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"本当の声を聞かせておくれよ"とれぱん先生【富山サポインタビュー】

取材日 2024年1月24日

ーご無沙汰しております!

あ、御無沙汰ですほんとに(笑)

ーもう何年振りかですよねお話するの

ええ、そうですね。

ーなんかツイキャスでやりましたよね?一回ご一緒に

そうですね(笑)

ーあのときはお互いJ2だった記憶があるんですけど

そんな前でしたっけ?(笑)マジですか?そんなだったですかねえ。もう10年ぐらい前になっちゃいますね(笑)

ーそうか、カターレ富山も2015年からJ3ですもんね

そうですね。2015年からですね。

富山サポから見たJ3リーグ


ーどうですか?J3は

J3・・・あの年々厳しくなってますね。年々ハードなリーグになってきて。キツイですねほんとにもう。だんだん他のチームも力つけてきてるんで、単純にどの試合も勝たせてくれないし。ここは勝てるだろうみたいな安パイみたいなチームもなくなってきてるんですよね。

ーなんかJ2にいたクラブのアドバンテージみたいなものも、もはやあってないようなものというか

うん、そうっすね。2015年からのデータとか見たんですけど、他のチームたとえば福島なんかも5億円ぐらいの規模になってたりして伸ばしてきてるんですよね。「あ、これやばいリーグだ!」ってなってて。他のチームの成長がかなりやばいので。これちょっともうひと昔と全然違うな、みたいな。

ーでも、富山は2023年はすごくよかったんですよね?3位ということで

うん、そうなんすよね。よく、持って行ったなみたいな(笑)得失点差さえあとどうにかできれば昇格だったんですけどね。ちょっとそこが間に合わなかったかなぁって。

ーじゃあ、これを受けての来年は楽しみな感じですね?

そうっすね。まあ、ちょっとFWがネックだったところもあったんで補強もしましたしね。

初年度から富山サポーター


ーいま、とれぱん先生のサポーターとしての動き方的にはどんな感じですか?

今は、ホームは基本全部行っていて。アウェイは近場のところとか関西のほうにちょっと行けるかなあみたいな。で、割とホームにいるときは場所は結構限らずにいろんなところにいるんですけど。地元のゲストの方とか招待して行くことがあるんで、メインが多いんですけど。そうじゃないときは、たまにゴール裏行ったりして。

ーあ、ゴール裏も行く感じなんですね?

そうですね。まずアウェイ遠征のときはゴール裏なんで。

ー箱推しとか個サポとかあるじゃないですか?あれでいくとどうですか?

基本箱ですね。そんな特別にこれ!みたいな選手はいないですね。

ーサポーター歴的には何年ぐらいになるんですか?

もう、初年度から基本見に行ってるんで。まあ前身のチーム、YKKAPだったのときから数えると17,8年ぐらいみてることになるのかなって感じですね。

ーYKKAPのころもちょろっと見に行ってたんですね?

そう、ちょろっと見にいってました。

ーじゃあもう「Jリーグを目指すぞ!」ってところの空気感も知ってるってことですね?

そうですね、それはわかりますね。

ー2005年とか2006年ぐらいから見ていると。そっからYKKAPの流れでカターレになり、カターレになってからもずっと応援してて今に至るんですね

そうですね。

ー他になんか応援してるチームとかありますか?あ、ヨーロッパは今回は触れないでおこうと思うんですけど(笑)

チョメチョメですね(笑)日本ではもともと関東で学生してたので、川崎フロンターレを見てました。

ーへえ、川崎見てたんですね!知らなかったな

もう、自分の住んでるところに割と近くて。当時バイトしてたところが目黒区自由が丘だったんで。そこから電車で3駅ぐらいで武蔵小杉だったんで。

ーもうすぐに行ける距離ってことですね?

バイト終わったらすぐスタジアムにっていうのは何回かやったことありますね。

ーやっぱなんか、近場にあるのって違いますよね?

なんか「あ、こんな近いんだ!?」みたいな(笑)「こんな近くにこんなチームがあるんだ。ああ、いいな」みたいな。試合終わって帰るにしても家まで1時間もかからないし。

ーそんなとれぱん先生のご出身はどちらですか?

富山県下新川郡入善町です。

ーそうでしたね(笑)入善ってどんなところなんですか?

