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アナーキー・イン・ザ・UD(3)

鶯谷は明治の俳人・正岡子規が肺病で死ぬまでの八年間を過ごした街だ。

何だってこんな街にと思うが、鶯谷にラブホが立ち並んだのは戦後になってからのことで、江戸の昔はその名の通り鶯の名所として知られた風流な地域だったらしい。

実際、甲類焼酎とザーメンが混ざったようなにおいのする駅前を抜けて五分も歩けば、あたりは古き良き時代の面影を残した閑静な住宅街に変わる。俺の仕事には関係ないが。

「子規の句で何か言えるのある?」

ブロアーでレンズの埃を飛ばしながらカメラマンの中元さんが尋ねる。鶯谷のマンションの一室、リビング兼待機所兼スタジオで俺たちは撮影の準備をしている。

「『雀の子』とかでしたっけ?」

「アホ。それは小林一茶や。仮にも大卒なんやろ。君は何を勉強してきたんや」

嘆かわしい、と大げさに頭を振って、中元さんはいくつかの句を諳んじて見せる。国語の教科書で見たことがあるようなないような、聞いたことがあるようなないような句。意味はわからない。

「博識ですね」

素直に感心した。人は見かけによらないものだ。まるまると肥えた中元さんの腹を見て思った。まだ撮影も始まっていないのにグレーのTシャツには汗染みができていた。

「今時のカメラマンは知性がものを言うねん。ところで、今日も撮影する女いっぱい出てくるの?」

「アジア系じゃないので大丈夫ですよ」

「安心したわ。カメラも消耗品やからな」

「鶯谷のアジアンデリはもうダメですね。広告屋の連中が嘆いてました」

広告屋の瀬川が失踪してから3カ月が経っていた。瀬川は会社の売上を盗み、クライアントからも金を騙し取って逃げたのだった。瀬川が担当していたクライアントの多くはアジア系のデリヘルだった。

業者間の口コミで悪評はあっという間に広がった。購読部数も広告収入も右肩下がりを続けている『フーゾク大王』の大事な収入源だったアジアンデリは、壊滅的と言っていい状況になっていた。

「結構やんか。ここは日本や。日本の女衒からお金をもらえればよろしい」

「それなら簡単なんですけどねえ…」

歌舞伎町に端を発した浄化作戦は都内全域に広がり、「ハコ店」と呼ばれる店舗型風俗は軒並み摘発されてしまった。最近は、それに呼応する形で関東近郊の盛り場でのガサ入れも始まっている。

つい最近も黄金町と町田の売春街「ちょんの間」に大規模なガサ入れが入ったらしい。公権力が及ばない“不思議な力”で守られていた裏風俗さえも潰しにかかる当局の姿勢は本気だった。

「ふうん。この業界ももう終わりやね。……ところで、さっきから気になってたんやけど、この部屋なんかくさない?」

「あ。それ、俺かもしれません」

♨   ♨   ♨

女の靴はまばゆいほどに白かった。薄暗いスタジオの照明がそう見せたのか、あるいはこれからここで行われる催しと、そのスニーカーがあまりにも不釣り合いだったせいなのかもしれない。

JR両国駅を降り、墨田川沿いを十分ほど歩いたところにスタジオはあった。「スタジオ」と名乗ってはいるが、震度三の地震でも崩れそうな四階建てのオンボロビル。冬めいた青空を見て俺はため息をついた。

「店があちこち潰れてんだから他で引っ張ってくるしかねえだろ」

広告屋の印西は勢いよく煙を吹き出す。混じりっけなし純度百パーセントのセブンスターの副流煙。脳内のシナプスが溶けてなくなる前に俺は慌てて質問をしなければならない。

「AVメーカーが広告なんて出してくれるんですか」

印西の貧乏ゆすりでテーブルの灰皿がカタカタと鳴った。職安通りの純喫茶「リッキー」。セブンスターをセーラムピアニッシモのように見せる丸く太い指が、俺をまっすぐ指差す。

「だったらお前が広告取ってくるのか?」

「無茶言わないでくださいよ。でも、カメラマンを動かすのだって費用がかかるんですよ」

印西はベテランの広告屋だ。広告屋の耐久年数は長くて五年だが、柔道でインターハイに出たという無尽蔵の体力のおかげか、ストレスを感じるほどの脳みそがないのか、十年以上もこの業界にのさばっている。

