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"本当の声を聞かせておくれよ"くろっぷさん【福岡サポインタビュー】

取材日 2023年11月29日21:30


前編

ゲーオタ、アニオタだった少年時代

ーご無沙汰しております!

ご無沙汰しております。

ールヴァンカップ優勝おめでとうございます!

ああ!ありがとうございます(笑)

ーいやー、お見事でしたねえ

いやーちょっと、勝っちゃいました。

ー試合もすごくいい試合だったじゃないですか?

そうですね。びっくりしました。

ー緊張しすぎてガチガチになるとかもなくて

うん。なんかまあ、あれですね。天皇杯も準決勝まで行って、ぼろ負けしたりとか。その前のリーグ戦も横浜Fマリノスに0-4で負けたりとか。なんかそういうのが逆によかったのかな?という気がしています。

ーなんかふっきれるというか

そうですね。

ーこの企画を思いついたときにお声がけしたいなと思ったひとが何人かおられたんですけど、その中のお一人がくろっぷさんでして

ありがとうございます!

ーええ、ぜひお話させていただけたらなと思っておりました。どうぞよろしくお願いします!

はい。ありがとうございます。

ー早速なんですが、いま、くろっぷさんはおいくつですか?

48歳ですね。1975年の3月生まれですね。

ーご出身はどちらですか?

福岡県ですね。福岡県の田舎の方なんですけど、筑豊の。いま嘉麻市っていうところなんですけど。

ー僕一応両親の田舎が福岡なので、ざっくり地理はわかります

おお、そうなんですね。麻生太郎を生んだ町の隣町ですね。まあ、炭鉱の町なんですね。僕が生まれたころにはもう閉山してたので、町は衰退する一方だったんですけど。田んぼと山しかないっていう。

ーじゃあ小さいときは田舎暮らしでという感じで

そうですね。

ーどんな感じのお子さんでしたか?

通信簿に毎回書かれているのは”落ち着きがない”ですね(笑)

ーハッハッハ(笑)

いまでもそうなんですけど(笑)

ー活発な感じで?

うーん、まあ活発なのかな?僕らのころはまだテレビしかないときなので、もう家に帰ったらランドセルを放り出して公園に友達と遊びに行くっていうのが子どものころは毎日でしたね。

ーご家族の構成はどんな感じでしたか?

両親と、姉が5つ上で、下に6個下の弟がいて。5人家族ですね。

ー3人兄弟で

そうです。真ん中の長男って感じです。

ー子どものころスポーツとかはされてました?

スポーツは・・・えーっとですね、小学2、3、4までやったんかなあ?剣道をやっていて。

ーあ、僕と一緒ですねえ

でも、もうほんとちっちゃいころしかやってないんで防具とかは全然持ってなくて。ただただ「メーーン」って走ってるだけでした。それが最初で。夏はプールに行って水泳をやっていて。4年生からミニバス。

ーそこでバスケと出会うんですね?

そうなんですよ。まだ『SLAMDUNK』がはじまる全く前ですね。『ダッシュ勝平』の時代なんで。

ー知らないなあ(笑)

ハッハッハ(笑)コロコロコミックなんで、まあそっち系ですね。

ーあーそっちか!なるほど。福岡っていうと結構野球が熱いんじゃないか?と思うんですけど

そうですね。ただ、僕らが子どものころって、福岡で言うとプロ野球の球団がちょうどなかった時期なんですよ。かつ、僕ら田舎に住んでたんで、もうみんな巨人でしたね。

ーあ!むしろ?

はい。僕らは巨人。で、あとは西鉄ライオンズを応援している人たちは、そのまま西武ライオンズを応援してるっていう。そのどっちかでしたね。

ーじゃあ、プロスポーツを見にいこうっていうのは田舎だったこともあってなかなかという感じで?

そうですね。唯一当時見たプロスポーツは・・・全日?

ーあーっ!プロレス!?そっか、そうなりますかねえ

そっちの世代ですね。プロレス世代。まあ、やっぱり地方巡業してたので隣の市の体育館に見に行ったのは今でも覚えてます。

ーご両親とかもガチガチの巨人ファンという感じでもなく?

ウチねぇ全然スポーツは見てなくて。で、従業員の方が巨人が好きで、見てたって感じですかね。

ーおうちはお商売かなんかされていて?

あ、そうなんですよ。肉屋をやっていて。で、住み込みに近い形で従業員の方がいて。晩飯なんかも一緒に食べてたんですけど。その方が野球見るから野球見てた、みたいな感じですかね。あとは草野球というか。もう、僕らの周りってスポーツって野球しかなかったんで。なんでランドセル置いてみんなで野球しに行くみたいな。まあ、そんな感じでしたね。

ー子どものころ野球っていうと普通にファーストチョイスでしたもんね

そうです。なので、バスケ始めたとき体育館でやってたんですけど、「バスケやってるやつがいる」みたいな。

ーああ、野球を選ばずにマイナーなバスケをなぜ?という

まあ、まだサッカーは『キャプテン翼』のリアタイ世代なので。サッカーはまだメジャーなんですけど。とはいえ、町にチームが1個あったかな?ぐらいの感じだったので。

ーじゃあ、周りの子どもたちも「少年団とか入って野球やるのがスタンダードだろ?」みたいなノリですかね?

