見出し画像

<禅語:衆善奉行諸悪莫作>善行を為すは、「言うは易く、行うは難し」【景徳伝灯録】

※ワードプレスからの引っ越し記事ですので、時節は合っていないかも知れません。

いつもお読みいただき、ありがとうございます。
タカミチです。

善い行いだけをして生きて行ければ、いつも心が晴々として清々しいことでしょう。

でも、そうは簡単にいかないのが、人生というものですね笑

僕たちは、善い行いをしたいと思いつつも、ついつい悪い事、悪い癖に手が出てしまいます。

まさに、「言うは易く、行うは難し」です。

この言葉は、中国・前漢の政治家で学者の桓寛(カンカン)の遺した『塩鉄論』にある言葉ですが、今回は禅語「衆善奉行諸悪莫作(しゅぜんぶぎょう しょあくまくさ)」を取り上げて、善行への向かい方について書いてみたいと思います。


「衆善奉行諸悪莫作(しゅぜんぶぎょう しょあくまくさ)」とは?

この禅語は、お釈迦さまを含む7人の仏が説いた”七仏通戒偈”にある共通の教えである、「諸悪莫作(しょあくまくさ)衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)自浄其意(じじょうごい)是諸仏教(ぜしょぶっきょう)」から来ています。

「すべての悪を為すなかれ、多くの善を実行せよ、そして、自らの心を浄めよ、これが諸仏の教えである」

という意味ですが、『景徳伝灯録』にある白居易と道林和尚の問答が面白く示唆を与えてくれます。

白居易が道林和尚に「仏法の大意とは何か?」と問うと、道林和尚は「衆善奉行諸悪莫作」とだけ返します。

すると白居易は、「そんなことは3歳の子供でも知っている」と馬鹿にしますが、道林和尚は「3歳の子供でも知っていることだが、80歳の老人でもそれを為すことは出来ない」と返しました。

白居易は道林和尚の真理を突いた返答に感銘を受けて、頭を下げて去りました。

この返答の意味するところは、つまり「衆善奉行諸悪莫作」を極めて悟りを開いた人は、お釈迦さまを含む過去七仏しか居ないということだと感じます。

それほど、四諦八正道を体得し、善行だけで生きられる人は人類でも極めて稀だという事です。

ちなみに、悟りを開き真我に覚醒した人は、人類史上で19人居るとされており、その中には名も無き一般人も含まれるようです。(アカシックリーディングにより判明しているようです)

まぁ、これらの覚醒者は別次元の話ですので今回は置いておいて、平凡な僕たちが良心に沿って生きることが出来るようになるための、考え方について提案してみたいと思います。

地道なセルフイメージの向上こそが、良心に素直になれるための道

「善行を積む」というと尻込みするので、「良心に沿って生きる」と置き換えてみましょう。

人はそれぞれ、生きてきた経験に基づくセルフイメージを持っています。

「私はこういう人間だ」という、成功と失敗を重ねて形成されたアイデンティティとなる感覚のことですね。

雑多な現代社会で生きる僕たちは、雑多な価値観に晒され、複雑に絡み合ったアイデンティティが形成されています。

そのため、良心に沿った考え・行動をしようと思った時に、判断基準が複雑な状態のため、固定観念や先入観が色濃く反映されてしまいがちになると感じます。

そして、たいていの場合、根底から歪んでいる現代的価値観に基づくそうした観念は、本質からかけ離れた”歪み”が含まれることが多いようです。

その結果として、自分が善行をすることに対して、「何か嘘くさい感じが付きまとう」ことが多いでしょう。

なぜなら、浸透しきった現代的感覚は、本来の良心の在り方を阻害する傾向が強いからです。

例えば、不登校の友達に励ましのLINEを送ろうと思ったとします。

しかし、次の瞬間に、、、

「いや、でも、あいつはいじめられているから、励ましのLINEしたら、次は俺がLINEグループからハブられるかも。。。あいつはゲーム好きだし、引きこもっていても楽しいんじゃないか?そもそも、何て言葉を送るかも思い浮かばないし。。。」