昔はやり手だったらしいが、性欲が強すぎるあまり、クライアントの店の女にも手を出す素行の悪さで多くの店を出禁になり、今は金払いの悪い店からチンケな広告をもらうのがせいぜいだ。

なんとか広告を取ろうと、ブスでもババアでも強引にグラビアにねじ込もうとしてくるので、編集部の評判はすこぶる悪い。つい先日も四十八歳のコロンビア人を二十歳のモデルと偽って持ち込んできたばかりだ。

「カメラマンなんて必要ねえって。AVの撮影現場だよ? カメラ何台あると思ってんの?」

印西は精一杯人懐こい顔を作って俺を見る。両方の穴から勢いよく飛び出した鼻毛に吐き気を覚えながら俺はなおも抵抗する。

「写真は向こうからもらうとしても、問題は中身ですよ。なんですかこれ」

めざせ黄金メダル!スカトロ浣腸オリンピック

黒地にゴールドのフォントで書かれたA4の企画書。おかわりのコーヒーを注ぎ来た若い店員がそれを一瞥し、何も見なかったふりをして早足で戻って行った。違うんです。

「なんですかってこのままじゃねえか。スカトロのAVだよ」

「声が大きいですよ! いくらなんでもマニアックすぎますって」

「わかってねえなあ。マニアックだからコアな読者が飛びつくんじゃねえか。独占取材だぞ。頼むな。向こうの広報には話しとくから」

♨   ♨   ♨

そうそう、白い靴の話だ。暗闇の中で孵化する蝶のように真っ白なスニーカー。その女はマチダと名乗った。

「ディープ・オン・デマンド広報のマチダです。本日はお越しいただきましてありがとうございます」

年は俺より少し上、おそらく二十七、八か。広末涼子に少し陰を背負わせたような整った顔立ち。ショートカットにカジュアルなパンツスーツという洒脱な格好は、AVというよりアパレルの広報のようだった。

ディープ・オン・デマンド、通称DODは業界で五指に入る大手メーカーだ。AVの枠を飛び越えた企画力とアバンギャルドな作品づくりが話題を呼び、近年飛ぶ鳥を落とす勢いで成長している。

マスコミ然とした風情のマチダに少し気後れしながら俺は名刺を差し出す。ゴージャスな装飾をあしらったDODの名刺に比べ、『フーゾク大王』と書かれた薄っぺらい俺の名刺はいかにも貧相だった。

「DOD作品の連載がスタートするんですよね。印西さんには感謝しなくちゃ!」

「連載、ですか?」

「ええ、そのように聞いてますけど」

こんなことだろうと思った。おおかた連載を条件にちんけな広告の約束でも取り付けたのだろう。その広告が『フーゾク大王』に入ってくるのかも怪しいところだ。そんな事情など知らずにマチダは続ける。

「スカトロって、飽和したAV市場に残された最後のフロンティアだと思っているんですよ。かわいい女の子が、恥ずかしがりながらウンコをするのって最高だと思いませんか?」

生まれてこのかた排泄したこともないような美人が、iPodをプレゼンするスティーブ・ジョブズのようにウンコの尊さを熱弁している。俺は夢でも見ているのだろうか。

「カタチだけじゃなくてニオイも大切なんですよ。クサければクサいほど興奮するって男優さんも多いので。ですから女優さんには前日はステーキを食べるようにお願いしています」

「あの、連載の件ですが、どうやら印西が勝手に」

言い終わらないうちにエントランスの方が騒がしくなった。しばらくすると、大勢の男がどやどやとスタジオに入ってくるのが見えた。スタッフではなさそうだ。

「あっ、観客の皆さんですね。司会の準備をしないといけないので、どうぞお掛けになってください」

連載の誤解は後で解くことにしよう。俺はパイプ椅子に座り、「めざせ黄金メダル!スカトロ浣腸オリンピック」の企画書に目を通す。

アテネの感動をもう一度ーー。
本作は、女子体操でオリンピック候補にも選ばれた星野なるさんをキャストに迎え、今までのスカトロ作品にはなかった観客動員型の撮影を行います。キャスト、観客が一体となった熱狂の空間でひねり出される黄金メダルをぜひご堪能ください。