そうですね。どこのチームに入るか?みたいな感じですね。

ー他の競技は入り込む余地なしみたいな(笑)

なし!でしたね(笑)

ー当時のくろっぷさんは「こうなりたい」とか「これにハマった」とか記憶ありますか?

僕らがちょうど小学校3年生、4年生ぐらいにファミコンが出て・・・

ーっあああああ!・・・そうか!

ファミコン初代世代なんですよ。かつ、今は全くできないですけど当時はレンタルビデオ屋さんでファミコンソフトをレンタルしてたんですよ。

ーええええ、そんな夢のようなサービスが!

1泊2日100円とかで。ファミコンはもうめちゃくちゃやってましたね。っていうのもあって「ゲームを作る人になりたい」っていうのがありましたかね。

ー勉強とか学校のスポーツとかはどんな感じでした?

スポーツはバスケをやってたんで。うまくはないんですけど。弱小チームだったんで。まあ、体力は。またこれもねえ、ほんと昔話なんですけど。体育館、窓・カーテン締め切り、水飲み禁止だったんですよ。

ーもう、古典的な(笑)

で、手も出るっていう(笑)感じだったんで。体力はあったんで持久走とかは学年で2番とか。体力だけはありました。

ー子どもの頃って一芸持ってると認められて自信持てるみたいなところあるじゃないですか?勉強できるとか、モテるとか、足早いとか。くろっぷさんでいうと「走れる」みたいなことがそういうものに当たる感じでした?

それが、今考えると勉強はまあそこそこ。母親がスパルタ・・スパルタまではいかないけど自分が勉強をしてこなかったから子どもにさせたい!って感じで。塾とかも行ってたんで、成績もよかったのもあって。なんか鼻にかけた言い方をしてたと思うんですよね。だから、いじめられてました。

ーあ、そうなんですか!「ちょっと生意気だぞ」みたいな

ハッハッハ(笑)まあ、そうですね。なんか、あんまりいい子どもじゃなかった気がします今思えば。

ー中学に進むと部活も始まって、すこし大人になってくると思うんですけど。地元の中学に進む感じですか?

そうですね。そのまんま町の中学校に入って、最初バスケ部入ったんですけど。これがまたですね・・・『ビーバップ・ハイスクール』ど真ん中世代でして。学校が『ビーバップ・ハイスクール』を地で行くような感じだったんですよ。

ーハッハッハ(笑)

なんで、バスケ部入ったけど全然バスケの練習しないし、先輩もそんなよくなかったんで。一年でもう辞めちゃって。で、帰宅部になったって感じですね。

ー帰宅部になると結構時間は持てるようになるのかな?と思うんですけど、友達と遊んだりみたいな感じですか?

で、そん時に、まあゲームは引き続きでやってて、あとアニメにハマったんですよね。なんで、ゲーオタ、アニオタでした。はい。陰キャです(笑)

ーなるほど、そこでバスケから転向していくわけですね

そうっすね(笑)めっちゃ陰キャだったと思います。

ー自分から動いて仲間と一緒になんかやってみる!みたいなことはその当時発想とかなかったですか?

なんか、まあわかんないですけど、小学校のミニバスのときもキャプテンにはなってるんですよね。そういう意味では、なんかこう「自分からやろうぜ!」って感じではないんだけど、気がつけばなんかそんなポジションについてたとか。そういうのはあった気がします。中学校のときはね、ほんとゲームとアニメまっしぐらで、クソ真面目人間だったんで。『ビーバップ』な学校じゃないですか?みんなボンタンとか履いてる中、僕だけストレートだったし。

ー学校行くの怖くなかったですか?

あーでも、それはあれなんですよ。小中一緒じゃないですか?

ーあ、そっか

で、知ってるは知ってるんですよ。なんで、目をつけられなかったらなんもされないんでって感じで。別に行くのが怖いはなかったですね。たまーに、変な先輩が学校に車で乗り付けるみたいなのはありましたけど。

ー時代だなぁ(笑)

時代!(笑)もう、いまでは絶対あり得ない(笑)「ビーバップって、あれ?うちの中学校のことを描いてんのかなぁ?」ぐらいの(笑)

まあ、時代的に僕が生まれたころに炭鉱が閉山してちょうど10何年っていうタイミングで。ウチは肉屋だったんであれなんですけど、要は炭鉱で働いていた人たちがやっぱり生活がきつくなっていく感じで。長屋住まいのひとたちもいっぱいいましたし、っていうところでどうしても生活が荒れてしまうっていう環境はやっぱりあったのかなあって思いますね。

ー中学校時代は勉強とかはそこそこ頑張ってみたいな?

