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「チェシャねこ同盟」 1

    人生の波を乗りこなしたいなら、
  答えを出そうとしないこと。
  正しい答えを出してしまったら、
  一つの道に囚われることになる。
  油断大敵。ご用心。
  いつも心にぼんやりと、
 【ふ 
     し

                            ぎ】
  が漂っているくらいが丁度良い。

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 トマス・スペンサーは三歳児に見えるかもしれないが、自分は宇宙人だと自覚していた。
 「ぼくはうちゅうじんなんだよ」
 彼は両親にはっきりとそう伝えた。二人ともクスクス笑うばかりで、ちゃんと理解したような顔はしていなかったが。毛むくじゃらだとか、もっと分かりやすい容姿ならよかったのにと彼は思った。
 たえとえ周囲に納得してもらえなくとも、トマスが宇宙人であることに変わりはない。彼には、はっきりと分かっていた。じぶんは今、人間の一生を五百回束にしたものがほんの一瞬と感じられるほどのながい、ながい、ながい旅の途中だと。
 いつも彼は、この惑星のことを観察している。 
 「この世界って、な・あ・に?」
 「この世界って、どうなってんの?」
 こんな問を思案することが、トマスにとっての遊びだった。彼は一人っ子だったので、一人遊びをする時間はたっぷりある。
 ある日のこと、子供部屋でおもちゃの電車を走らせていたトマス坊やは、ふとこんなことを思った。
 「見える、ってことは『在る』ってことだろうか?」
 トマスはレールから電車を持ち上げる。
 「触れられるってことは、『在る』ってこと?」
 そう思うや否や、違和感を抱いた。
 「見えるとか、触れられるってことが、『在る』ってことの証明にはならないな」
 考えれば考えるほど、この世界に対する違和感が湧きあがってくる。
 「無の方が自然なのに…」
 トマスは心の中で呟いた。
 彼にとっての無とは、どこを切り取っても同じ、どこをとってもゼロ。完全なゼロの世界のことだった。
 「どうして『ボク』なんていう感覚があるんだろう?」
 「この外側に感覚しているものって何なの?」
 「イミわかんない」
 「ヘン、ヘン、気持ちワルい」
 「こんなの不自然で気持ちがワルい!」
 トマスは今まで感じたことの無い奇妙な気分になっていた。
 「無の方がナチュラルなのに、この認識って一体どういう事態なんだ!?」
 いくら考えても、その問いの答えはでなかった。
 それでも思考回路にその問いを放り込むだけで、なんだかハートがむずむずするような、ふしぎな感覚になる。その感触が彼にはゆかいだった。
 ほどなくして宇宙人トマス・スペンサーはこんな結論に達した。
 「『在る』という概念を捨てればいいのだ」
 焦点を合わせることを諦め、ぼやかしたままにしておこう。真実をがっと掴もうとせず、手放しのままにしておこう。彼はこの惑星に滞在している間、そんなスタンスで観察することに決めた。