星野なるという女優は聞いたことがなかった。プロフィール写真は元体操選手らしくレオタード姿で、サバンナの草食動物を思わせるしなやかな体型が目を引いた。「元五輪候補」という肩書を売りにした単体作品もあるようだ。

スカトロ作品への出演は今回が初めてだという。単体女優としての活動に限界を迎え、新境地で一花咲かせようということなのかもしれない。この女も昨晩ステーキを食べたのだろうか。

気づくと観客は五十人ばかりに増え、ステージの上にはマチダが立っていた。あの白いスニーカーが照明に光っている。

「全国のスカトロファンの皆様、はじめまして。DOD広報のマチダです。本日は北海道から沖縄まで多くのお客様にお越しいただき、我々は感激しております。さて、早速ですが、ひとつ質問させてください」

マチダは大きく息を吸った。そして叫んだ。

「お前ら、ウンコが見たいかー!!!!???」

一瞬の静寂の後、割れんばかりの拍手と歓声。社会に抑圧されたマニアの歓喜がスタジオに充溢していた。社会から遠く隔絶されたアンダーグラウンドのオリンピック。神話の始まり。

♨   ♨   ♨

「休みの日にウンコ見てきたんかいな。ホンマのアホや」

中元さんは腹をゆすって笑う。

「このジーパン、洗ってもニオイが取れないんですよ。人糞の臭いって強烈なんですね」

「さっさと捨てたれよ」

そういうわけにはいかない。学生時代になけなしの金をはたいて代官山で買ったドゥニームの66モデル。パキパキに糊が効いた状態から大切に育ててきた。ヒゲもアタリもようやくいい味が出始めたところだ。

「ウンコのニオイも味になるかもしれないじゃないですか」

「なるか! はよ捨てろ」

♨   ♨   ♨

ステージに現れた星野なるはプロフィールと同じレオタード姿だった。大舞台には慣れているのだろうが、いくらか緊張しているように見えた。さっそく公開排泄に取り掛かるための撮影準備が始まる。

「興奮するなあ。待ちきれないよ」

隣の男が呟いている。ウンコを見るためにやってきた男達。考えてみれば、風俗のオプションでも大便を提供する店は聞いたことがない。愛好家にとって公開スカトロは宿願のイベントなのかもしれない。

「さあ、準備ができました。それではなるちゃん、はりきって踏ん張ってください!」

マチダに促され、オリンピアの女神はレオタードを脱ぐ。そして、特設された透明の便器にまたがる。静まり返る会場。民衆は、女神からもたらされる黄金を固唾を飲んで待っている。

五分が経ち、十分が経った。

何も起こらなかった。黄金の女神は尻にいくつもの浣腸を入れ、真っ赤な顔で踏ん張るのだが、来たるべきゴールドラッシュは待てど暮らせどやってくる気配がない。

「どうしよう。出ないかも……」

半泣きになった女神が広報のマチダを見る。マチダは周囲のスタッフに目配せをして何か伝えようとしている。今日の撮影は無理かもしれないーー。ステージの緊張が観客席にも伝わってきた。と、その時。

「大丈夫! 絶対出るよ!!」

隣にいた男が突然叫んだ。すると、あちこちから声が上がる。

「なるちゃんがんばれ! マイペース! マイペース!」

「いつまでだって待つよ。自分に克とう!」

全国から集まったオリンピック応援団による熱いメッセージ。面識のない人間ばかりが集まっているにもかかわらず、思わぬハプニングによって会場には一体感が芽生え始めていた。

「ありがとうみんな! 監督、もう一つ浣腸ください!」

女神もモチベーションを取り戻したようだった。浣腸に次ぐ浣腸、度重なるドーピングもこのオリンピックでは失格にはならない。透明の便器にまたがった女神の顔がぱっと明るくなる。

