誰にもなれなかった夜

「何だってこんなにも月が明るいんだ。畜生が」

 刺すように冷たい光を投げかけている月から逃げるように、男は裏通りへと続く道へ入っていった。年に一度だけと浮かれている町並みも、それに混じることのできない自分も何もかもが面白くない。
 後ろめたい気持ちがないといえば嘘になるが、それ以上に全てをめちゃめちゃにしたくて仕方がない。

 

ガラ ガラ ガラガラ。

 

いつのまにか男の手には錆が浮いている鉄パイプが握られていた。
 そうだ、壊せばいい。
 全てを壊せば、憎らしい明日が来ることもない。

 

カンカンカラカラカラカラカラ。

 

目指すは人通りの多い中心街の広場だ。ちょうど、祭りに合わせて浮かれた子供たちが集まっているだろう。
 全てが満ち足りた、そしてこれからもそれが約束されているかのような明るい表情を、これから打ち砕きに行くのだ。
 とても愉快なことだ。どうせ、もう失うものなど何一つないのだ。

生まれた時から親など居ていないようなものだったし、現に今ではどこで何をしているのかもわからない。友達もいることにはいたが、先日金を貸したままどこかへ行ってしまった。
 噂ではよくないところから金を借り、厳しい取立てにあっていたらしいが、貸した金が返ってくることはないだろう。
 更に数ヶ月前に仕事も失い、月末にあたる今日ついに住んでいるところから追い出されてしまったのだ。とっくの昔に自称「親友」たちは全て音信普通になった。
 弱者に救済を求める機関ですら健康でまだ若いといわれる年齢の男では相手にしてくれない。

これだけのことがあるのだ。社会が個人のために報いを受けることがあったっていいではないか。


  カラカラカラカラカカカカ。

金属の音が心地よい。さてどうやって「幸せ」を壊してやろうか、という考えで男の心はいっぱいだった。まず脳天に鉄パイプを振り下ろすのか、それとも柔らかい体を真っ二つにしてやろうか。


 ガラガラドガッ。


 道端のゴミ箱を試しに殴ってみた。金属製のゴミ箱は無残にも体の真ん中を凹ませて路地の向こう側に転がっていった。

「これはいいな」

 ゴミ箱を殴るのが愉快だった。ましてや、「幸せ」を凹ませたらどんなに笑いが止まらないだろうか。

――きゃははははははは

「早速試してみるか」

聞こえてきた子供の声に、嗜虐心がめらめらと燃える。こんなところに子供がいるのもおかしいが、今日は年に一度の祭りだ。特別なことがあってもおかしくはない。


 ――ねぇ、聞こえてるみたい

――おっもしろーい、あはははははは

声のする方へ歩いていくが、子供の姿は見当たらない。それどころか、いつの間にか人通りのまったくない工業地帯までやってきてしまった。

――どうしよう、ついてきちゃった

――じゃあ、仲間にしちゃおっか?

流石に何かがおかしいことに男は気がついた。申し訳程度の外灯の光にも子供たちの姿は照らし出されない。しかし、声ははっきりと聞こえる。

(これは、まずいんじゃないのか!?)

瞬間、心臓が縮み上がった。

いったい、自分は何て馬鹿な考えをしていたのか。

――ああ、気がついたみたいだよ。つまんない

――でも、もう遅いよ。ふふふっ

声は耳元ではっきりと聞こえた。

――もうニゲラレナイヨ


「うわああああああ!」

自分が驚くほどの絶叫が口から漏れた。怖くて、怖くて、たまらない。

何が起こっているかわからないのが、とても怖い。

「あああああ、にげ、ああああ」

逃げないと、と呟いたつもりであったがまともな言葉にはならなかった。

ガラガラン。

鉄パイプを放り出して、来た道を引き返し始めた。

誰でもいい、人間が見たかった。

幻聴だとしても、勘違いだろうと、怖いものは怖い。

一瞬たりとも、この場所にはいたくない。

――きゃはははは!!!!