そん時は、また母親なんですけど。別の肉屋さんの子も僕と同じ学年だったんで、「こいつには負けんな」ってずっと言われてて。

ーああ、ライバルを勝手に(笑)

そうそう、勝手にね(笑)しかも、そいつはそのままバスケ部でやってて。そういうのもあって、学校の中では5本の指に入ってたと思います。常にオール5だったんで。ただ、隣町の塾に行くと、あたりまえですけど上には上がいるじゃないですか?そこでは底辺の、下の下の上のほうなんで。全然成績悪くて。とはいえ、エリア内では一番上の高校には行けたんで、まあホッとしたって感じです。

ー小中とか子どものころご両親との関係とかは別に普通って感じですか?お母さんちょっと厳しいみたいな

まあまあ、厳しいですけど、とはいえ世話好きなんですよ。めちゃくちゃ。まあだから両親とも世話好きで。母親とかもミニバスのときとかは、保護者会の会長もやるし、毎月保護者向けの会報誌を作って配ってたりもしてましたし。

父親もだいたい〇〇会とかの会長になったりとか、商店街だったんで商店街の会長になったりとか。消防団行ったりとか。そんな感じではありましたね。商店街で生まれ育ったんで、ちっちゃいころから大人とかとの付き合いもあったし。夜市とか行くと客側じゃなくて出店側、焼き鳥焼いてるとか。そっち側にいることが多かったですね。主催側にいることが多かったのかな。

ーあー・・・なるほど!じゃあ割と大人が見えないところで動いてるところっていうのも子どものころから見ていてみたいな?

まあ、そうですね。良くも悪くもね。

ーで、高校は地元ではいいほうのところに行ったと

そうっすね。そこの制服を着るのがひとつのステータスだったんで。まあ、そこにはいけたんですけど。中学校では上の方だったけど、高校ではもうずっと下の方の成績でした。

ーそういうときって落ち込んだりしました?

いや、全然。

ー「まあ、こんなもんかな」みたいな

まぁそうっすね。一応大学には行きたいと思っていて、行きたい大学はあったんですけどそこは最初全然届かなくて。「勉強しないとな」と思ってやってたんですけどね。なかなかでしたね(笑)

ー中学校は帰宅部で言ってみれば”オタク的”なムーブでいってたと思うんですけど、高校に入ってなんか変化とかありましたか?

高校に入ってそれに輪がかかってですね。あーでも、ちょっと違うんですよね。物理部っていう文化部に入ったんですけど、物理部に入った理由もパソコンがあったんですよね。先輩とかもゲームを部室でやっていて。パソコンも触れるし、っていうので入った感じです。

ーあの当時のパソコンっていうと今みたいに誰もがもってるっていう世界じゃなかったですよね

じゃ、ないです。

ー結構珍しいですよね

まだWindowsも出る前なので、かなり珍しかったと思います。記録媒体もカセットテープとかだったんで。ハッハッハ(笑)

ーあーそうなんですね!フロッピーディスクとかですらないんですね?

フロッピーが出始めたころですね。

ーパソコンとかに関心があったので物理部へという?

まあでも、結局ゲームからですね。「ゲームを作れるようになりたい」っていう。当時のパソコンの載っている雑誌を買うと、1ページプログラムがバーッと書いてあって。それを打ち込むと簡単なゲームが作れるみたいなのがあったんですね。それを自分で打ち込んで遊んでみたりとか。文化祭のときは占い作って、そん時が高校で一番モテてたみたいな。「モテてた」っていえるのかわかんないですけど(笑)

ー高校は自分が将来思い描いてた方向性に路線としては近づいてるというか

そうですね。たまたまなんですけど、その学年だけなぜか女性が多くて。男女半々ぐらいだったんですけど。なんかこうオタな感じだったんだけど、女性の友達ができたりとか。なのでちょっと華やかでしたね。

ー陰キャ系だと女子とのつきあい難しいみたいなの一般的にあるじゃないですか?そういうところで悩んだりすることはなかったですか?

まあ、友達としては全然なく。ただ結局付き合ったりは全くなかったんで、みんなカップルができていくのに。そんだけ女子が多いのに。

ーそこはなんか理由があったんですか?

いや、それは、当時の女子に聞いてみないと(笑)

ー「こちらの問題ではない」みたいな(笑)

ハッハッハ(笑)

ー高校の3年間は楽しかったですか?

もう、部活しか記憶にないですね。部活は楽しかったですね。いまでも、先輩も含めて同級生と交流はあるので。逆にクラスメートのほうは、この前も同窓会があったけど。「行こうかな?」って思ったけど、「ま、いっか」って感じになったし。

ー高校のころまではプロスポーツを見にいったりということもそんなになく?