「あっ、もうすぐ出るかも!」

自然と湧き上がる拍手と歓声。誰かが手拍子とともにコールを始めた。

「ウンコ! ウンコ! ウンコ!」

シンクロニシティのようにウンココールは会場のあちこちで発生し、全体に波及する。隣の男も、マチダも、男優も、ADも、監督も、みんなが「ウンコ」と叫んでいる。

「ウンコ! ウンコ! ウンコ!」

「ウンコ! ウンコ! ウンコ!」

気づけば俺も叫んでいた。「ウンコ! ウンコ! ウンコ!」

♨   ♨   ♨

鼻をすすると変なにおいがする。トイレの鏡で何度も鼻の穴をチェックしてみたが、どうやら異物は詰まっていないようだった。

「魚民」とマジックで書かれたスリッパを脱いで座敷に上がる。乱雑に脱ぎ捨てられた男物の靴に混じって、あの白いスニーカーがあった。肥溜めに留まるモンシロチョウ。

「あっ、来た来た! ねえ、ライターさん、ちょっとこっちおいでよ」

大広間にいる全員の目が俺に集中する。撮影の後、「連載」の打ち合わせを兼ねてと、マチダから打ち上げに誘われたのだった。当然、顔見知りは一人もいない。

「どうだった? 初めてのスカトロ」

マチダの顔はすでに赤い。俺への言葉は余所行きではなくなっていた。

「圧倒されましたね」

糞まみれになりながら交わる男女。強烈なニオイの中で、女神から施された黄金を顔に塗りたくり、また口に含んでは恍惚とする観客の男たち。しばらくカレーと麻婆豆腐は食えそうにない。

「いい連載になるといいね。次回は全身タイツか獣姦モノとどっちがいいかな?」

マチダはぴったりと身を寄せてくる。香水の匂いが鼻をかすめる(が、それはすぐにウンコのような匂いに変わる)。はだけたシャツの隙間から赤のブラジャーが覗いていた。

「そうそう。そのことなんですが」

「マチダちゃーん、監督が呼んでるよー」

「ごめん。前、ちょっと失礼するね」

形の良い尻が目の前を通り過ぎていった。マチダの温もりが左腕に残っていた。誤解は解かねばならないが、これっきりマチダと関係がなくなるのは残念だった。

「お兄さん、ライターなの?」

向かいに座っていた長髪のひげ面が話しかけてきた。確か、撮影中にステージの上を動き回っていた長身のADだ。

「『フーゾク大王』です。お邪魔させてもらってます」

「風俗ライター? ふうん」

ひげは俺の名刺をつまらなさそうに眺める。小汚い格好をしているせいでわからなかったが、よく見るとオダギリジョーに似た二枚目だ。眠そうな垂れ目と目が合う。

「マチダには気をつけろよ」

「どういう意味ですか?」

咄嗟にとぼけたものの、図星をつかれたと思った。

ひげは我が意を得たりというように笑い、薄汚れたトレーナーを腕まくりする。そして、テーブルに乗り出すように、俺に顔を近づけて言った。

「あいつは誰とでもヤるけど、誰のものにもならないんだよ」

「は?」

「セックスはしても夢中になるなってこと。あいつに狂わされたやつ何人もいるんだぜ」

「いや、そんなつもりは」

「試してみるか?」

ひげは俺の目の前に拳を差し出すと、人差し指と中指の間に親指を入れた。そして、その手をぶんぶんと振り、離れた席で談笑しているマチダに声をかけた。

「おーいマチダ、この兄ちゃんがお前とヤリたいってよ!」

一斉に笑いが起きた。マチダは俺と目が合い、少し驚いたような顔をして、それから皆と一緒になって笑った。俺はどんな顔をしていたろう。人差し指と中指に挟まれた親指のような顔だったかもしれない。

♨   ♨   ♨

安西がゴミ箱を目掛けて投げた缶は軌道を大きく外れ、飲み残しをまき散らしながら床の上に転がった。ニコルだとかジャスミンだとかいう女が出て行ってからというもの、部屋は加速度的に汚さを増していた。

ヤングマガジン、むき出しのCD、吸い殻、スポーツ新聞、ティッシュ、外国の小銭、コンドーム、カップ麺の空き容器。ゴミの山の上で、いつしか居ついてしまったという近所の野良猫が毛繕いしている。

「で、どうしたんだよ」

「金置いて帰った」

「だせえなー。いじめられっ子じゃねえか」

俺は取り合わず、傍らに落ちていたペットボトルを拾い上げた。数週間は経ったであろう、飲みかけの液体が入ったそのペットボトルには、おびただしい数の黒い粒が浮いていた。