入善はですね、富山県の完全東側で新潟に近いところで。富山市から見たら結構な田舎ですね。水だけはおいしいよ!みたいな。

ーあ、結構東で海側なんですね?

そうそう。富山のホームスタジアムの県総(県立総合運動公園陸上競技場)まで行くのに1時間ちょっとぐらいかかるとか。そんな感じなんですよね。だから川崎に行ってたときみたいな完全に近所みたいなこととは真逆ですね。

ー県総まで行くのに車で1時間かかるのかあ。僕も1回だけ県総行ったことあるんですけど、結構富山駅からも遠いんですよね?

ああ、富山駅からも40分かかるんですよ。ここ数年結構電車で行ってるんですけど、あいの風とやま鉄道で電車で。だいたい・・・2時間ぐらいかかってるんですよね。

ーええっ?電車で行くと2時間ぐらいかかるんですか?

ああ、接続悪いんですよね。どうしてもそれがあるから30分とか待ったりするんで。公共交通機関でいくと結構大変だったりするんすよ。

ーそうするとどうしても車って選択肢になりますよね

どうしても車になっちゃうかな。ただ、まあちょっと富山市で仕事してたこともあったので、電車で通うのも慣れてたってのはありますね。

ーとはいえ、ホームゲームに行くのに電車で2時間とかだとさすがにしんどくないですか?

いやーー、だから結局駅前近くにスタジアム欲しいなあみたいな(笑)そんな話になりますよね。

ーだって、試合終わってからも2時間かけて帰るわけですもんね?

うん、そうなんです。

ーいや、それもキツイな(笑)

キツイっちゃ、キツイんすよねえまた。なんか富山駅のあたりで休憩しておかないとな、みたいな感じで。夜のゲームとか行くと、結構遅い時間に帰ることになるんで。気づいたら11時何分とか。まあ、「地方のそのへんはキツイなぁ」みたいなって思いますけど。

ー富山というと左伴さんが社長に就任されてますけどもどうですか?ちょっと空気変わった感じありますか?

ああ!やっぱり、クラブの方向性が違ってきましたね。なんかそれまでは結構おっかなびっくりな感じで、なんとか黒字で終わろうみたいな。あんまり攻めないというか。チームの人件費もそんなに上げないで、ちょっと緊縮財政的な堅実経営と言えば聞こえはいいんですけど。積極的ではないよねみたいな。そこから成長してく、ってなると厳しいよねってみたいなところがあったんですけど。左伴さんになってからは補強とかもどんどんやりますよとか、営業一生懸命頑張ってスポンサー付けますよみたいな感じなんですよ。このクラブを育てていくぞ!みたいなのがすごい伝わってくるようになりましたね。

ーそれまではどちらかといえば守りの経営みたいな感じで

うん、そうですね。カターレが出してる強化費とかのデータがあるんですけど、明らかに強化費のお金のかけぐあいとか全然違うんですよね(笑)その時点で、本気でJ2以上は行くぞ!みたいな。本気度が見えるなあって。

ーとれぱん先生的にはカターレ富山ってクラブにJリーグの中でどのくらいの地位を占めてほしいって思ってます?

まず、J2の真ん中ぐらいに行きたいっすね。そのへん行ってプレーオフぐらいは常に狙えるぐらいのところには行ってもらいたいなぁ。そこら辺をキープできるようになってからまたちょっと上を考えられるといいかなぁって。

ーそうするとJ3で長らく苦しんでるっていうのは結構厳しい時期でしたね?

そうですねえ。ちょっと厳しい。まあ、今は結構楽しくなってきましたけど。

ー2015年からJ3でいい成績のときもあるけど、やっぱりなかなか

ちょっと突き抜けられてないというか。やっぱり選手層とかもそんなに厚くないというか。今みたいにマテウスとかブラジル人がいたわけじゃなかったですし。「お金かけられないんだろうなぁ」みたいな。

ー左伴さんが来て変わりつつあるってことは、ここからちょっと楽しみですね

うん、そうですね。このあたりからスポンサーもガツンと上がって、今度は単価を上げなきゃいけないみたいなことを言ってますけど。チケット価格とかも上げちゃって、それでもしっかりお客さんに来てもらおうって。サポーターの方でもその辺支えていこうって意識もあって。ひと昔とちょっと違うかなみたいな感じがありますね。なんか全体的に盛り上げようみたいな空気が変わってきたかなみたいな。