高校はないっすねえ。うん、ないですね。

ー小学校のころ『キャプテン翼』が来ていてサッカーというものは知っていたけど、高校時代もサッカーに関心はなくて?

全くなかったっすねえ。

ー自分の耳にも入ってこないような?

まだ、Jリーグも始まってなかったんで。なので、なおさらなにもなかったですね。サッカーは・・・CMで釜本(邦茂)さん見るくらいじゃないですかね。

ーあー、そっか!

ハッハッハ、古いっ(笑)

ーそっかそっか、まだJSLの時代ですもんね

まあ、そうっすねえ。釜本さんはもうすでに引退されてたんですけど。

ー高校時代は部活を中心に楽しく過ごして、大学に行かれる感じですか?

そうですね。大学が結局私立の工業系の情報学科に。名前書いたら入れるような大学に入ったんですけど。まあ、でも高校の延長みたいなもんです。結局またコンピューター系のサークルに入ったんで。

ーそこの関心は小さいころからずーっと続いてるんですね?

そうですね。仕事も今はエンジニアではないですけど、結局その流れでIT系に入ってるので。

ー大学も高校と同じような感じでエンジョイしていくっていう?

そこもコンピューター系が2種類あったんですけど、ひとつは言い方悪いですけどオタクの集まり。で、もうひとつは陽キャなんだけどパソコン系みたいな。そんな感じだったんですよ。僕はそっちに入ったので、だから自然と。そん時にアニメを辞めたんですよ。

辞めたっていうのは、『エヴァンゲリオン』ってあるじゃないですか。あれがちょうど大学入るときにはじめて放送されたのかなあ。「これを観たら、人生詰むな」って思ったんですよ。「そっちの道にどっぷりいっちゃうな」って思って。

ーああ、なるほど!

ガイナックス、僕庵野さんの作品ずっと好きなんで。ずっと見てたんで。「これを観たらもう終わるな」って、アニメ断ちをしたんですよ。サークルもみんなワイワイ系だったんで、そっちのノリに行ってって感じですかねえ。

ー中学校からコツコツと続けてきたアニメファンとしてのキャリアをいったんちょっと

一旦止めたって感じですね。

ーじゃあ趣味的な部分でいくと、パソコン系のほうとゲーム?

うーん、というかそのサークルに入って、ちょうどそのころボーリングブームってのがあったんです。ボーリングブーム、ビリヤードブーム、カラオケブームがあったんで、この3つに乗っかってました。

ー大学生のところはもう地元は出られてるんですよね?

ああ、そのときは福岡市の大学に行ったんですけど、通いだったんですよね。片道40キロぐらい。ひとやま越えて通ってたんですけど、電車で一時間半ぐらいですかねえ。

ーそのころは「自分の好きな路線で仕事していけたらなあ」みたいな?

そうっすね。まあ、教師というか研究室に入って、そっちの道を究めたいみたいな思いがあったので。そっちで考えてましたね。

ー大学生活って楽しいじゃないですか?印象に残ってるエピソードとかありますか?

車の免許を取って、ドライブは好きで。車に乗るのが好きで。「じゃあ九州一周しよう」って言って。友達4人で九州一周。しかも、ただ高速乗っていくんだとおもしろくないんで、九州の形のとおりに回っていこうみたいな。

ー沿岸沿いを(笑)

ハッハッハ(笑)当時はほんとユルかったんで、無料駐車場とかに寝泊まりして。次の日出発するみたいなのをやったりとか。東京まで車で行ったりしましたし、そん時も「高速禁止な」っていう変なルールをつけて。「有料道路はOK」みたいな(笑)

ー大学生ノリですねえ(笑)

でしょ?(笑)国道3号線-2号線-1号線で東京行ったりとか。しかもそれ、親の車で。新しく車買ったばっかりだったんですよ。1か月で何万キロとか走ってるから。

ー「なんじゃそら!?」っていう(笑)

「おまえなんでこんななっとるんや??」って。ちょうどナビが入ってて、履歴が残るじゃないですか?

ーはいはい

「・・・おまえ東京行った?」って。ナビでバレるみたいな(笑)

ーいやぁ、おもしれえなその話(笑)大学生のころってほんとそんなばかばかしいこと楽しかったですよね

楽しかったですねえ。

Jリーグとの出会い

ー大学のときはサッカーとのつながり的にはどうですか?まだまだって感じですか?

いや、これが実はあるんですよ。1993年にJリーグが始まったじゃないですか?

