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「チェシャねこ同盟」6

 その朝、トマス・スペンサーが夢うつつに薄目を開けると、目の前に51%ガールのまつげがあった。彼は眠気眼で、ぼんやりとそれを見つめた。微かにふるえながら瞼が開かれ、彼女のブルーアイが露わになったとき、ようやく彼は水を浴びせられたように目を覚ました。
 「何しているの?」
 彼はがばっと身を起こし、51%ガールから離れた。彼女は彼の隣に身を横たえた姿勢のままで動かない。シュガーピンク色の生地に、シャーベットオレンジで文様のような花柄が描かれたレトロなデザインのロングワンピースを着ている。顔に影を落とし腰へと流れる長い亜麻色の髪は、洗い立てのように艶々していた。
 「どういうつもりだよ?」
 怒ったような口調で、彼は叫ぶように尋ねた。
 彼女は髪をかきあげながら、ゆっくりと起き上がる。
 「あなたに贈り物があるの」
 意外な言葉に、トマスの口がぽかんと開く。51%ガールの指がゆっくりとワンピースのミルク色のボタンに触れた。彼女は胸のボタンを一つ、二つ、三つと外していく。そして、襟口から手を滑り込ませると、一冊の本を胸元から引っ張り出した。
 「これよ」
 トマスはワンピースからのぞくピーチピンク色のシルクシュミーズから目をそらし、赤らんだ顔を伏せた。
 「なんなの?」 
 相変わらず彼の声は怒気を含んでいる。
 「小説よ」
 「なんでまた…?」
 「あなたとしばらく会えないんだもの」
 トマスははっと息をのんで顔を上げた。
 「ウソだよ。だって、そんな風にはならないって言ったじゃない」
 「サヨナラしないって言ったの」
 「でも、今、しようとしている!」
 「し・ば・ら・く、会えないって言ったでしょ。らしくないわね。わたしの話、聞いていなかったの?」
 「しばらくだろうがなんだろうが、つまりは去っていくってことだろう?」
 「あのね、わたしだって嫌なのよ。でも、あなたがそういう時期なら、わたしは現れるわけにいかないでしょう。いいこと?あなたが、わたしとしばらく離れて過ごす時期に入ったのよ。わたしのせいじゃないの」
 「何それ?誰が決めたのさ。僕は嫌だよ。そんな時期に入ったなんて知らない」
 「そりゃ自分のことを、すべて分かっている人間なんてこの世に一人もいないでしょうよ。それに、これはごちゃごちゃ言ったってどうしようもない類の話だわ。あなたがわたしと離れて過ごす時期に入ったってことはね、麦が青くなったり、刈り入れ時になったりするでしょ、あれと全く同じ次元のことなの」
 「僕は麦じゃない」
 「麦なら良かったのにね。考えないですむわ」
 「僕のことは僕が決める」
 51%ガールは急に大人びた表情になり、毅然とした口調でこう言った。
 「決められることと、決められていることがあるはずよ。知っているくせに」
 彼女には、そのことに関して議論の余地を挟ませないだけの気迫があった。
 彼は泣きそうな顔で、頭を抱え込んだ。
 「嘘つき」
 ぽつりとそう呟く。
 51%ガールは切なげに目を伏せると、ふるえるトマスの背中を後ろから抱きしめた。
 「わたしね、思うの…」
 彼の腰を、彼女は太股でぐいと締め付けた。
 「ガンバレおとこのひと、ってね」
 トマスの脚を縛り上げるように、彼女はふくらはぎをからみつかせる。
 「バスタブから突き出て滴を拭ぐえば、女の太股はときどき橋になるわよね。おとこのひとは、うっとりと橋を歩くのが好きでしょう?
 女はね、空を泳ぐような堂々たる足取りで橋の先端まで歩いて、ぐいっと伸びたその脚で颯爽と飛び立って欲しいと願うの」
 彼の背中に顔を埋め、51%ガールの腕はほどけたひもほどの頼りなさで胴に絡んでいた。指先は乱れたトマスのシャツをぎゅっと掴んでいる。
 「きっと途中でうっかりしてしまうのね。上の空になるのか、有頂天になるのか、分からないけれど。膝のところから、すとーん、すとーん、みんな落ちていく。わたし、かなしいな。
 ガンバレ、おとこのひと、もっと、もっと、賢くなるんだよって、いつも応援しているのよ。
 そのまだ甘ったるいミルクのようなにおいのする頭をなでて、胸に抱くとき。
 痺れるようなまなざしで見つめられて、その瞳の奥の湖に裸で落ちるとき。
 泳いでも、泳いでも、岸にはたどり着かなくて、ああ、ここは宇宙だったのかと、放心するとき」
 51%ガールは長い吐息を吐き、トマスの耳の裏に彼女の生温かい息がかかる。
 「わたしは祈るの。あなたを癒すことで祈る。言葉を発することで祈る。存在していることで祈る。呼吸することで祈る。わたしは祈っているの」
 その唇はトマスの首すじに微かに触れ、奇妙にも彼には、彼女の言葉の振動が自分の背骨に響いてくるような気がした。
 「ガンバレおとこのひと、賢くなりなさい。
 この惑星の多様性の連動であやとりできるくらい、大きくなるの。
 そして、ありのままであることを許し合う世界を、わたしに下さい」
 51%ガールは、まるで氷が瞬時に水に変わるように姿を変え、波のようにうねりながらトマスの中に染み込んでいった。
     
                ▽*△


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