ーそれはいいですねえ

やっぱクラブっていうか、その辺大きいビジョンを示すから、サポーターもどういう反応をしていいかどう向き合っていけばいいのかっていうのがわかりやすくなってるのかなぁってのがありますね。結構うまく一体感をつくれてるのかなぁってところが感じられますね。

ーやっぱり経営者がビジョンを示すって大事なんですね

それはほんと大切だなあって思いますね。まあ、ちょこちょこツッコミどころもあるんですけどね(笑)あの社長にしても。正直ちょっと「うん?」ってときもありますからね。

ーこれまでの長いカターレ富山との付き合いの中で「これは一番忘れられないなあ」ってことはありますか?

ああ、そうっすねえ・・・いろいろ印象に残ってることはあるんですけど、最近の最終節のやつが一番印象に残ってるかもしれませんね、もしかしたら。昇格の瞬間を一番近い席で見てやろうとおもって、ベンチサイドの近場で見てたんですけど。やっぱり選手の悔しがる姿とかを真正面で見ちゃって。こんなにメインで声上げてるサポーターのひとって届くんだなみたいに感じたり。なんか全体で空気作ってきた感じがあって、成長の証がかなり見えたなあみたいな。まあ、それで昇格ができなかったのは残念だったですけど。その成長の過程を見れてるっていうのが感動したんで。

ーそれくらい成長を感じたシーズンだったんですね

一番最近がやっぱりインパクトあるかなって。そのほかにもJ3の降格決まった瞬間も見てきてはいるんですけどね。それでもクラブの一体感みたいなものを作れてるのは、ここ数年かなって感じられるんで。ここからどうなっていくんだろう?みたいな楽しみがありますね。

オタク気質の少年時代


ーなるほど。では、ちょっととれぱん先生の昔の話をお聞きしていこうと思います。出身は入善ということでしたが、家族構成はどんな感じでした?

両親と、あと兄がいますね。

ーいまとれぱん先生はおいくつですか?

僕は40代ですね。

ー今思うと小さい頃ってどんな感じのお子さんでしたか?

そうですねえ・・・今も昔もオタク気質はかわらないですね。スポーツは結構好きでした。

ースポーツを見る方が好き?

そこまで本気で打ち込もうってほどじゃないですけど、遊びだったらやるのも好きって感じですね。打ち込んだやつでいくと、バドミントンぐらいですね。

ー小さい頃はスポーツを習ったりとかは特にない感じで?

あ、バレーボール習ったことありましたね。まあ、親もバレーボールやってたので。突き指するのが痛くて、結構ツラかったですね(笑)

ーやってみてしっくりこなかったらツラいですよね(笑)

なんかしっくりこなかったですねえ。しっくりきてたらちょっとまた違ってたのかなぁ。

ー小さいころからオタク気質的な、突き詰める感じだったんですね

それはありました。

ーその気質がどこに向けられてたとか覚えてます?

結構いろんなところでしたね。まあゲーム好きだったり。結構家族とかでバレーボールのVリーグに連れていかれることがあったから、バレーとかはちょくちょく行ってましたね。

ーVリーグの試合が富山にも来てて、それをご家族で見に行ってたんですね

実は入善にNECの工場と東洋紡の工場があって。その工場の方々の福利厚生事業としてときどき試合が来ていたんですね。それでお隣の黒部市も結構男子のバレーボールをよく呼んでいたので、そういうこともあってちょこちょこ見にいくことがありましたね。

ーそうするとスポーツ見にいく記憶っていうとバレボールが一番古いかな?みたいな

ああ、バレーボールが一番古いですね。今でも「いいな」とか思いますからね。

ー当時バレーボール見に連れていかれてるときの心境はどうだったんですか?

やるのはツラいんですけど、見ると楽しいんです。でも、あそこにたってみようとは思わない(笑)でも、結構サッカーとかだったら「あ、かっこいいなやってみようかな」みたいなのはあったですね。でも、入善はサッカーどころだったか?っていうとそうでもなかったので。

ー当時僕らが子どものころってサッカーがまだそんなにメジャーじゃなかったですよね?