ーそうですね

そのころって実は福岡は年に数回Jリーグが来てたんですよ。

ーああ、オリ10が地方に回ってくるみたいなやつですね

そうですそうです。6個下の弟がサッカーをやっていて、当時中学生だったんですけど。「弟を連れてJリーグを見せにいけ」と。親がチケット買うんで、「おまえ連れていけ」っていうので行ったのがサッカーとの出会いですね。

ーくろっぷさんが弟を連れてってあげようということではなくて、親がむしろ「行ってこい」と。親御さんはどういう意向だったんでしょうねえ

ああ、いやいや、普通にサッカーをやってるので。

ーああ!弟さんがサッカーやってるから「プロを見にいかせたい」っていう

そうそう、サッカーやってるし、プロの試合をやってるし。たぶん、弟がプロになりたいって言ってたんだと思うんですけど。

ーそこまでバスケとか野球とかやっていてサッカーとの接点が全然なかったくろっぷさんがそこでプロサッカーと接触するんですね

まあ、そうっすね。『キャプテン翼』ぐらいですね。

ー最初に行かれたときの記憶とか覚えてますか?

あれは・・・グランパスとガンバだったかなぁ・・・だったと思うんですけど。弟がグランパスが好きで。なんでグランパスばっか見てました。ディド・ハーフナーとか。リネカーはいなかった気がする。94年とかだった気がしますね。

ー当然選手もそんなに知らないですもんね

全く知らない。そんときパンフレットとかもらったりして、見てやっとみたいな。日本代表だろうと、日本代表じゃなかろうとわかんないという。

ー当時はまだ福岡にJリーグクラブはないころですよね

ないです。94年に福岡にプロサッカーチームを作ろうっていう誘致活動がありまして。50万人の署名を集めたっていう。僕はそこ全く関与してなくて。

ー1回試合は見に行ったけど、そこで火がついてってことじゃなかったんですね

サッカー自体には、そうですね。サッカーの見かたもわかんないですしね。いまだにわかってない気もするけど(笑)

ー福岡に誘致活動があったけど、くろっぷさんはそこまで関心はもっていなくて

そうですね。で、決定して藤枝ブルックスが福岡に来ることになったんですけど。藤枝ブルックスも福岡で1試合か2試合やって。それも見にいってなくて。で、福岡ブルックスが95年にできて・・・たぶんシーズンオフだったと思うんですけど、カップ戦があったんですよ。カップ戦というかプレシーズンマッチみたいなのがヴェルディとメキシコのグアダラハラってチームを呼んで、福岡ドームでやったんですよ。

ーあ、福岡ドームでやったんですね

はい。だから、ヴェルディ戦とグアダラハラ戦の2試合かな?で、それを見にいったんですよ。そんときにコーナー近くの席に座っていて、ウーゴ・マラドーナ見て。で、「好き」ってなって。

ーウーゴ・マラドーナに魅了されたんですね!

魅了されましたねえ。マラドーナに。

ー結構似てる弟でしたよねえ

そうそうそう。プレーも似てたんで。それが最初ですかねえ。そこでファンクラブに入って。

ーじゃあアビスパ福岡との最初の接点はそこで?

そこですね。いける試合は行ってたんですけど、とはいえホーム全試合行くとか、ゴール裏で応援するとか、ではなくて。いわゆるファンというか、ライトファンって感じだったと思います。

ーそのころのくろっぷさんの進路としては、次に大学院にいかれるんですね?

ちょうど僕が入った研究室が、今でいうメタバース。ブラウザ上で3D空間を作ってその中をウォークスルーできるっていう言語があったんですけど。まあ、僕が作ってたのはヴァーチャルキャンパスを作って、その中をウォークスルー出来るっていう。

ーそれおもしろそうですね

でも、ちょっと、早すぎましたね(笑)30年ぐらい早かったですね。そんなことをやっていて、それでそのまま大学院に推薦で入れて。好きなことだと成績がいいんで。あとは、そんときにインターネットと出会ったんですね。研究室に入って。ちょうど93年とかに慶応とかで使われだして、情報系だったのでウチもちょっと早かった。96年とかにはもうインターネットに触れていたので。サッカー関係なく、いわゆるインターネットでのコミュニケーションをやりはじめたりとか。大学とかだと100万ぐらいの最新のパソコンが置いてあって、普通に使えたんで。もう、家より研究室にいることの方が多かったって感じでしたね。

ーそのあたりが96年、97年ですね

そうですね。このころにちょうどimodeが出てきて、野良サイトを作れるようになったんです。で、imodeで見れるアビスパのファンサイトを開設したのが97年。たぶん、最初じゃないですかね?

ーそんなときからやってるJサポいないですよね普通に(笑)

そうっすねえ(笑)

ーじゃあアビスパサポーターとしてなんかやってみるっていうのはこれが最初っていう感じですか?

そうですね。自分でこう何かをやったっていうのはこのぐらいのときですかねえ。で、ちょうど今の雁ノ巣の練習場にアビスパが移転してきて、大学から近かったんですよ。まあ、大学生ヒマじゃないですか?