              ~*~

 トマス坊やは、本好きの少年に育った。特にファンタジーがお気に入りだ。彼は新しいファンタジー小説を手にしたとき、
「ここには僕の知らない世界が広がっている!」
 というワクワク感で胸がいっぱいになる。
 紙の本が無くなるならば、彼は悲しむだろう。本棚に並ぶ児童文学の書籍たちは、彼にとって親友みたいな存在だったから。彼はときどき本棚の板の上にあごをのっけて、本たちを眺めた。本たちは忠実なペットのように、彼を見つめ返してくる。そしてこう言う。いつでも側にいるよって。
 もしいつか小説を出版するならな、最初のページに一番大事なことを載せようとトマスは決めていた。世の中には小説を読むゆとりもないほど忙しい人たちもいるようだから、最初に一番大事なことを書いておけば、そんなはちゃめちゃに多忙な人たちは助かるんじゃないかと思ったのだ。
 ごく普通の地球人の幼児と同じペースで大きくなったトマスは、地球公転換算で七年ほど過ごした頃、あの子とはじめて出会った。 
 夜明けに降った雨が庭の木々をきらめかせていた。庭のかなたに目をやれば、遠くの山々をのっそりと隠す霧がまだ居座っているのが見える。大仰な毛皮のマントを着込んだ貴婦人のような霧と、新緑に散りばめられた雨の滴を照らす太陽の光が、この上なく美しいコントラストを成す幻想的な朝だった。
 雨が続くと石灰色のマントを好む貴族たちが夜道を闊歩するこの街に、スペンサー一家は住んでいる。 
 「ほらほら、きちんとボタンを留めなくちゃいけませんよ」
 ナニーのマーサの大きな手が、トマスの上着をぐいっと掴んでボタンを留めはじめる。トマスはいつものようにされるがまま、棒のように大人しく立っていた。マーサは課外授業がある日は、一際はりきってトマスの身支度を整えるのだ。
 「しっかりお勉強していらっしゃいましね」
 マーサはそう言って、トマスを送り出した。
 郷土史博物館の風雨と陽にさらされ続けた古新聞のような外観を見上げながら、トマス少年はイヤな予感を抱いていた。
 「この郷土史博物館は、この街で空襲を逃れた唯一の工場だったんだよ」
 ゴードン先生がそう説明するのを聴いて、彼はきゅっと唇を一文字に引き締める。覚悟を決めたというわけだ。
 白髪混じりの髪をきゅっと結んだミセス・マクフェイルの誘導でクラスメイトたちと各展示室を巡っているときは、なんの問題もなかった。けれど、資料閲覧室で百年前にあった街の人々と洪水とのすったもんだと、二度の挫折を乗り越えミッシー川に橋を架けたペンドルトン・キャルフーン氏の偉業について調べていたとき、とうとうそれがはじまった。トマスは諦めたように目を閉じ、身を堅くして周囲の空気がシャボン玉のように滲んでいくあの奇妙な感覚が落ち着くのを待った。
 また来たぞ。彼はそう思った。同じ部屋にいるクラスメイトたちは顔色一つ変えず、ノートを取ったり、小突き合ったりを続けている。いつもそうだった。トマスだけが、その異変の作用を受ける。
 彼は資料閲覧室の格子窓ガラスに、たくさんの人たちが重なり合うようにして顔を押しつけているのを見た。群衆の視線は確かに建物の中に注がれているが、その目は恐怖に捕らえられて何も見えてはいない。窓に次々と集まる人々は誰もが泥だらけで汗だくだった。次の瞬間、炎の赤が顔の山を染め、苦痛と無念さで表情を歪めながら人々は雪崩のように崩れさりぱっと霧散した。
 窓からの景色が元通り十字路の喧噪に戻ると、息を詰めてそれを見ていたトマスは強ばっていた身体をゆるめた。時空の揺らぎが収まると、かすみぼやけていた閲覧室は何事もなかったかのように塵一つ舞い上がらすことなくピタリと収まる。ようやくほっと息をつきながら彼が顔を窓から離したとき、それから五秒ほど遅れて一人の少女が窓に向けた顔を戻すのが見えた。
 少女は、一つ向こうの机に彼の方を向いて腰掛けていた。二人はしばらく見つめ合った。トマスは少しおどろいた表情を浮かべている。一方、そんな彼を眺めるコバルトブルーの瞳には、どこかつんと取り澄ました雰囲気があった。
 少女は机の上の本を閉じ胸に抱えると、席を立った。襟元に細い黒のベロアのリボンがついたサテン地の白ブラウスを着ている。少女は腰まである長い亜麻色の髪と目の覚めるようなスカイブルーのスカートをふわふわと揺らしながら、トマスの前へとやってきた。
 「こんにちは」
 無愛想な表情で少女は言った。
 「あなたもさっきの見たのね?」
 トマスは少し警戒するように少女の様子を眺めながらも、こくりと頷いた。
