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砂塵迷宮

読了目安時間15~20分

一万文字前後。

微かな光も無く、暗黒の虚の中で、ただ縹渺(ひょうびょう)としていた私の意識が覚醒するまでに、およそ、どれくらいの時間を要していたのか、私には、皆目見当が付かなかった。まるで、果てしなく続く螺旋の迷宮の中を、宛もなく、ぼうっと彷徨っているかのようで、しかし、永遠とも感じられる虚無の時剋は、肌に触る乾いた荒風と、鼻孔を刺す煙たい砂埃のような不愉快な感覚によって、いよいよ、終焉を告げることとなった。

目は開いた。目が開くというのは、至極当然のことのように思えるが、この時の私には、目を開くことが出来た、という当たり前の事実に、半ば拍子抜けをしていた。それほどまでに、私の瞼は重鈍とし、まるで、硬い麻糸で、上眼瞼と下眼瞼を、縫い付けられているのではないかと、錯覚に陥ってしまうくらいに、私の目は、私の意思とは裏腹に、自閉を決め込んでいたからである。まず先に、私のぼやけた視界に映り込んで来たのは、太陽と呼ばれる恒星であった。どれだけの時間、私は目を瞑っていたのか定かではないが、不思議と、その太陽の威光に、目が眩む事は無かった。いや、多少は眩いとは感じたが、目を開けていられないほどのものではなかった。右手を太陽に翳(かざ)し、遮光すると、深紅の如き血潮が、右手に流れているのが見て取れた。私は起き上がろうとしたが、重かったのはどうやら、瞼だけではなかったようで、腹筋に力を入れても、直ぐに私は、起き上がる事が出来なかった。両手を地面に着き、身体を横にしたりして、どうにか上半身を起こす。そして、地に着いた手の感覚が、普段接触するようなものの感覚とは、余りにも乖離していたことに、私はその時気付いた。

砂だった。黄土色、ないしは深い肌色。その双方を、同等の割合で混合したような、一見どこにでもあるような、砂。微細な粒子で、柔らかい質感。その軽さ故に、風が吹いては、表面の砂が、切削されるようにして、彼方の空へと飛び去って行った。日光に照らされ、砂は僅かな温もりを帯びていて、私は思わず、両手を砂の中に埋め、心地よい感触に浸った。しかし、手を埋めた先に、私は、何か硬い感触がしたのを感じ取った。最初は岩かと思ったが、それとはまた違う、少し滑らかな質感の、何かだった。私は砂を払いよけた。そして、それがその姿を現した瞬間、私は悲鳴をあげて飛び退いた。

白骨死体だった。それも四つ。そのどれもがほぼ同じ体格のものだった。身長から、骨格、何から何まで、全て同一のように思えるほど、それは似通った骨だった。私は恐怖のあまり、その場から走り去った。

しばらく、私は移動していたのだと思う。この砂漠は、生暖かい風が、絶えず吹き荒れるような場所だった。私は視線を、地平線へと向けた。そう、地平線、私の周りには、地平線しかなかった。普通、朝昼夜、いつでもいい。目覚めて、周りを見ると、文明が目につくはずだ。室内であれば、雑貨、古びた本や、掃除のされていない家具、或いは、家族や恋人なども、きっとそこにあるだろう。室外であれば、建物や、公共施設、舗装された道路や、誰も使わないであろう寂れた公園。そしてそれもまた、他人や、動物が、きっとそこにあるだろう。しかし、ここには、何も無かった。見渡す限り、四方と言わず、八方、十六方、全方位において、陽炎揺らめく、地平線だけであった。

これが恐らく、夢の類であることは、この現状を鑑みるに、懐疑的になる必要もなく、明らかであった。しかし、私は今まで、この退屈な生涯において、夢の中で覚醒する、などという奇怪な体験は、したことがなかった。だからこそ、これが果たして、本当に、夢幻の類であるのか、些か確信が持てなかった。しかし、状況から見て、これは夢なのだろうという、根拠のある予測はあった。私は試しに、頬を抓(つね)るという、在り来りな覚醒方法を、駄目元で行った。しかし、痛いだけであった。初めから分かっていたことだった。最初からこの空間には、感覚が介在している。砂の感触、風の音、太陽の温もり、そして痛覚。試すまでもなく、ここは限りなく、疑いようもなく、感覚という概念が存在する、現実そのものであった。故に、私は、最初から最後まで、これが夢か、現実か、その区別を、やはり、付けることが出来なかったのである。