「これなに?」

「ああ、猫に付いてたノミ。捨てんなよ。コレクションしてんだから」

安西とは高校からの付き合いだ。俺と同じ偏差値四〇の公立高校を卒業した後、居酒屋、古着屋など複数のアルバイトを経てフィリピーナのヒモになった。女に逃げられた今は無職だ。

「それにしてももったいねえなあ。俺ならすぐに『お願いします!』って絶叫するけどな」

「そんなこと言えるか」

「女の股で食ってる奴が女に遠慮してどうすんだよ」

俺にとって風俗嬢は商材だ。俺が奴らに好意を抱くことはない。だから経験人数も、性感帯も、得意技も、好きな体位もためらいなく聞くことができる。しかし、マチダは素人だ。それも初対面の。

「風俗嬢は見下してるってこと?」

「そういうことじゃないんだよ。お前に話してもわからないと思うけど」

「ふうん。ヤリマンの女にヤらせろって言うのがそんな難しいことかね」

インターホンが鳴った。猫が毛繕いを止め、声の出ない鳴き声を上げる。ドアが開き、ラスタカラーのタム帽をかぶった村島の顔がのぞいた。頬がこけた不健康そうなにやけ顔。

「さーせん。遅くなりました! ちょっと荷物預かっちゃって」

ゴミを蹴散らして部屋に入ってきた村島の腕の中には発泡スチロールの箱があった。

「なにそれ?」

「なんだと思います?」

村島はどこかうっとりとしている。箱を受け取り、無造作にスチロールの蓋を開けた安西が驚いた声を上げる。

「うわっ! なんだよ!」

それは生きた蟹だった。おがくずの中でのたのたとハサミを動かす三匹の毛蟹。村島はそのうちの一匹を取り上げ、愛おしそうにほおずりしながら事の顛末を語り始めた。

「さっきクラブ行ったら熊田曜子がいたんですよ」

「まじで?」

「めっちゃいい子で、超盛り上がっちゃって、一緒にカラオケ行こうよって誘われたんですけど、俺、先輩の家行かなきゃって。そしたら、コレくれたんですよ」

「意味わかんねえ。適当なこと言ってんなよ」

「本当ですって。後で茹でて食いましょうよ」

村島は安西がかつてバイトしていた出会い系サイトの後輩だ。素人の女を装ってネットの掲示板で彼氏募集を呼びかけ、引っかかったユーザーをサイトに誘導して課金させる、いわゆる「サクラ」のアルバイトだった。

安西曰く、村島は「キャラづくり」の天才で、村島の演じる素人女は課金率が極めて高いのだという。群馬だか栃木だかに住む地主の息子から総額で数百万円を引っ張ったこともあるらしい。

信じがたいことだが、インターネットの向こう側にいる架空の女に多額の金をつぎ込む男は少なくない。安西たちは自分たちの仕事を「バーチャルキャバクラ嬢」と呼んでいたが、言い得て妙だ。

「そうそう。『おやつ』も持ってきましたよ」

言いながら、村島はポケットから小さなビニール袋を取り出す。袋の中には鮮やかなグリーンおやつがはち切れんばかりに詰まっていた。海の幸から山の幸まで、最近の運び屋は取り扱い商品が幅広い。

♨   ♨   ♨

マチダの唾液はお通しのツブ貝の味がした。迷惑そうな運転手の粗い運転に身をゆだねながら俺たちは唇を合わせる。ライトアップされた東京タワーが目の前を流れていく。股間をまさぐっていた細い指がジーンズのボタンを外し、パンツの中に滑り込んでくる。

♨   ♨   ♨

ブレークオンスルートゥージアザーサイド。ジム・モリソンの言う通りだと俺はうなずく。キーボードの音色が立体的な像を伴って脳の中に立ちあがってくる。つくづくもっともだ。

「わかる。お前たちは熊田曜子なんだ。熊田と曜子が分裂して三匹になった。そうだろう?」

さっきから蟹と対話している安西もわかっているようだった。日常を生きていて、わかりかけることはあるが、わかることはそうそうない。ほんのちょっとのきっかけで、こんなに簡単に「わかる」というのに。

