見出し画像

今はまだ、多様性とは時に凶器。インターネットと現実の狭間で揺れる。


「多様性を認める社会にしよう」

LGBT活動家がよく言う言葉だ。

セクシャルマイノリティーの方々が多様性を認めさせようと活動をすることは非常に良いことだと思う。まだまだ時間はかかるが、多様性が認められるまで精力的に活動してほしい。


今日の話はそれとは少し違う。
さて、本題に戻ろう。


セクシャルマイノリティーの中で実際に、会社にカミングアウトして認められてパートナーもいて幸せに暮らしている人もいる。

その人達がツイッターで自分達の暮らしを更新したり、幸せそうな写真を投稿するのを見かけることがある。

私は、こういう人達もいるんだなと思う反面、たまに悲しくなることがある。自分と投影して、あまりにも置かれている状況が違うことに苦しむ。

現実とのギャップに悩むことがあるからだ。

日々生活していると本当にマイノリティーの人なんているだろうか。
自分の今置かれている環境で理解してくれる人なんているのだろうか。

いまだにこのレベルで悩んでいるが、きっと私だけではないはず。


だから、リアルでカミングアウトに成功して、それをネット上で報告して幸せそうにしてる人を少し羨ましく思ったりもする。


そしてここで、私は1つ疑問を抱いた。


なぜ羨ましく思うのだろう。



この疑問を突きつめて1つの結論に至った。



多様性が認められる世の中になってきたからこそ生まれる感情なのではないだろうか。


日本に多様性を認めてくれる場所もあるのに、
自分の生きている環境では不可能だ、
という現実とインターネットから得る情報の狭間で苦しんでいるのだ。(これは、あくまで私個人のネガティブな意見である。)



インターネットから得る情報を自分にも投影して、いつか理解してくれるのではないだろうか、と期待してしまうことで、自分の現実世界を諦めることができずにいるのかもしれない。



周りと同じようになりたい、理解されたい、
という承認欲求は誰にだってあるし、そう思うことは悪いことではない。


ただ、そこばかりに囚われると理想と現実とのギャップに苦しむだけだし、どこかのタイミングで諦めるということをしなければいけないのかなと思う。



だから、私にとっては多様性が認められる社会を目指している発展途上のこの段階は、
多様性ということがたまに凶器となり、私を傷つけている時もあるのだと思う。


現実とインターネットの狭間で感情が揺れるのである。


たぶん、こんな風に思うのはネガティブな私だけだから、読んでる人は全く悲観的にならないでほしいと思う。


もっと楽観的に物事を考えた方が
人生は楽しくなるはず。


この狭間で苦しむこともなくなる未来に期待して、明日に乾杯。


では、さらば。


p.s.
暗くなってしまったので、一言。
ポジティブに考えれば、
ネット上なら素直な気持ちを発することができるのは昔に比べて素晴らしいとも言えるし、
自分の行動次第で理解してくれる人に出会えるチャンスがあるとも言えるのかなと思う。

*読みにくい文章なのに読んでいただきありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?