私は、私が現在、睡眠をしているという確証を得るために、ここに至るまでの記憶を、目を瞑って思い返した。しかし、期待通りとはいかなかった。こうなる以前、私が何をしていたのか、その一切合切を、まるで記憶をまるごと、天に持っていかれたみたいに、きれいさっぱり、脳から消失していたのである。そして、それだけではなかった。私は、私の、素性と呼ばれるものですら、遺憾ながら、忘却の彼方へ霧消していたことに気付いた。自己という概念は、確かに認識出来たが、しかし、どうしても。例えば、名前。自己を定義付ける、名前と呼ばれるものを、私は、思い出すことが、やはり出来なかった。そして、挙句、職業、家族構成、出身地、年齢、趣味、嗜好。これら全ての情報も、最初から存在などしてなかったのように、跡形もなく、消し飛んでいた。

「私は、迷い人だ。」

私は立ち上がり、東西南北も分からぬ見渡す限りの砂漠を、一歩、また一歩と、砂に足を取られながら、ひたすらに歩き続けることにした。空っぽの記憶を背負い込み、いつ終わるかも知れない、空虚な、この砂塵の迷宮を。


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数十時間、数日間、どれほどの時が経過したのだろうか。腹も減らず、日が沈まないこの砂漠では、正確な時間を測ることは不可能だった。私はとうとう歩き疲れ、地面に座り込んだ。このまま一生、この迷宮に囚われるのかと思うと、気が振れそうであったので、どうにかして、狂気の沙汰に陥らないよう、紛らわそうと、歌を歌った。思い出せる限りの、全ての歌を歌った。決して、歌は上手くなはなかったが、風の音以外何も無いこの場所では、私の声がとても新鮮で、神秘的に感じた。しかし同時に、私以外の誰一人もいないこの世界で、やはり、誰も聴き手がいないというのは、些か虚しい気分にもなった。私は、私が記憶している全ての曲を、喉が枯れるまで歌い続け、とうとう歌い尽くすと、自分で曲を作っり、そしてそれもまた、歌った。しかし、それを楽譜として記録する術もなく、仮に満足のいく曲が出来上がったとしても、それは数分も持たず、記憶から無くなってしまい、その時だけのメロディを奏でては、自身でそれを評価し、口ずさむ程度のものだった。やることが他に無くなると、やがて私は、物語を書くことにした。生憎、手元には紙とペンですら無かったので、私は砂に文字を書いた。しかしそれも、時折吹く風で、跡形も無く消し去られた。私は、およそ数百もの曲と、数十もの物語を書き終えた頃、きっともう、既に一年近くは経過していたのかもしれない。寝ることは叶わなかったので、私はひたすらに、一人で出来るあらゆる趣味を興じては、この迷宮から、逃避していた。そんな逃避行を繰り返して、遂に私の精神が臨界点に到達した頃、思い立って、自殺をすることにした。息を止め、目を瞑ったのだ。しかし、いくら息を止めても、私の意識が遠のく事は、一切なかったし、苦しくなることもまた、なかった。ここでは、息をしていなくてもいいのだ。それに気付いた時、よもや、既に私は死んでいるのではないかとさえ勘繰った。そしてここは、恐らく、地獄なのではないかと、そんなネガディブな思考まで生まれ始めたのである。

ここへ来る前、私が何者であったのか、それを思い出すことは、どうしても出来なかった。私の頭の中には、断片的な記憶でさえも無かったので、それを頼りに、手繰り寄せるようにして、何かを思い出していくことも出来なかった。そもそも。私は人間であったのか、果たして本当に生きているのか、そういう根本的な疑念も持つようになった。自殺することが出来ないとなると、いよいよ私の精神はほとんど崩壊した。歌を歌うのを止めてから、幾ばくか、時が過ぎていたので、私は声を出すことが出来なかった。それでも、どうしても叫ばずにはいられなかった。鋭い、金切り声のような、喚声をあげ、天にも昇るような思いで、胸の内に黒く渦巻いた狂気の塊を、ありったけ、虚空なる玄天へと吐き出した。叫んでいる最中はとても晴れやかな気分だった。一瞬、それがどんなに刹那な時であっても、私の置かれた凄惨なこの状況を、忘れることが出来た。音は響くことなく、まるで空間というクッションに、漏らさず全て吸い込まれていってしまったのかように、残響は即座に消滅した。同時に、私の意識も、明瞭とした。状況を再認識し、二度と出られないかもしれないという懸念。その絶望が、私を再度襲った。ひどく混乱し、涙が溢れた。何故こんなことになったのか、理由ですら分からない。この場所で、永遠に孤独を味わう日々。いや、時間の概念さえ存在しないこの場所に、日々なんてものはそもそもありはしない。ここにあるのは、無だ。何も無いという、事実だけ。

