掌編小説「カーブミラーの先で」

 あの十字路を曲がれば、てっぺんにカーブミラーのある坂道に出る。坂道を登って曲がり角を曲がると、そこに家があるはずだった。夕焼けの中、何度も何度も十字路を曲がって、カーブミラーのある場所へ行こうとした。それでも、いつまで坂を登っても家につかない。疲れて空を見上げるといつの間にか夕焼けは消えて、一番星がきれいに見える。周りの家からは夕食を作る匂いと電灯の暖かな光が漏れてくる。世界中で自分だけがぬくもりから遠ざけられている気がして、悲しくなる。早く家に帰りたいのに、どうしても家にたどり着かない。気が付くと布団の中で涙を流している。

 それは若いころからよく見る夢だった。

 さまざまな夢診断を当たってみたけれど、「思い通りにならない自分」や「過去の自分を振り返ってはどうか」など当たり障りのないことばかりである。夢なんてたかが知れているので当たり障りのないことばかりになるのは当たり前である。それでも以前は「たまに見る夢だな」というくらいの頻度だったのが、最近では数週間に一度、そして数日おきに見るようになってきた。気にしないということもできない。

「あなたは夢の世界で何をしようとしていますか」
 数か月の予約を待って、カウンセリングにかかったこともある。
「いつも家に帰ろうとしますが、なかなか家に尽きません。目が覚めると涙が流れています」
「それでは過去に何か嫌な目にあったことはありますか」
「特にこれと言って思い当たることはありません」
 そこに思い当たることがないから相談しているのだ。
「人は、よほど嫌なことは忘れてしまって、最初からなかったことにしてしまうんです」
 カウンセラーは、静かな声で続けた。
「でも、心は覚えています。なかったことになった出来事は、必ず心のどこかにしまってあるんです」
 時間になったのでカウンセリングはここで終わった。「なかったことになった出来事」とは何だろうか。思いだそうとしても、思い出せない。


 またあの夢だ。十字路を曲がって、ずっと坂道を登っている。カーブミラーは夕焼けを反射して、映っているはずの景色が見えない。真っ赤な空間が徐々に闇に飲まれていく。それでも僕は帰ることが出来ない。カーブミラーの見ているあの道の先へ、どうしてもいけない。

「なかったことにしてしまうんです」

 カウンセラーの言葉を思い出した。そして自分が今、はっきり夢の中にいることを自覚した。この夢を断ち切るには、いつもと違うことをしなくてはいけない。家に帰りたい気持ちを抑え、坂道を登るのをやめた。勇気を出してもと来た道を引き返して、あの十字路まで戻ってきた。

 十字路のところまで来ると、泣いている子供がいた。転んでしまって、立ち上がれないようだ。

「どうした、家はどこだい?」
 子供を起こして泥を払ってやる。

「おうちはね、もうないんだよ」
 子供は泣きじゃくりながら返事をした。この言葉は、どこかで聞いたことがある。どこで聞いたのかは思い出せない。

「そうだね、もうないんだったね」
 子供はわんわん泣いていた。こんな夕焼けのきれいな日に、こんな風に泣いていた気がしてきた。でも、何故泣いていたのかは覚えていない。転んで泣いていたのか、友達と喧嘩をして泣いていたのか。それとも、もっと違う理由があっただろうか。

「もう、だれもこないんだよ」
 夜に変わっていく空が不安を煽る。僕も子供と一緒に泣きたくなっていた。何かを思い出せそうだけれど、思い出してはいけない記憶のような気がする。

「角を曲がっても、誰もいないんだよ」
 そうだった。僕は何故泣いていたのかを思い出した。あの時、実際は泣いてなどいなかった。でも、心の底から大声で泣きたかった僕がいた。必死でこらえた涙がどこにも行けずに、ここで僕の形になって、ずっと泣いていたのだろう。

「そうだ、誰もいなくて、とっても寂しかった」
「いつまでもひとりぼっちだと思っていた」
「誰かのいるところに飛んでいきたかった」
「でもそんな場所、やっぱりどこにもなかったでしょ」

 僕は僕と一緒に泣いた。枕が涙で濡れていた。それ以来、あの夢は見ない。


<了>

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