ーそうですねえ

このころ大学1,2年で単位をとりまくったんで、3年、4年はめっちゃヒマだったんで。結構雁ノ巣に見に行ってたりとか。練習試合があったらもう全部メモして。「今何番が何番にパスした」とか紙にメモって行ったりとかしていて。

ーああ、そこにオタク的な突き詰め気質が(笑)

そうそうそう!(笑)で、それってふつうのひとはなかなか見に行けないから、その練習結果とかをこのファンサイトとかに載せたりはしてましたね。

ー当時はまだメルマガとかもなんもないですもんね

まだないっすねえ。アビスパは公式ホームページは早かったんですよ。96年からもうあったんで。ただ、野良サイトはなかったんで。それとか、ちょうどこのころウェブのファン掲示板みたいなのができていて。アビスパの掲示板もあって。あと、チャット?今見たいなリアルタイムじゃなくて、テキストチャットなんで1分間に1回リロードしてみたいな。そこで、友達ができたというか。何人かいっつもいるメンバーがいて。僕は福岡にいて、他の人たちは全国にいたので。当時アビスパの応援番組をやっていて、それをテキストで実況するとか。

ーああ、教えてあげるために?

そうそうそう(笑)「あの選手がこんな話をした」とか(笑)

ーなるほど!

「CM入った」とか。そんなことをやってましたねえ。

ー最初サビスパサポーター向けのファンサイトとかをやる動機ってのは「できるからやろうか」みたいな感じですか?それとも「仲間のためにやろう」って感じですか?

うーんと・・・imodeはないからやろうって感じですかね。誰もやってないんだったら「今やったら自分1番やん」みたいな。たぶんなんかそんな発想だと思います。なんかあんまり「誰誰のため!」って感じではないですね。自分のための方が近かったと思います。

ーその感じ僕もほとんど同じなんでよくわかります(笑)

ふっふっふ(笑)

ー後からそういうことに気づくとか「こうしたほうがいいな」と思うことはあっても最初そんなこと思わないですよね

うん。まあ、特に若かったですし。

こころを揺さぶられた試合

ーそして1998年

この年アビスパ全然弱いんですけど、大学院に入ったタイミングで学校近くに引っ越して一人暮らしを始めまして。よりアビスパが身近になるというか。練習場も近いですし。このころは引きこもってて。大学院に行ったものの全然教授と折り合いが合わなくて。その年中退もしちゃったんですけど。・・・まあ、でも、この年は結構アビスパを見にいきはじめたころかな?ただ、まだこのときもファンって感じで、立って応援する!みたいなことはしてなかったですね。

ー自分の中でも熱量が上がってきてる!というほどでもなく

うーん、そうですねえ・・・今の感じと比べると全くですね。

ーそしてこの年くろっぷさんの心を揺さぶられた試合があったんですよね?

そうです。J1参入戦が11月19日フロンターレ戦がありまして。この日に初めて立って応援をしたんですよね。寒い日で。

ーそれは参入戦ということで特別な試合だから行ってみようかなって感じですか?

ああ、もう、J1にいるのかJ2にいるのかではやっぱり違うので。「ここはさすがに応援しないと」っていうマインドですかね。

ーこの試合でくろっぷさんは劇的な変化を迎えると思うんですけど、具体的に言うとどのあたりが心に響いたんでしょう?

まあ、やっぱりその劇的なロスタイム、残り時間のない中での同点弾。で、そのあとVゴールで勝つんですけど。いわゆるサッカーの90分の中のどん底からの大逆転劇みたいなのを味わってしまったので。そこはさすがにもう、となりの人知らないけど抱き合うみたいな。

ーありますよね(笑)

みたいなことをやったのがこの試合ですね。で、このときネットで繋がったひとがサポーター団体の中のひとで。その人の紹介で、近くにいたっていうのもあって。で、そのまんま「じゃあ忘年会やるから」って言われて忘年会も参加したり。っていうのでいわゆるサポーター団体に入ったのがそのときからって感じですね。

サポーター団体に入り声出しサポに

ーそこからはしっかりのめりこんでいくって感じですか?

まあ、そうですね。やっぱりこう”応援することの楽しさ”・・・っていうか。それが力に?まあなったかどうかはわかんないですけど。でも「なったんじゃないか?」っていうのがあったので。当時のこともうあんまりしっかり覚えてないですけど。でも、そっから来年からは「団体入って応援します」って言って、いわゆるサポーター団体に入ったって感じですね。

ーサポーター団体に入ってみてどんな印象でした?