私が何をしたというのか。何の恨みがあって、世界は私にこんなことをしているのか。しばらく泣き腫らし、動こうとすると、身体の節々が軋むような音を立てた。それもそうだ、私はここ数日か数週間、もしかしたら数ヶ月。その間、この場を動いていなかったのだから。気づくと、私の下半身は、股の部分にまで砂が積もっていた。髪には砂埃がへばりつき、まつ毛や鼻毛、耳の奥にまで、絡みついた砂が、じゃりじゃりと不快な感覚を、私の神経へと伝達させた。私はゆっくりと、今にも砕けそうな関節音を鳴らす腕を上げ、自分の顔に触れた。硬く乾いた感覚が、指先に伝わったが、それですら麻痺していてあまり上手く感じ取ることが出来なかった。長い間砂埃に晒されていた私の素肌は、砂の蓄積で、硬い、土の皮膚が、肌を覆うようにして形成されていた。それは触れると、ぽろぽろと簡単に剥がれ落ち地面に落下した。それは私の、崩壊した精神のようで、とても滑稽に思えた。何を思ったのだろうか。私はふと立ち上がった。身体中に力が入らず何度も転げた。まるで産まれたての小鹿のように、重力に引っ張られては、何度もその身体を、力なく地面に叩きつけた。立ち上がり、よろめくその身体を必死に固定しようと、足を踏ん張らせ、私はようやく立ち上がることが出来た。ボロボロの布切れのように破れた衣服を、風でひらひらと靡かせ、私はゆっくりと歩き出した。そして、ここで初めて、私の髪が、肩下までだらりと伸びていることに気付いた。しかしそれは、髪の毛とは思えないほどしなやかさを失っており、砂にまみれた、ぱりぱりの素麺のような、脂ぎった、汚い黒い何かであった。私は顎をさすった。やはり髭もぼぅぼぅに伸びていた。きっと私は、山奥の仙人のような様相をしているのだろう。そんなことを思って、私は少し笑った。一度笑い出すと、狂ったようにして、笑いが止まらなくなった。深い絶望と虚無の果てに、私は狂気に堕ち、遂に、この状況が楽しくて仕方がないと思ってしまうほどまでに、頭が逝かれてしまったのだ。しばらく大笑いしていたが、私は突如、そんな自分を俯瞰し、滑稽に思った。もはやこの絶望に、終わりはなく、救いでさえも、恐らくはない。しかし、その程度のこと、はるか昔から分かっていた。だから、私は絶望しなかった。既に私の精神は、絶望よりも深い、闇よりも濃い、真の無へと到達しているからだ。