まだ耳元では「あの声」が聞こえる。

「ついて、くるな!」

――あはははははは  あーはっはっはっはっは

――馬鹿みたい、あははははは

――ホント人間って馬鹿だねあっはっはっは  ほんとだ、うふふふふふ

――ひひひひひ、腹痛いよー  げひゃひゃひゃ、ほんとだ

「くるな! くるな! くるな!」

耳をふさいでも、声は聞こえる。
 走っているのだろうが、足の感覚がない。
 呼吸も気にならない。
 ただ笑い声と、心臓に突き刺さった恐怖のみが男を動かしていた。

「だれか! だれかあ!」


 おかしくなった? まるで正常じゃない。

 そもそも何かを傷つけようとしていたのも正常な心理だったのだろうか?

やはりおかしくなった。それでいいじゃないか。

目の前の狂気を受け入れたとき、心臓が潰れる音が聞こえた気がした。


  

 どのくらいの時間が経ったのだろうか。いつの間にか、声は聞こえなくなっていた。
 ただ真っ暗で、何も見えない。

「助かった……?」

ひどい寒気がする。早くどこかへ行って、体を落ち着けなければ。

ぐらぐらと揺れる頭を抱えて、男は歩き出した。

「どこか……明るいところへ……」

次第に明るくなる視界を頼りに、薄暗い工業地帯から脱出を試みた。
 やがて倉庫街にたどり着いた。倉庫と、山積みされたコンテナが壁のようにそそり立っている。
 この壁の向こうは、港のようだ。もうじき、朝日も拝めるだろう。

「少し、休まないと」

ただぼんやりとした感覚のみがあるばかりで、まったく体の感覚がない。
 恐怖で痺れた体がいつになっても回復しない。
 やがて港のそばに、鍵の開いているコンテナを見つけ、そこに潜り込んだ。

「あれ、お客さんは珍しいな」

コンテナには先客がいた。仮装パーティの帰りなのか、頭からマントをかぶり、おかしな仮面をかぶっている子供だった。

「お前は誰だ」

時刻としてはおそらく夜明け前。
 子供が一人でいるのはおかしいが、今夜は特別な日だったはずだ。夜更かししてかくれんぼでもしているのかもしれない。

「誰? そんなことをいうのは人間だけだよ」

子供は声を出して笑った。

「当たり前だ、俺は人間だ。お前も」

男はそのとき、子供のずれた仮面の下に気がついた。

仮面の下には、何もなかった。


 ――お化けだったらねえ、「ここはお前の場所か」って聞くんだよ

――自分が誰かを気にするのは人間だけだよ……キミ、気がついていないんだね

男は自分の手のひらを見た。
 

 手のひらはなかった。
 頭に手を回すと、あるべき場所には半分もソレはなかった。
 足はついていたが、血だらけだった。
 胴体はところどころ穴が空いていた。

――ずいぶんと素敵な姿じゃないか

「ち、違う……」

――何が違うのさ、ここにいたいなら居てもいいよ。僕が別の場所に行くから

――結構この場所気に入ってたんだけどさ

――お化けはね、ひとつの場所に一人しか居られないんだ

――お祭りの夜だけだよ、出歩けるのは

くすくすと笑う「子供」の声が遠くになり、やがて聞こえなくなった。
 コンテナの扉が閉まると、また闇が広がった。
 いそいで出口に駆け寄って開けようとしたが、びくとも動かない。そもそも開ける手がなかった。

 この箱から出る方法はただひとつ。
 祭りの夜に、また自分のような愚か者がやってくるのを待つしかなさそうだ。

 死ぬことも逃げることも、もうできないのだから。

明け方の町並みは、深夜の工業地帯で廃材が倒れたことにより下敷きになった哀れな男の話題でもちきりであった。



<この作品は自身のHPで公開していたものです>

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