰も使わなくなった。ところが、誰も使わなくなったなりに、投稿の公開相手を細かく指定できる「限定公開」機能を使って、人知れず他のどこにも書けないような話を、きわめて狭い範囲の人たちが年に数回もないペースでぽつぽつと書いていく、不思議なタコツボ空間が自然とできあがっていった。

私にとってのGoogle+とは、そんな「場末のSNS」である。AKBとかは知らない。

で、Google+は個人情報漏洩のほかに、「利用者が少ないから」無くなるという。たしかに利用者は全然いない。私の知っている「場末のSNS」が飲み屋街だとしたら、月間のべ来客数が100人にも満たない飲み屋街だ。存続できているほうがおかしい。それでも「場末」は、新たにつくろうと思ってつくれるものではないし、「場末」を丸ごとどこかへ移行させようとするのも野暮だ。だからあの「場末のSNS」は、Google+終了と同時にそのまま自然消滅する運命にあると思うし、あのような場が再びどこかで形成される望みも、ほとんど無いだろう。

「Google+終了」は、個人的に残念なニュースだったが、利用者が少ないSNSには、利用者が少ないなりの位置づけがあった(存続できるかは別)という話でもある。ちょっと早いが、ここで別れを告げておくことにしよう。退廃したSNSをありがとう、Google+。



SNSの使い方について、どう考えているのか聞きたいです。

そもそも今回いただいていたお題は、こちらだった。SNSの話題とあって、ついつい長くなってしまった。

では最後に、私がSNSを使う上での心がけなどを、少しだけ述べてみたい。(と言いながら、これはSNSやインターネットに限定される話ではない。)


基本的に私は、『確実にわかっていることしか言ったり書いたりしない』ことにしている。ウワサや、人づてに聞いたこと、信憑性のないこと、裏付けのとれないこと、もともとあまり興味のないこと、知らない人に関することなど、そうしたものにはなるべく言及しない。わからないことには「わからない」以上のことは言えないので、それをしっかりと守る。勝手な憶測や想像だけで話をしない。

だから、必然的に私が書く内容は、日記や私小説のように、個人的な体験や感情などに大きく依存することになる。それが最も断定して話のできる内容で、誤解や反論の余地が少なく、安全だと思っている。

何かの議論めいたものに参加するなど、自分の中に答えがないものについて、SNSやインターネットに書くことはしない。自分の力で着地できるものだけを書く。特にいろんな人が好き勝手なことを言えるSNSやインターネットで、期待通りの理解やレスポンスを求めた上での発言は、前提に無理があると思う。そうした場合のケアをしたくないし、心をかき乱される要因を作りたくない。

私の言うことは、「持論」で「単なる自己主張」で「独り言」である、という前提をわきまえている。まかり間違っても、誰かに向かってお前はこうしろとか、誰かの考えを変えてやりたいとか、そういう意思は持っていない。個人的にやりたいからやっている。すべては私の「ささやかな趣味」である。そんなスタンスでいる。


おかげさまで、不必要にバズることもなく、けっこう平和に過ごせている。いきなりタメ口で飛んでくる変なリプライとかも全然ない。「不特定多数の人に当てはまるような話」よりも「個人的体験」に重きを置いて書いているので、拡散されにくいのもあるのだろう。

私のTwitterは、知らない人にとっては「話しかけにくい雰囲気」がけっこうあると思うが、きっとそれが功を奏している。それでいい。

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