そしてやがて、私の感情は、どこかへと消えて、ただの肉塊として、永遠にこの虚を彷徨うのだろう。

そう思っていた。しかし、それは現れた。それは確かに、私の目の前に、現れたのだ。


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遠くに、家が建っていた。古い木造住宅のような、トタンの屋根に、サッシの窓。その家は、最初からそこにあったみたいに、悠然と、そこに建っていた。砂埃を被っているようには見えなかった。形容するなら、それは恐らく、"現れた"のだ。私は目を見開いた。消えかけていた命と心の灯火が、再燃したのを感じた。ただそこに、家が建っていたというだけのことなのに、それにひどく感動を覚えた。長い間、目にすることのなかった文明。私は、思うように動かない自分の身体を、必死で鞭を打ち、走った。砂に足を取られ、手を付きながらも、走った。家の前まで来ると、私は何故か、ひどく胸が締め付けられるような感覚に襲われた。それは、とても表現出来るような感覚ではなかったが、とにかく、悦喜とは違う、暗然とした感情であった。しかし、その時の私は、そんな感情に疑問を持つことなどなかった。無我夢中で歩き、家の玄関を開け、私は入った。途端に風の音が止んだ。外は絶えず、強風が吹き荒れていたが、その風に窓が揺れたり、隙間風が吹いたり、することは無かった。まるで、この家そのものが、砂塵の迷宮から切り離された異空間みたいに、それは外界からの干渉を受けることは無かった。そして、奇妙なまでの静寂が、私を包んだ。玄関には靴があった。三足の靴だ。ふたつは大人のサイズのスニーカー、もうひとつは子供の運動靴のようだった。誰かいるのかもしれなかったが、私は恐る恐る、家に上がった。いつの間にか、私が履いていた靴と靴下は消えていた。それがいつから脱げていたのかはもう覚えていないが、きっとどこかで、砂に埋もれているのだろう。砂だらけの足を払うこともせず、家に上がると、すぐ目の前には、階段があったが、私はそれを無視し、すぐ右の居間に入った。何の変哲もない、ただの居間だ。真ん中に机があり、端に食器棚があり、そしてテレビがあり、キッチンも併設されていた。テーブルの真ん中には、小さな花瓶に、何だか分からないが、花が一輪、飾ってあった。耳を澄ますと、時計の針の音がした。一秒一秒、丁寧に、確実に時を刻むその音に、私は聞き惚れた。時計は、壁にかけてあった。二時四十一分を指していた。

次に私は、寝室のような場所に入った。布団が二枚、そこには敷かれていた。書斎としても兼用しているのだろうか、部屋の角には、万年筆と原稿用紙、数冊の本が、綺麗に並べられている。そしてこの部屋もまた、目覚まし時計が、カチカチと、その時を刻んでいた。そしてこれもまた、二時四十一分を表していたが、明らかに、この砂漠の太陽の位置から考えて、この時計が正確に、この世界の時間を表しているとは思えなかった。そしてこの間も、私は、家に入る前から感じていた不穏な感情を、どうしても拭う事が出来ずにいた。私は今すぐにここから出ていきたい感情に襲われたが、しかし、突如現れたこの古い家に、私の記憶、ないしは私がここから出るためのヒントが、もしかしたらあるかもしれないと、何の確信もないが、私はそう思い込むことで、正気と狂気の境界を、綱渡りをするようにして保っているのだった。

私は引き続き、不気味な薄暗い家屋の中を物色した。屋内では物音は何一つせず、私が歩いた後の床の軋む音だけが、みしみしと響いていた。私は二階に上がった。一階は一通り見終えたが、特に何も無かった。何も無いわけではなかったが、その風景は、私が知っている、日常と呼ばれる風景と、さして変わらず、余りにも普遍的で、在り来りなものであったため、気になる点、という意味で、何も無かったということである。二階に上がるのに、およそ十三段の急勾配の階段を使うことになった。迷宮での逃避行を延々と繰り返していた私の身体には、些かこの勾配は堪えたが、私はどうにか二階にたどり着いた。二階は予想に反して、あまり広くはなく、和室が二部屋、あるだけだった。一つの部屋は、ドアが半開きになっており、見たところ、家具も何一つ置かれていない、殺風景であった。もうひとつの部屋は、ドアが閉まっていたので、私は先に、ドアの開いている部屋を見ることにした。六畳ほどのその空間は、土壁にところどころ染みがあり、畳もけばけばと禿げているのが散見された。気付くと、私の耳は、この家の、余りの物音の無さに、モスキート音のような、耳をつんざくような音を拾い始めていた。ただでさえ不気味であったこの家の様相に、ようやく恐怖のような感情を覚え始め、私は、気を紛らわすために咳払いをした。静かに、私の声が家にこだまする。しかし、それ以外の音は、やはり、何も無かった。やがて、少し間を置いて、どこかで何かが軋む音がした。それは、木製の扉が開くような音だった。ゆっくりとそれは開いたようで、およそ三秒ほどかけて、不気味な音を立てた。私は身震いした。私以外の人間が、この家にいる。私は、砂塵の迷宮に感じていた畏怖よりも、遥かにおぞましい、生暖かく、背筋が凍るような、鮮烈で、純粋な恐怖を感じた。しかし、物音はそれっきりだった。扉が開いた音だけ。風で開いたとは考えにくい。仮に誰か人がいるのだとすれば、このおんぼろの家屋にて、音を立てずに歩くなんてことは、それこそ、紙切れのような体重の持ち主でない限り、有り得ないだろう。私は恐る恐る動き、音源の方へと向かった。それはすぐそこにあった。隣だ、隣の部屋の和室のドアが開いたのだ。ちょうど半開きになるまで開いていた。覗き込むと、その部屋は、他とは些か様子が違った。異質だったのだ。この家は、どの場所においても、ありふれた普通の民家の様相であったが、この部屋だけ、不吉な程に、日常とは乖離した、異常なまでの雰囲気を漂わせていた。中は、雨戸が閉まっているせいで真っ暗で、何も見えなかった。私は無意識に、入ってすぐ右の壁の、電気のスイッチを押した。何故ここにスイッチがあることを知っていたのか、私はこの時、考えもしなかったが、とにかく、私は電気をつけた。


