コンプレックスの話

コンプレックスとの付き合い方について書いてもらえれば嬉しいです。

コンプレックスの話を書くにあたって、あらためて辞書でその意味を引いてみると、以下のような記述がありました。

コンプレックス【complex】【 1 】自分が他より劣っているという感情。劣等感。【 2 】〘心〙 精神分析の用語。強い感情やこだわりをもつ内容で、ふだんは意識下に抑圧されているもの。エディプス-コンプレックス・劣等コンプレックスなど。<大辞林 第三版より>

きっと質問者さんのおっしゃっていることもそうですが、一般的にコンプレックスといえば【 1 】のことだと思いますので、【 1 】を前提にすすめます。

ですから、コンプレックス=劣等感と、そのまま読み替えてもいいのかもしれませんが、「コンプレックス」と「劣等感」って、言葉の重みとしてはわりと違いませんか。コンプレックスが「ちょっとしたパーティー」だとしたら、劣等感は「冠婚葬祭」くらい大変ではないですか。実際にその言葉が指し示すものは同じかもしれませんけど、今回の私は軽いドレスみたいな服で行きたい気分です。


で、いきなり身も蓋もない話になってしまいますが、コンプレックスの辞書の説明にある「他より劣っている」の「他より」を、私はあんまり気にしていません。ほかの誰かや何かと自身を比べても、しょうがなくないですか。だって、何をどうこねくり回そうと、結局私は私でしょ、という感じです。

不登校の話」のどこかでも触れましたが、元来の私は、ちゃんと他人と比較する心を持っていましたし、ちゃんとそれらに怯えて生きていました。しかし、「普通の人生」みたいなものから完全にかけ離れた生き方を選択してしまった段階で、今後も他人と比較をし続けていくことは、際限なく苦しみ続けることを意味します。

そこで私は「自分だけの国」をつくり、その国のただ一人の住人で、王様になりました。ほかの国に暮らす人は、ほかの国に暮らす人でしかないので、その国のルールも価値観も、何もかもが違います。私は私で、人は人。それでいいと思えました。生きるためには、こうするしかありません。自己防衛のための建国&鎖国のコンボです。

急造した防壁の内側で、私は極限まで下がっていた自己肯定感を高めまくりました。ほかの国では一切通用しないかもしれませんが、私は私である時点で、何をどう考えても尊いことになっていきます。そこに至るまで、長い時間がかかったような気がするし、あっという間の出来事だったようにも感じます。

そもそも、誰だって自分の国では王様のはずなんです。私は不登校に陥るまで、そのことにまったく気付きませんでした。私一人しかいないこの国で、自分で自分のことを尊重しないで、ほかに誰が自分のことを尊重してくれるんでしょうか。


不登校や引きこもりの期間に慌ててこしらえた防壁が今でも機能していて、どれだけ外で傷ついても、最後の最後には私の国へ逃げ帰れる場所として確保されています。安定した拠点があるおかげで、むしろ気軽にほかの国へ出かけられるようになった側面もあるかもしれません。引きこもりからなんとなく脱することができたのは、このあたりの要素にもきっと関係があります。

私自身としては、誰かや何かと比較することをしないので「コンプレックスは存在しない」ことになります。たとえ今後どれだけハゲても、中年太りが進行しても、私が私である尊さには変わりがないので、その時はハゲた小太り中年なりに、私は私を愛していけます。どうしても自身の姿に納得がいかないときは、納得できるように努力をするか、自分を騙す方便を探し当てるかすればいいだけのことです。

いま思えば、自己肯定感が足りなかった10代の頃、まだ全くハゲていないにも関わらず「髪が薄くなっている」としばらく思い込み悩んでいました。あれこそがコンプレックスでした。当時の私にとっては、今では気にも留まらない些事も含めて、普通に生きられないことの全てがコンプレックスだったと思います。


とはいえ、いくら自己肯定感を高めたところで、ひとたび社会に出てしまえば、なかなかそうも言っていられません。どこでどう生きようと、他者が介在すればそこには競争が発生します。霞を食べて生きられるなら今すぐにでもなりたいところですが、少なくとも仙人になるまでは、稼いで暮らさなければなりません。

その意味で私は、学歴コンプレックス、職能コンプレックス、低収入コンプレックス、無貯蓄コンプレックスなどなど、世間の価値観に照らしたコンプレックスなら選び放題の現状にはあるのですが、冒頭の辞書の説明にもあるように、コンプレックスとは「(私自身の)感情」のことです。仕事がなくて困った、お金がなくて困った、今すぐ無条件で5億円が欲しい、という感情はあっても、それらが満たされている人たちと比較して「ウワー!だから自分はダメなやつだー!」という感情には至りません。

私には「(社会的には)自分が他より劣っているという事実」しかなくて、そこに劣等的な感情は伴っていません。これは社会を生きる上で、あんまり良くないことだと思います。こんな自己肯定感だけがみなぎっているポンコツ、私が人事担当者だったら絶対に雇いたくありません。向上心ってものが無いのでしょうか。無いんですよね。「やる気がないなら帰れ!」と言われて、そのまま帰る人間ですから、私は。

裏を返せば、質問者さんのように「きちんとコンプレックスがある」ことは、生きることに前向きで、向上心があることの現れと言えるのかもしれません。どうかコンプレックスを素直に感じられるご自身に胸を張り、大事になさってください。社会を生きる上では、そのほうが確実に正しいことです。ここまで「コンプレックスとの付き合い方」もへったくれもなくて申し訳ないのですが、コンプレックス、やっぱり私にはないんですよね。ここまで書いてきてはっきりわかりました。

例えば、私はかなり手先が不器用なのですが、そうした事柄も単に「苦手」「不得意」という自己認識に過ぎず、べつにコンプレックスではないのです。あの人はできて、私はできない、という事実があるのみです。それがもし練習してできるようになったら、できるようになった〜!と思うだけです。できる人に憧れることと自分を卑下することは、繋げて考えるのが不自然すぎるくらい、別々の問題だと思っています。評価や比較に隷属しすぎず、自分の国も大切に守ってください。ただ、私はちょっとやりすぎかもしれません。



最後に、もう一つだけ。

強いて挙げるなら、私は「男性であることが最もコンプレックス」かもしれないと、ちょっと思いました。

女性になりたいとか、心は女性とか言いたいわけではなく、男性として生まれた時点で「自動的に男性的な役割を社会から期待されてしまう」現状が、本当にものすごく嫌です。信頼できる友人から言われて初めて気付いたのですが、どうも私は心身ともに「かなり男性的な男性」のようです。この極端に偏った男性優位社会で、生理的に嫌悪しているゲタを無理やり履かされかねない男性的な男性として生まれたことに対しては、劣等感に近い感情を抱いています。

私がちゃんと働きたくないのも、男性社会に抗うような気持ちに由来があります。「ちゃんと働く=男性性」的な属性を帯びてしまうことは、本当にやめてほしい。それだけならまだしも、それを必須事項のように求めてくるんじゃないと思っています。まるで働きたくないから言っている屁理屈みたいですけど、私はけっこう真剣ですよ。まあ屁理屈なんですが。

ただこれも、「男性社会に馴染めない自分がつらい」のではなく「死んでも男性社会なんかに迎合したくねえ、できれば支持者は全員滅んでくれ」の感情なので、日本的な文脈で言うコンプレックスとは、やや異なる気もします。自身の感情との付き合い方という観点では、もう少し妥協点を見出す必要があるかもしれませんけど、そのやり方は私も知りたいです。

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