そうですね、まあ今は自分のことを”ゆるサポ”とか言ってるんですけど、当時はもう若いのもあってなんかもう「気持ちを込めて声出して跳ばないと!」みたいな、そんな感じでやってましたね。途中、太鼓をできるひとがいたりいなかったりしてたんで「じゃあ、俺太鼓叩きます」って太鼓叩きだして。そんときとかは、逆に一番前にいて後ろが全部見えるから「もっと気合出して跳べよ!」とか言ってましたほんと。今”ゆるサポ”とか言ってるんですけど(笑)

ーハッハッハ(笑)

だから、一通り通ってると思います。サポーターの立場的なところで言えば。

ーあぁ、いいですねえ!そういう人めっちゃ大事なんだよなあ

当時なんかは、前の方でビデオカメラ撮ってるやつがいたら「そんなの撮ってんじゃねぇよ!」みたいな(笑)

ーゴリゴリっすね(笑)

フハッハッハ(笑)そうそう。

ー知らなかったっす。くろっぷさんがそこまでゴリゴリだったとは

ゴリゴリ、まあオブリ(別のサポーター団体)ほどではないんですけど。第2党で、オブリに入れない人たちの集まりなんで。まあ、なんか「気持ち!」とか言ってましたねえ・・・ちょっと気持ち悪いっすよね。

ーいやいや(笑)じゃあ、そこからはサポーター団体エスコティーバというところで太鼓も叩き、ゴール裏民としてサポーター活動していくって感じですかね?

そうですね。まあただちょっと、こんときアビスパがおもしろいのがこの98年のJ1参入戦のときに、メインとバックに別れたんですよ。ゴール裏はいなくて。オブリがバック側、僕らはメイン側にいて。メイン側のはしっこのほうで太鼓叩いてたって感じですね。

ーメインとバックで応援エリアを分担してたってことですね?

そうですそうです。あとは博多の森の構造上ゴール裏に屋根がないので。メインとバックに陣取ると音が反響するんすよねえ。っていうもあってそこでやってたと。

ーなるほど

ただ、弊害もあってこんだけ音を出す場所が離れてると音がズレるんですよねあたりまえに。

ーそうですよねえ

だから僕、ずっとオブリの太鼓のバチばっかり見て太鼓叩いて、対岸のモーション見ながら・・・

ーハッハッハ(笑)そんな技術的な苦労があるんすね

まあ、最初はそれで音が合うんですけど。やっぱだんだんズレていくっていう。だから、試合はあんまり見てなかったですね。応援に集中してた感じで。

あと、ファンクラブもクラブ主導っていうよりか当時あったアビスパ福岡後援会が運営してたんですよ。サポーター団体もお手伝いで入ったりしてて。僕はなんでもやりたがりなんで。2000年ぐらいにファン感がある、と。その企画を実行委員でやんないか?と誘われて。で、その実行委員に入れさせてもらってそこのリーダーとかをやってたり。

ーああ、なんかもうその時点でお父様が役をやってた感じと・・・

あ、そう!結局なんか好きなんですよね(笑)世話好きというか。

ー世話好き気質、あとは裏方も嫌いじゃない感じとか

まあ、そうっすね。

ーそれが2000年ぐらいですね

はい。で、そのサポーター団体の中に何人かこう年齢の近いメンバーがいて。仲良しがいたので。その中の一人と付き合って結婚してというのが。2000年で。

ーああ、奥様。奥様もガチガチのアビスパサポーターなんですよね?

そうですね。僕より早くて、もうすでに有名人だったので。周りは「こいつと結婚するやつはだれなんだ?」みたいな。「なんだこいつは?」みたいなそんな感じ(笑)

ーで、翌年に就職されると

そうなんですよ。僕ら就職氷河期だったんで。

ーああー・・・

普通に就職するのがなかなか難しくて。かつ、このころちょうどアビスパにズボッとハマっちゃったので。あと、サッカーを始めたんですよね。98年から。サッカーを優先して、ってなると就職ができなくて。アルバイトをやるしか無くて。

ーうんうん

ホームページを作るアルバイトとか、そういうのをやったりしていたんですけど。月収11万とかなんで。まあ結婚して子供が生まれるのにそれじゃあマズイっていうことで、たまたま高校の友達の縁で会社を紹介してもらって。たまたまその年未経験でも入れるって年で、入れさせてもらうっていう。開発系の会社だったんですけど。もともとパソコンを趣味でやってたんで、そこでなんとか就職ができたって感じですね。26歳でしたね。

ー一応、それまでのくろっぷさんの趣味というか関心持ってきた領域に近い仕事に就けたってことですね

そうですね。

ーでも、就職氷河期に就職がうまくいかなくてバイトするしかないときって不安じゃなかったですか?

全く不安じゃないです。アビスパにハマってたんで。そういう将来とか全く考えてないんで。

ーああ、考えてなかった!?じゃあそんくらいアビスパに力を注いでたんですね

してましたねえ。「サッカーと」みたいな感じですね。そんときはやるのも楽しかったんで。

サッカーがいまも続く趣味に

ーその話もお聞きしたいですねえ。それまでバスケしかやってきてなくて、サッカーは1からみたいな感じじゃないですか。実際やってみてどうでした?