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私は声にならない声を上げた。 

まず目に付いたのは、床に飛び散った血飛沫だった。おぞましい程大量の血液だった。ナイフでの刺突や、鈍器での殴打。そんな生半可な暴力では、有り得ないほどの量。壁や天井にまで到達した血飛沫は、深く黒ずんでおり、乾いて、そこら中にへばりついてた。私は息を飲んだ。考えるに、ゼロ距離からの射殺、もしくは、頸動脈を切り裂かれたか。恐らくはそんなところだろうと思った。しかし、ここでおぞましかったのは、私がこの光景を見て最初に思ったのが、そういう、"死因についての考察"であったことだ。この光景に対しての恐怖ではなく、私がこの異常な光景に対して抱いた、第一印象が、それであったことが、何よりも恐ろしかった。次に目に付いたのが、椅子だ。椅子は部屋の真ん中に、同じ向きに、窓を背にするようにして、一列に並べてあった。数は三つ。そのどれもが、雑多で簡素な椅子であったが、元々何色であったのか分からないくらい、それは乾いた血にまみれていて、ひどく醜悪な様子であった。

三人だ、ここで三人死んだ。自殺か、他殺か、いや、これは紛れもなく、他殺だ。締め切られた部屋に、この状況だ。鑑みて、監禁からの他殺である可能性が非常に高い。恐らく、玄関にあった靴、そしてそのサイズから見て、父と母、そして子、ここに住む、普通の家族。それが、この部屋で何者かによって、惨殺された。私は、他にこの部屋に、何かないかと、血眼になって、辺りを見回した。子供の勉強机に、衣服、携帯型のゲーム。ここはきっと子供の部屋だった。しかし、そのどれもが、血を被っていて、ここの家族を襲った血みどろの悲劇が、どれだけ異常なものだったのかを想起させた。そして私は、机の上に、写真が置いてあることに気づいた。その写真もまた、血で濡れていたが、判別できない程ではなかった。写真は、三人の親子が写っているものであった。白髪混じりの老け顔で、ぎこちない笑顔を浮かべた男は、恐らくは父だろう。その隣には、セミロングで、毛先まで綺麗なカールがかかった、マダム風の女性がいた。そして、彼らに挟まれるようにして父の腰より少し上くらいの身長の、坊主頭の餓鬼がいた。その写真は、幸福な日常をそのまま切り取ったかのようだった。しかし、彼らの顔を見ても、私はいまいちピンと来なかった。よもや、私がこの迷宮に迷い込んだ理由が、この場所にあるのかもと思ったのだが、決定的なものは何一つ無かった。しかし、私は、彼ら三人の顔を、どこかで見たことがあるような気がしてならなかった。だが、いくら考えて、思い出そうとしても、結局、そのつっかかるような感覚が何なのか、それを突き止めることは出来なかった。