うん、メジャーじゃなかったですね。僕の住んでるところの近くの公民館の駐車場で近くの子どもが集まって遊んでたんですけど、やっぱりやるってなると野球が多くて。

ーうんうん

サッカーもたまにやってたんですけど、駐車場なんで下がアスファルトなんですよね。危ないったらしゃーないっていう。それでも楽しかったですけどね。公民館で遊ぶ分には野球もサッカーも楽しいなあって思ってましたね。

ーサッカーの存在を認識したのっていつぐらいですか?

ああ、たぶんゲームですね。

ーおお、ファミコンですか?

そうですね。

ーサッカーのゲームっていうとなんだろう?なんか覚えてます?

友達のうちでは任天堂の『サッカー』を遊んで、僕の家なんてメガドライブだったんで。セガ派だったんですよ。そっちで『ワールドカップサッカー』とかでかなり遊んだ記憶がありますね。そこでサッカーとは出会ってますね。

セガ繋がりでジェフ推しに


ーでも、サッカーの試合を見るってなるとまだまだもうちょっと先で?

そうですね。やっぱり試合中継やんないですからね富山県だと。Jリーグが始まってやっと見にいけるようになったかな?みたいな感じで。それこそ横浜フリューゲルスが年1ぐらいで試合やってて。

ーオリ10が地方に回ってくるやつですね

そうそう、しかもフリューゲルスは佐藤工業がバックアップしてたので。そのつながりで富山に来て、富山ホームみたいな感じでしたね。

ーあ、佐藤工業は富山にゆかりがあるんですね?

まあ、本社富山ですからね。

ーああ!そうなんですか!そりゃ来ますわね(笑)

ええ、スポーツに熱いところですね佐藤工業さんは。まあ、いまでもカターレのスポンサーになってくださってるので。

ーサッカーを見にいくカルチャーに触れていくのはやっぱりJリーグがはじまってからで?

そうですね。フリューゲルスとか初年度見に行きましたからね。やっぱり。

ー中学校に入ったぐらいですよね?

そうですね。そのときに好きだったのはリトバルスキーだったので、最初はジェフがすきだったんですけどね(笑)まあ、だから今現在のジェフもちょっと気になる存在ではあります。

ーいやぁ、オリ10のころに見てたチームってやっぱ気になりますよね?(笑)

そうなんすよね(笑)

ー僕も横浜マリノスを見ていたので、なんか”昔遊んでた公園”みたいな感じがするんですよね(笑)

ハッハッハ(笑)ウチの学校はマリノス好きな人結構多かったですねえ。

ーでも、とれぱん先生はジェフだと

ええ、だってセガが。

ーあー!そこつながりがあるのか

はい。メガドライブですから私は(笑)

ーもうそのころにはセガユーザーとしてのプライドみたいなものが

ええ、やっぱちょっと意識しますよね(笑)

ー持ってる人がそんなにいないですもんねセガのハード

いないですね。メガドライブ持ってるだけで、自分の家がゲームセンター状態になってましたからね。中学生ぐらいまでは同級生が遊びに来るみたいな感じでした。

ーあ、そんなにゲーム好きだったんですね

うん。ウチの部活のやつらがみんな集まって、部活終わったらウチで遊ぼ!みたいな。

ー親はなんも言ってこなかったんですか?

ああ、友達を連れてくる分にはいいって感じで。

ーサッカーへの関心の入りもいろいろあって、代表からとかW杯からとかもありますけどやっぱりJリーグから入った感じですか?

そうですね。Jリーグ入りかな?って感じですね。当時の空気を思うと。やっぱり富山の方のTVになるとちょっとフリューゲルスびいきみたいなところもあって取り上げられてましたし、富山出身の選手なんかもよく紹介されてて。

ー富山の当時の空気感だとなんとなーくフリューゲルスびいきだったんですね?

それはありますね。結構古いサポーターの中には割とそういう人もいるかもしれないですね。ただ、フリューゲルス一回歴史が途絶えちゃってるので。佐藤工業が経営傾いちゃって、それでフリューゲルス潰しちゃうようなことになっちゃったですからね。結局他のところ、浦和だったり、ガンバだったりのサポーターでしたみたいな人もいると思います。

ー中学校くらいにはもうJリーグは富山で見にいったことがあるってことですね?