・・・めっちゃ難しくて。サッカーチームに入ったんですよ。「これからやります!」ってサッカーチームがあって、そこに弟と入って。弟は当時高校生だったんで、高校が休みのときはウチにずっと泊ってて。高校は東福岡だったんですね。一応弟もサッカー部に入ったんですけど、7軍ぐらいでした。実家から通うより、ウチから通うほうが近いので泊ってたりしていて。

ーうんうん

でも、7軍なんで土日とか試合とかないんで。なのでそっちのサッカーチームに入って一緒にやってたりしてました。

ー東福岡クラスになると7軍とかまであるんですね

そうですそうです。今でもそのぐらいあるみたいですよ。当時そのサッカーチームは弟世代がメインだったんですよ。だから僕からすると5,6個下?で。僕がやり始めたころちょうどそいつらが大学に入りだすころの18、19ぐらい。で、僕は23でサッカー始めまして。だから、めっちゃ怒られてました。「なんでそんな球蹴れないの?」とか。

ーいや、そんな言われてもねえ?(笑)

「いや、3か月前にはじめたばっかりなんだけど」みたいな(笑)

ー素人がやろうとするとボールが止まんなかったりとか当たり前ですよね

止まんない止まんない。止め方もできないから両足首捻挫して。止めるときに足先に瞬時に力入れると大丈夫なんですけど、力は入ってないんでコキッてなるんですよね。

ーああ、ボールの勢いに足がもってかれちゃう?

もってかれる。たいしたなんでもないボールですよ?でも、負けず嫌いなんで。なんだかんだ言われるじゃないですか?負けたくないから捻挫で足が痛くても「痛い」って言いたくない。だから、そのままやってたりとか。あと、98年てフランスW杯じゃないですか?

ーそうですね

そんときに見たのがブラジル代表のロベルト・カルロスとフランス代表のリザラズなんですよね。

ーサイドバックですね

サイドバックで、ちっちゃくて走るっていう。まだ当時はタテに走る、将棋でいう香車みたいな。

ーはいはい

そういうのがサイドバックだったんで。要はスペースに走って、ピンポイントでクロスをあげれれば活躍できるみたいなのがあったんで。そこを目指そうって感じ。とりあえずもうタテに行く。走るっていう。それは別にボール持ってないからできるじゃないですか。

ーたしかに

そこでなんかオフザボールの動きとかをやるようになったって感じですかね。そうするとサイドバックが前に行くときってスペースができてるときだから、少しだけ活躍できるようになって。そっからまたサッカーが楽しくなったって感じですね。

ーそれからずっとサッカーやられてるんですか?

そうですね今も週一でフットサルとか。

ーああ、スゲーなあ

で、やっててプレーは変わんないんですよ。だからいまだにリフティング3回しかできないんで、フットサルやるんですけど。走るしかないんで。走ってます。

ーやっぱそのボールスキルみたいなもんってなかなか大人からって難しいんですね?

いや、ちゃんとやればリフティング100回とかできると思うんですけど。そういうのをサボるんで全然うまくなんないっていう(笑)

ーまあでもエンジョイだったらそれでいいですもんね(笑)

そうそうそう(笑)48でずっと走るんで、「すごいっすね。なんでその年で走れるんですか?」ってよく言われるんですけど。僕それしか武器がないっていう。あとこぼれ球に行く。オフザボールの動きはそういう意味ではすごく勉強したというか。「なんかくろっぷさんいっつも出したいところにいるっすよね」って。

ーそっちのスキルが伸びていったんですね

そうそうそう(笑)全然いまだにキックちゃんとできないですけどね。25年やってるから一番長い趣味ですね。

ーそう考えるとすげえなあ。サッカーもエンジョイしつつ、就職をされて。そこで娘さんが生まれると。しかも生後1か月でスタジアムデビューという、ってこれはどういうことですか?(笑)

まあ、どっちともサポーターじゃないですか?で、まあ若いのもあって。ずっと1か月家から出れなかったんですよ奥さんが。で、シーズン中だから「早く試合を見たい」ってことで。先生にも確認して「1か月過ぎたら大丈夫だよ」っていうお墨付きをもらったので、スタジアムに行ったっていう感じですね。

ーああ、ずっと外に出れなくてやっと試合に行けたタイミングだったんですね

そうですそうです。

ーそれも声出しエリアで?

そんときはさすがにちょっと上の方にいてって感じですかね。

AyudA

ーそして2002年からはしばらくJ2でしたね?

うん、そうでしたね。こんときにAyudA(アジューダ)っていうんですけど。これ何か?っていうと、当時アビスパのグッズがあんま出てなくて。出ててもJリーグが作ってるやつしかなくて。まあ、あんまり欲しいものがなかったんですよね。だったらもう「自分たちで作ろうよ」って言って。

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