鼓舞する話

何か勇気を出して新しいことを始める時、
どのように自分を鼓舞しますか?


このご質問をいただいて以来、かなり長い間悩んでしまいました。というのも、私は「自分を鼓舞する」なんて大層なことを、今まで一度もしたことが無いのです。


もし私が、自分を鼓舞していけるような、自ら困難に立ち向かっていけるような精神性を持っていたなら、今頃は社会的にも、だいぶマシな人生を送れていたはずです。「しっかり目標を持って・自身に何かを課す」なんて、できるだけやりたくありません。「○○しなければいけない」とか思っていること自体が、かなりイヤです。

「○○しなければいけない」が心の内にあるときは、まるでバックグラウンドで不要なアプリが勝手に動いて重い処理を行っているような、自分の意思に反しているイライラや不愉快さがあります。心身ともになるべく健康で、身軽でいるために、そのプロセスはなるべくなら動かしたくないです。


私の行動原理は、基本的に「崖から落ちなければいい」といった感じです。

「崖から落ちる可能性を減らすために、なるべく崖から離れておく」みたいな予防意識も、そこまで持っていません。またそのうち崖から落ちそうになったときに、慌てて何かをする、という場当たり的な行動パターンになります。夏休みの宿題だとしたら、8月27日くらいまでは宿題のことを視界から外しています。

今が危機的状況でない時は、ひたすら楽しいことを探し求めて、没頭して生きています。そっちのほうで忙しい。やがて危機を認識せざるを得ない状況になったら、その時にまた対処するだけです。対処の必然性が肉薄してくるまでは「よーし頑張るぞ〜!」なんてこと、これっぽっちも思いません。限界まで追い詰められて、ようやく私は何かを行います。

ですから、「自分を鼓舞する」という過程そのものが、私の回路には組み込みようがない感じがしています。鼓舞するまでもなく、やらなきゃいけない時は、それは単にもう「やらなきゃいけない時」です。


今回、あらためて気付きましたが、そもそも自分を鼓舞することができるような人は、問題や課題に前もって向き合い対処できる、メチャクチャ偉い人です。尊敬します。ただ、私にはできませんし、あんまりしたくないです。

私の怠惰なやり方のおかげで手遅れになって、そのまま崖から滑り落ちたら、その時はその時です。崖から落ちたなりの対処をすればいいですし、対処すらままならず、かといって一息に死ぬこともできず、生き絶えるまで当分のあいだ苦しむのであれば、それもまたいいと思います。自業自得でしょう。

それでも私は、問題や課題と生真面目に向き合い続けるストレスを抱えておかないことを、どちらかといえば優先します。日々を楽しく過ごすためです。四六時中しっかりしておく必要なんてありません。


「新たな一歩を踏み出すときに、どのような心構えがありましたか?」に対する私のアンサーは、「このままでは崖から落ちると思ったから、仕方なくその時できることをやっただけで、心構えとかは全然ありません」になります。

特に頑張っていないし、一念発起もしていません。むしろ、それらを行わないことが、私の理想とする存在に近づく行為のようにも思えます。どんな瞬間でも、風に舞うケセランパサランのような心持ちでいたいです。


もしも、崖から落っこちそうになったら、考えるより先に、とりあえず手を伸ばしたり、身を引いたり、とっさの防衛反応が起こるでしょう。引きこもりから脱することができたのも、たまたま「その時落ちかかっていた崖」で、うまいこと立ち回れただけです。純粋に、運が良かったのだとは思います。

もちろん、ほかの崖からは今までに何回も転げ落ちています。「不登校の話」で書いてきた通りですね。これらから学べることがあります。そうしたことをし続けてきて、未だ致命傷にはなっていないので、なんとか今も生きています。これからも楽しく平穏に暮らしたいです。

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