私はこの空間で、呆然と立ち尽くしていた。私は苦悩した。砂塵の迷宮。不可解な民家。見覚えのあるような、ないような、三人の家族の写真。ここで起こること、ここで見るもの、触れるもの、聞くもの、およそ全てが、異常を超越していて、私の思考は、もはや限界であった。同時に、私は途轍もない吐き気に襲われた。胃から込み上げた胃液は、私の、それを抑制する意思を厭わず、食道を通り、物凄い勢いで口外へ排出された。私は手で抑えることすら出来ず、それを床に撒き散らした。涙が滲み、視界が濁ると、目の前に広がる凄惨な光景がぼんやりとし、何も見えなくなった。私は服の袖で雑に口元を拭き、自身の嘔吐物が発する異臭をものともせず、その部屋を出ようとした。ここにいては、私の理性のキャパシティが、限界を迎えてしまいそうだった。いや、とうに限界など超えていたが、ここに来て、余りにも久しぶりに文明に触れてしまったことにより、僅かながら取り戻した理性が、音を立てて崩れていくような気がしたのだ。私は狂ったようにして階段を駆け下り、過呼吸気味になりながら、一秒でも早く、この空間から抜け出そうと走った。ここにいては、本当に私の精神にトドメの一撃が刺されるのだという予感を、本能が告げていた気がした。私は玄関を押し開き、外へ出ようとした。しかし、ノブを握った手は、強い反発の力によって、激痛を伴って、私の体を弾き返した。ドアは、固く閉ざされていた。私は再度、ノブを握り、前後に、左右に、両手で何度も力づくで開けようとしたが、内側の鍵など無かった。私は、完全に閉じ込められた。

私はその時点で恐らくは狂ってしまったのだろう。つい先程まで、この家は静寂で満たされていたというのに、今は、"声が聞こえる"ただの声じゃない。悲鳴だ。女と、男と、子供の声だ。誰かに助けを求める悲鳴、誰かを罵るような悲鳴、痛みに耐えかね、苦痛故の悲鳴、精神的な苦痛故の悲鳴。それら全てが、私が先程までいた二階から、確かに聞こえてくる。頭の中に直接届くような、その大きすぎる悲鳴は、私を狂わせるのには充分すぎるほどの恐怖を与えた。私は床にうずくまり、耳を塞いだ、しかし、悲鳴は小さくならなかった。物理法則を無視して、私の耳に、脳に、心に、直接、その断末魔は響き続けた。私は遂に限界に達して、叫び返した。

必死の懇願だった。やめろと、ただ一言、自分でもどこから声を出したのか分からないくらいの、奇声をあげて、ここで私は、初めて、自分の手足と体が、震えているのを見た。血走った眼球を見開き、歯をガタガタと震わせ、耳に手を当て、床に座り込み、片隅で震え続けていたのだ。そして、私の懇願の叫びにより、悲鳴が止まった。再び静寂が戻ったが、逆にその静寂が、たまらなく怖く感じた。今にも、二階から、血塗れの三人が、私を襲わんと、歩いて来そうな気がして、どうにかなりそうだった。

しばらく、そうしていたのだと思う。私は狂気のドン底にいながらも、ここを出る方法を、どうにか探そうと、理性的になりつつあった。身体は震えて思うように動かないが、出る方法は玄関だけではない、窓を割って出ればいい、そんな単純な思いつきを、この時の私は、さも名案だと言わんばかりに、天才的な何かを閃いたような顔で、立ち上がり、居間に向かおうとした。しかし、この家は、残酷にも、私に第二の狂気を突きつけてくるのだった。

居間に入ると、突如テレビが付いた。私はそれに驚き、悲鳴をあげてよろめいた。反射的にどこかに捕まろうとした手が迷子になり、座椅子をひっくり返した。座椅子と共に横転した私は、そのまま起き上がることをせずに、そのテレビに注視した。それは、ニュースだった。アナウンサーは険しい顔で、原稿を読み上げている。私は著しく冷静では無かったので、序文を聞き取って理解することは出来なかったが、どうやら、人が死んだとか殺されたとか、そういう報道内容だった。

「先月の未明、東京都、足立区で起きた、山崎さん一家惨殺事件についての続報です。犯人は、28歳の無職、久瀬武臣容疑者で、先週、同足立区内において、逮捕されましたが、その恐ろしく残酷な殺害方法と、逮捕後の久瀬容疑者の態度を重く見た東京裁判所は、昨年施行された、凶悪犯罪者輪廻死刑法が、ここに来て適応され、久瀬容疑者に宣告されることになりました。国内において、凶悪犯罪者輪廻死刑が言い渡されるケースは、初であり、この刑罰により、人体の肉体と精神には、どんな影響が及ぼされるのか、各業界からも、注目の目が集まっています。」