いい顔の村島は、手慣れた手つきでおやつを次々とこさえていく。俺はそいつを受け取り、礼を言おうとしたが、そのやりとりは三分前にもう済ませたような気がする。

「俺、ありがとうって言ったっけ?」

村島はきょとんとしている。俺のアタマの中で起きた出来事だったか。いや、そんな顔をした村島でさえも、俺のアタマの中にだけ存在するのかもしれない。思考が何重にもオーバーラップする。

手の中にはオーガニックのセーラムピアニッシモ。そいつに火を付けろとジム・モリソンが言う。もっともじゃないか。ところで俺、村島にありがとうって言ったっけ? きょとんとする村島の顔。

♨   ♨   ♨

壁一面の棚はDVDと映画関連の書籍で埋まっていた。間接照明の薄暗い灯りで読み取ることができたいくつかのタイトルは、俺の人生にはまるで馴染みのないものだった。

「ライターさんはどんな映画が好きなの?」

ダイニングキッチンの摺りガラス越しにマチダが聞く。俺は「フィルムノワールの光と影」と書かれた本を棚に戻す。

「ビーバップ・ハイスクールかな」

「うそ」

「ほんと。親父がヤンキーでさ、そんなのしか見たことがない。幼稚園に通ってた弟はビーバップのセリフ全部言えたよ」

「おもしろい」

「ジブリよりも『シャコタン・ブギ』のアニメを最初に見るような家だった。だからこういうのはさっぱり」

「じゃあ、インディー・ジョーンズは?」

「見てない」

「バック・トゥ・ザ・フューチャー」

「見てない」

摺りガラスの影がおかしそうに揺れる。

学芸大学の1DK。巨大な本棚があるほかは、女の一人暮らしと言うには無骨とも言えるほど殺風景な部屋。iMacのスクリーンセーバーに投影された幾何学模様が、ステレオラブの音楽に合わせてなまめかしく変容する。

戸が開く。一糸まとわぬマチダの手にはロングの缶ビール。

「でも、これももうほとんどゴミみたいなものよ。いつかは『映画監督になるんだ』って燃えてたのにね。ビール飲む?」

「うん」

言い終わるや否や俺の唇が塞がれ、口の中にビールが注がれる。マチダの形の良い胸が、俺の薄っぺらな胸板の上で押しつぶされていく。舌が口の中でぐるぐると踊った。

♨   ♨   ♨

俺たちは熊田曜子だった三匹の蟹に手を合わせる。ボイルされた蟹は不揃いな皿の上に行儀よく座っていた。猫が鳴く。分け前を要求しているのだ。俺はその尻をポンポンと叩く。ニャア。窓の外が白んでいた。

♨   ♨   ♨

すさまじい頭痛と喉の渇き。手探りでコップを手繰り寄せると、温かい手に触れた。俺はその手を握ろうとしたが、巨大なバネを思わせる力で乱暴に払いのけられた。

「おい。起きろよ」

不機嫌そうな男の声。状況が飲み込めず、開かない目を無理やり開ける。ひげ面のオダギリジョーが顔を覗き込んでいた。

「なんで?」

「なんでも何も、俺の家だよ」

「えーと、マチダさんは?」

「ヨガ行くって言って出てったよ。ったく、ウンコくせえな。ほら、どけよ」

乱暴に布団をはがされた俺は処女のように慌ててパンツを履く。ひげはぶつぶつと文句を言いながらシーツを洗濯機に放り込み、水を注いだコップを持ってくる。

「これ飲んだら帰れよな」

「なんか、すんません」

「もう来んなよ」

こみ上げる吐き気を抑えながら、かかとの潰れたオールスターをつっかける。玄関にはあのスニーカー。さよなら俺の白い蝶。

♨   ♨   ♨

「デブ専はNG言うたやろ! 見てみい、この脂汗」

デリヘル「とんとん倶楽部」の撮影を終えた中元さんの反応は想像通りだ。十一月と言うのにグレーのTシャツには汗染みができている。

「まあまあ、デブ専とニューハーフは貴重なスポンサーなんですってば」

「ほんであとはウンコで金稼ぎか。もう潰れてしまえ!」

鶯谷は明治の俳人・正岡子規が肺病で死ぬまでの八年間を過ごした街だ。

俺は今、駅前の汚い居酒屋で、ザーメン臭い甲類焼酎を飲んでいるところ。マスター、濃い目のバイスサワーをくれないか。白い蝶が見えなくなるぐらい、うんと濃いやつを。

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