と、生活環境や対人関係で染みついた感覚が優先されてしまい、”相手を先入観で判断”し、”まだ起きてもいない事”を恐れています。

これは、多くの方の相談活動に当たってきた経験からも、そう感じている人が多いような印象を持っています。

現実に対して、過度な恐れを抱いている方が多いのは確かだと感じます。

最初に「励まそうかな」と良心が動いた時に、先入観を持たない”素直さ”を発揮できれば、「明日迎えに行くから、一緒に学校行こうぜ!」と簡潔に誘えば良いわけですね。

不登校の子は「いや、行きたくないし、、、」と思うかも知れませんが、心配し誘ってくれた行動に対しては嬉しいはずです。

そのちょっとした優しさが、その後その子を変えるきっかけになるかも知れませんし、そうした”何気ない小さな善行”が人を良い方向へ導くことは往々にしてあります。

いじめっ子もそうした優しさに感心して、自分が行ってきた愚行を反省する機会になるかも知れません。

その一方で、恐れていた通り、その励ましのLINEを面白く思わないいじめっ子から本当にハブられて、いじめの対象になってしまうこともあるでしょう。

それでも、いじめっ子からハブられ、いじめられても、悪縁が切れたと考えて、

「小さくてつまらない奴だな。こんな奴と関係を持っていてもロクなことにならないだろう。俺はそんな良心のカケラも無い小さい奴にはならない!」

と、いじめっ子を反面教師にして、前を向き続ける覚悟を持てば、その時点で精神性は大きく成長し、いじめっ子とは比較にならないほど、良心の大きな立派な人になったと言えます。

その時は実感はなくても、数年後、十数年後などに、「あの時の勇気があったからこそ、今の立派な俺がある!」と思うことでしょう。

不登校の子を励ますという、ささいな善行が、大きく人生観を変えるほどの成長を生んだわけですね。

善行に基づいた体験が、セルフイメージを向上させることに繋がります。

自分がいじめられることを考えると確かに怖いでしょう。大きな勇気が必要です。

その大きな勇気を振り絞ったことによる対価は、それに見合う大きいものになるという一例として紹介させていただきました。

こうした大きな勇気を振り絞って欲しい、と言いたいわけではありません。あくまで極端な例に過ぎませんし、事件性などはまた別問題なので考慮していません。

僕が今回の記事で本当に言いたいのはここからで、こうした素直さを発揮できるようになるための、普段からの心構えについてご紹介したいと思います。

生きる上で最も大切なことを常に意識する

現代社会は、やるべき事や、処理すべき情報が多すぎて、人から「生きることの根源を考える」という機会をはく奪していると感じます。

その理由は、この考えを出来る人が多ければ、こんな終末的な唯物社会には間違いなくなっていないからです。

では「生きることの根源とは何か?」ということですが、それは、、、

「ただ存在しているだけでも、どれだけ有り難いことなのかを考える」

ということに尽きます。

人は、究極的に前向きに謙虚になれた時、揺るぎない心の安心感に包まれます。

「いやいや、生きているだけでもありがたいのに、これ以上何を望むのか」

という考え方があると、今ある現状がどんなに過酷でも冷静に観察できるようになり、少しずつでも変えていくために、前向きな行動を起こすことが出来るようになります。

多くを望まない謙虚な姿勢は、むしろ多くのものをその人に与える因縁が形成されます。

不遇を受け入れ、他人の言動を受け入れ飲み込んでしまう、胆力が身に着き始めます。

極端に不遇な環境に置かれている人ほど、「冗談じゃない。今すぐにでも死にたいくらいなのに」と思うかも知れません。

この天と地ほど感情の落差がある場合は、「生きているだけでもありがたい」はひとまず置いておいて、「これ以上悪縁を生まないように、慎みを重視して生きる」ということをご参考ください。

相談活動をする中で、数人分の不幸を一挙に背負ったような、不幸の極致とも言える人生を生きられている方も確かにいらっしゃいます。

この原因は、過去生までの悪縁にありますが、その悪縁による不幸の連続で精神が荒廃し、さらに悪縁を呼び込む悪循環に陥っているのです。

そして、傍若無人な我を抑える”慎み”を忘れられている印象が強いです。

こうした負の連鎖にある場合は、意識的に悪縁を今生で断ち切るという、強い決意が必要になります。

感情の赴くままに生きれば、人生は破綻に向かいます。

安定した人生とは、感情をコントロールした合理の先にあります。

その合理を追求していくと、「ただ生きているだけでありがたい」というところに必ず行きつくでしょう。

それはつまり、「神様に生かされているという現実に心底気づく」という事です。

ではその神様というご存在は、どのように人間を生かしているのか。なぜ、ありがたいのか。

この点について、次回の記事で科学的、合理的に基づいて、詳しく書いてみたいと思います。


あなたの心に、常に太陽が在る事を祈りつつ。。

明日も善い一日となりますように😊

この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?