うん。もう、あの頃はなんかしらJリーグが来たら見てたんで。あとそうですねえ・・・Jリーグの最初の勢いがなくなってきてだんだん低迷してった時期があったんですけど。そこに関して富山にそこまで影響があったか?というと実はあんまり感じてなくて。なぜか?というと、そのタイミングで柳沢敦が出てきたんですね。

富山の大スター柳沢敦の登場


ーああ、富山第一!

ハハ、そうなんですよ!

ーちょうどJリーグが陰ってくるのと入れ替わるように地元のスターが出てきちゃうんですね

それど鹿島のサポーターになった人が多かったりしますね。富山の人の柳沢敦に対する愛情はすごく熱いものがあって。

ー柳沢敦は次の日本を背負うのはこいつだ!感あったほどの選手でしたもんね

うんうん。もう彼が高1くらいのときから地元では結構名前が富山のメディアに出てたので。「ちょっとすごい選手が出てきたぞ」みたいな。

ー2000年代初頭とかだとJリーグの地上波での露出が減ってきますけど、当時の富山はどうでした?

富山に関しては富山のスポーツ界の顔が柳沢敦だったので、人気低迷の空気そこまであったっけな?みたいな感じでしたね。鹿島が富山で試合したとき、やっぱりスタンド埋めましたからね。すげえ人気でした。結構みんな柳沢大好き!みたいな。今でも多いぐらいです。しかも、カターレができたときに署名活動があったぐらいです。

ー署名活動?

「柳沢を獲得してほしい」っていう。一時期あったんですよ。それぐらい熱い思いがありましたね。

ーフランスW杯の予選とか本大会とか、あのあたりの代表戦とはは見てました?

ああ、欠かさず見てましたね。やっぱり。

ーその間もとれぱん先生的にはジェフサポみたいな立ち位置だったんです?

そうですね。東京に行くくらいまではほぼそのノリに近いですね。

大学で出会った川崎フロンターレ


ー大学で東京行かれるんですよね?

大学で近くに川崎フロンターレがある!ってなるまでは、って感じで。そこで乗り換えたんですよね。

ー大学に行かれたのは何年ぐらいですか?

えーと、1999年ですね。あの当時の空気感だとやっぱりフリューゲルスがつぶれるんじゃないか?とか合併の騒動もあったので、フリューゲルスの動向も気になってた時期でしたね。しかも、当時フリューゲルスに富山出身の選手もいたんで。結構地元メディアとかでも取り上げられてましたね。

ー関東に住んでいながらそうやって富山とつながりの強いフリューゲルスが危ないぞって騒動になってるのをどんな気持ちで見てたんですか?

なんとか保ってほしいなっていうのはずっとありましたね。結構最後まで合併とか信じられなかったですから。「ほんとに無くなるんだな・・・」みたいな。元日の天皇杯の決勝見た後でも「これほんとなのかな?」って思いましたからね。そしたら本当になくなっちゃって。そういうこともあったので、横浜FCの最初のころの試合とかもちょっと見たことあるんですけどね。なんかぽっかり空いちゃう感じというか。無くなることはないだろうって思ってたら、ほんとに無くなってしまって。選手たちも、たとえば”男前田”の前田浩二とかあんなに必死に訴えてたからなんとかしてくれるだろうって思ってたんすけど。

ーそうでしたねえ

それでマリノスってチョイスも・・・別に?って感じだったし。しばらく横浜FCの行く末とか見てみようと思ってたんですけどね。結局川崎の方が近いなってなって。学生が使えるお金と時間との兼ね合いもあって。

ーそうですね。そこは大事ですよね(笑)

だいたい当時の横浜FCほとんど三ツ沢じゃないところでもかなり試合してたんで。それこそ厚木とか。今でいえば「ほぼ相模原のホームエリアじゃん!」みたいな場所でしょっちゅう試合してたんですよ。それで「あ、これは行けないや」みたいな。

ーとれぱん先生的には千葉や川崎って「ああ、ここが私のクラブだな」って感じじゃなかったですか?

あー、今でもやっぱり気にしますね。正直。思い入れはあるクラブなんで。だから結構千葉とかも顔を知ってるサポーターとかもいますし。川崎の方は自分が行くってなったらチケット用意してくれる人がいたりするので。「言えば取っとくよ?」みたいな感じで。だからうすく繋がってる感じはしますね。やっぱ複数もチームを見るとなるとそこまで余裕があるわけじゃないので。ましてやもう一つの顔のことも考慮したら日本のサッカーもいろいろ追うってなると。J3で手いっぱいだなって感じで。それ以上はキツイなっていう。

ー大学のときは近いから川崎をずっと応援していくって感じですか?