ニュース映像に映し出されたものは、衝撃的なものだった。古い民家、木造住宅だ。映像に写っている家は、紛れもなく、私が今いるこの家だった。山崎一家惨殺事件。アナウンサーはそう言った。やはりこの家で、狂った殺人劇が行われていたのだ。しかしなぜ、この家がこんな場所に現れたのか、私は分からなかった。何か関係があるはずだった、私は考えた。既に、この家から出ようとする意思は、無くなっていた。

ニュース映像は続く、次に、テレビは、犯人の顔写真を公開した。28歳の凶悪犯の顔だ、社会的な制裁も含めて、それは当然のことだろう。サイコキラーに、プライバシーなど存在しない。

容疑者の顔は、至って普通の男性の顔つきそのものだった。鋭い目付きに、無精髭を生やし、髪もボサボサで、だらしなく、ひどく無愛想な表情の顔写真だった。マスコミも、あえてこういう写真を選んでいるのだろうか。

私は笑った。

なぜ笑ったのか、分からなかった。

私はなぜ笑った?

何がおかしい?


見覚えがあった。その顔に、その目に、その鼻に、その口に、その耳に、その表情に。

私は息を飲んだ。心臓の鼓動が速くなるのを感じると同時に、ようやく収まったはずの震えが、再び起こりだした。眼球を見開き、その顔を凝視した。

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刹那の戦慄。

鋭利な稲妻が、脳天から突き刺さるようにして、私の身体を切り裂いた。

声が、聞こえる。

悲鳴だ。

何かが、見える。

死体だ。

何かが、臭う。

血の匂いだ。

フラッシュバックするようにして、次々と、私の過去の記憶が舞い戻ってくる。視覚、嗅覚、聴覚、あらゆる感覚をもって、私は、過去の私が戻ってくるのを感じた。

そして、私は、何故ここに私がいるのかを、瞬時に理解した。

そして、私はとうとう、一切の希望を、見失ったのであった。


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微かな光もなく、暗黒の虚の中で、ただ縹渺としていた私の意識が覚醒するまでに、およそ、どれくらいの時間を要していたのか、私には、皆目見当がつかなかった。まるで、果てしなく続く螺旋の迷宮の中を、宛もなく、ぼうっと彷徨っているかのようで、しかし、永遠とも感じられる虚無の時剋は、肌に触る乾いた荒風と、鼻を刺す、煙たい砂埃のような、不愉快な感覚によって、いよいよ、終焉を告げることとなった。

目は開いた。目が開くというのは、至極当然のことのように思えるが、この時の私には、目を開くことが出来たという、当たり前の事実に、半ば拍子抜けをしていた。それほどまでに、私の瞼は、重鈍とし、まるで、硬い麻糸で、上眼瞼と下眼瞼を、縫い付けられているのではないかと、錯覚に陥ってしまうくらいに、私の目は、私の意思とは裏腹に、自閉を決め込んでいたからである。

私は起き上がった。身体は重く、簡単には起き上がれなかったが、地面に手をつき、私はようやくの思いで、上半身を起こした。辺りを見渡すと、そこには、日常とは余りに乖離した、風景が広がっていた。全方位の地平線と、無限に広がる砂。私はわけがわからなかった。そして、これは恐らく夢であろうと思った。夢の中で覚醒するというのは、こんなにも意識がはっきりするのだろうかという、些か疑問が残った。砂の感触や、乾いた風。暖かい太陽。そのどれもが、もはや現実のものと相違ないくらい、それそのものだった。

そして私は起き上がるために、もう一度、地面に手を着いた。すると、右手に、硬い何かが当たったのを感じた。それは砂に埋もれていて、判別が出来なかったので、私は両手で砂を払いよけた。そしてそれが姿を現した瞬間、私は悲鳴をあげて飛び退いた。


そこには、"五つ"の白骨化した死体があった。


D.C.










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ありがとうございます。これが本当にモチベーションになるんだなぁ。
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糸紡弥生

純文学を敬愛してやまない、この世に辟易した底辺作家。弥(ヒト)の生は、無限に紡がれる螺旋状の糸のようで、あまりに美しく、あまりに儚い。故に、糸紡弥生。

糸紡之短編集

適当に書き上げた粗雑な物語。
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