 「はじめてだわ。わたしの他にあれが見える人に会うのは」
 「ぼくもだよ」
 少女は顎を微かに動かし頷いた。
 「君はじゃあ…」
 トマスはさっと白いタイツの足下に目をやる。黒のボタン留めエナメル靴が、よく磨かれてぴかぴかしていた。
 「幽霊じゃないみたいだね」
 「幽霊ですって!?」
 少女は嘲笑するような口調で言う。
 「じゃあ、ああゆうのは幽霊だと思っているの?」
 トマスが首をすくめると、少女はあきれたようにため息をついた。
 「さっきのは、残留思念だったわ」
 トマスは一瞬眉間にしわを寄せたが、これ以上バカにされるのは癪だったので分かっているような顔に切り替えた。
 「ああいうのを見るの、今日がはじめてじゃないんでしょう?」
 トマスは頷く。
 「残留思念の場合もあれば、ただ異なる時代の層が漏れ見えているだけのこともあるのよ」
 「あ!そうなんだ?」
 彼は思わず表情を明るくした。時々街を歩いているときに、まるで違う景色や、今とは異なる服装の人たちが人波の中に現れることがあるのだ。
 「そうか、あれはそういう時空の症状だったのか」
 トマスは少し興奮して言った。
 「そりゃそうじゃない」
 当然でしょ、という口調で少女は言う。
 「じゃあさ、ああゆうのって、どうにかならないものなの?」
 「あら。つまり、あなたは見たくないのね?」
 「そりゃそうさ。ビックリするし、さっきのなんて怖かっじゃない」
 「よく分かんないわ。わたしはああいうの、ちゃんと見ておきたいと思うもの」
 「どうして?」
 驚きのあまりトマスの声が裏返った。
 「君って、どうしてそんなに落ち着いていられるんだろう。さっきのが、ちっとも怖くなかったっていうの?」
 そう言いながらトマスは、確かに窓から向き直る時も彼女は平然としていたなと思い返していた。
 「そりゃあ、気持ちがいいものじゃないわよ。でも、たまたまこちら側にいるだけだって思うの。だから、あっち側だったらどんな風なのか、ちゃんと見ておきたいでしょう?」
 トマスはとうとう眉間にしわを寄せた。
 「意味が分からなきゃいいのよ。気にしないわ」
 少女は顔色一つ変えずそう言ってのける。 
 「ねえ、ところで、この辺でおいしいホットワインを出してくれる所ってどこなの?」
 「なんだって?」
 「雨が振ると、ちょっと寒くなるわね」
 少女は身を縮めて腕をさする。
 「雨?」 
 トマスが窓の外を見ると、確かに雨が降り出していた。
 「もう行くわ」
 少女はトマスに背を向けると、椅子にかけていたシュガーピンクのコートを羽織り、くるみボタンを丁寧に留めてから閲覧室から出て行った。博物館には他の学校の生徒たちも訪れていたが、少女はその中の一人ではなかったらしい。トマスはしばらく躊躇してから、少女の後を追いかけ部屋を出て行った。
 「待って!」
 トマスの呼びかけに振り返った少女は、意外なことに少し微笑んでいる。笑うと、表情がぐっと和らいで幼くなるようだ。
 「どうかした?」
 そう訊ねられて、トマスはまごついた。特に何か用事があるわけではない。もっと話したいと思って飛び出してきたけれど、かといって話す内容までは思いつかなかった。
 「ほら、えっと、さっき言っていたこと、本当に本当だね?」
 「さっきって?どれのこと?」
 説明が下手ねと言わんばかりの冷ややかな口調だ。
 「ほら、あの消えた人たちは幽霊じゃないって…」
 「ああ、それね」
 「そう、それ」
 「ええ。違うわ。安心した?」
 「うん」
 トマスは顔を少し赤らめながら俯いた。
 「だって、幽霊だと気味が悪いじゃないか」
 「そうかもね。それで、それだけ?」
 「あー。そうかなあ?たぶん」
 「そう。じゃあ今度こそ、さようなら。ねえ、あの人なら、美味しいホットワインが飲めるカフェかレストランを知っていると思わない?」
 少女は博物館を出た通りに立つバイオリン弾きの若者を指さした。
 「さあ?」
 「間違いないわよ」
 「僕、ホットチョコレートの美味しい店なら知っているんだけど」
 「あら。ガキがガキっぽいもの食べて何が楽しいって言うの?」
 少女はそう言って、バイオリン弾きに向かって歩き出した。トマスは少女が若者と会話しているのをしばらく眺めていた。初対面の相手に対してあんなに大人みたいに堂々としていられるのは女の子だからだ、と彼は思った。
 「変な子」
 トマス少年はそう呟くと、少し元気の無い足取り閲覧室に戻った。


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