うん、そうですね。

ー富山にいたときに比べればスタジアムによりいけるようになりますよね?

川崎、しょっちゅう行ってましたね本当に。楽しかったなあ。ゴール裏とかも最初「怖いな」って遠巻きに見てたんですけど、行ってみたら「あ、意外と楽しい」って思いましたし。ただ、川崎のゴール裏、あのGゾーンとかあのへんって全く試合が把握できないんで(笑)だから、そんなに回数いかなかったですけど。

ーゴール裏体験はそこが初めてですか?

そうですね、ゴール裏は川崎が初めてですね。

ー「おもしろそうだな?」って好奇心で行ってみた感じですか?

そうですね。「こういうところはどうなってんだろうな?」みたいな。最初「行ってもいいのかな?」みたいな感じだったんですけど。やっぱりなんか応援団が陣取ってるエリアがあったんで。何も知らないとそういうイメージを持ちがちなんですけど。行ってみたら「あ、問題ないんだ」って。「また、来てよ」とか言われて。「あそこ意外とフレンドリーなんだなあ」とか思ったりして。

ー大学のときに近くにそういう環境があって足繁く通ってたらもう忘れられない記憶になりそうですね

ああ、なんかあの川崎の体験で地域密着ってどういうものなんだろう?っていうところを肌感覚で感じたというか。「こういうことなのかな?」みたいな感覚を持ったのを覚えてますね。

ーなんかいいお手本を見たな、みたいな

うん。2006年まで東京いたので、ある程度成長していく過程を見てるんですよね。Jリーグに上がってどんどん成長していって。なんか「あんなクラブになったんだな」「なんかえらいクラブになっちゃった」みたいに今では思いますけど。当時でも川崎と千葉の試合とかも見てるんですけど、完全に気持ちとしては川崎の方に傾いてました。

ーそこの違いってなんなんでしょうね?

なんなんですかねえ・・・地域密着の力なのか?わかんないですけど。

ーその当時はそのままこのあたりに住んでみたいな未来を考えたりしました?

ああ、ありましたね。やっぱり最後の2年川崎市民だったので。最初移り住んできたときは東京都の方だったんですけど。住民票も川崎に移してましたし、南部線沿いで見に行ってたので。

ーじゃあもうほんとに普通に地元の人ですね?

川崎の選手たちが普通に地域活動とかしてるのを普通にみかけて。「ああ、あんなことやってるんだ」みたいなこともありましたし。

ーそういう暮らしが2006年ぐらいまで続くと

そうですね・・・ただまあ最後らへん2006年の夏ぐらいに結局地元に帰っちゃうことになったんですけど。

ー川崎に住んでみた7,8年っていろんな体験をしたと思うんですけど、今から思うとどういう時期だったですか?

いやぁ、なんか成長の過程を見れたのがすごいよかったなというのと。やっぱり自分がいたときから川崎フロンターレを盛り上げるぞ!みたいなところがちょっとあったんで。ヴェルディがいなくなるってみんな知ってたんで。その雰囲気を作っていくところなんかも結構おもしろくて。「あ、こういうのが自分のチームを持つ意味なのかな?」みたいな。おそらくそういう気持ちを抱いた人たちが富山とかに戻って、自分の地元にも欲しいよ!って思った人が結構いるんじゃないかなって。なんかそういう気持ちよくわかるんですよね。

富山に戻ってカターレの黎明期に

ーそして2006年に富山に戻ってくると。当時は何歳ぐらいですか?

ええと、25ぐらいですね。

ーそこからカターレというかYKKAPと出会うみたいな流れですか?

まあ、お仕事してるところが魚津市だったんで。YKKがホームとしていた桃山競技場が魚津にあるんですよ。そういうこともあって身近なチームだったし。あと、昔からYKKは結構サッカーそれなりに強いっていうのはニュースになってたので。

ーああ、じゃあ地域のニュースで「YKKのサッカーがどうこう」みたいな情報がチラチラ耳に入るみたいな感じだったんですね?

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