ヨガは何と相応するか

https://newspicks.com/news/2884403/body/

こういうのはキチンとした体系があるので、それを踏まえずにつまみ食いでやるというのは危ないだけ。
それも薬物摂取の上でなど。
心と身体を捉えるというのは大切だが、それを個人の枠の中でやると、却ってバランスを崩すよ。
仏教の密教などで、大慈悲心とかを言うのは単なる精神論ではない。
世界そのものの普遍的あり方との繋がりを捉える為の道筋としてそれが必要だから。
私がキチンとした神社などで、しかもそこに通ってあるのと直にというのを推奨するのは、それの方が安全性が高いからだ。
宗教の開祖レベルは皆、直に世界そのものと向かいそして自らそのものでそれぞれ世界の普遍のあり方を捉えて。
薬物に拠ってなどという者などいない。
確かに非認知領域の最初の入り口の禅で言う見性体験は、白隠が自身の体験を語っているように、強烈なもので、脳的には脳内物質がドバドバ出ているだろうか。
それはホンノ入り口にしか過ぎないし、その体験自体は本質ではない。
だから白隠もアナグラ禅坊主と叩きのめされた訳で。
そこからホントの心そのものを普遍を捉えるまでは階梯があるし。
それはこんな方法で成されるものではない。
密教の修法の前提は、世界そのものの普遍をホントに真ん中に通して置いてこそ。
それを個人で保つというのは、まあ普通は個人の力では不可能だよ。
だからこそ法然は個々のあり方を見て取る阿弥陀を通してしか成仏は出来ないとイイ、そして親鸞は阿弥陀の絶対性に拠る事を言った訳で。
自分という枠を前提に、こんなことをやれば危ないだけ。
本当に世界の普遍そのものが、自ら自身に通ってあるという前提に拠らないと。
その上で密教だと金剛頂として瑜伽(ヨガ)の修法を示すが。
金剛というのは普遍性の不壊を以て金剛(ダイヤモンド)に例える。
ヨガというのは相応と訳されるからね。
何と相応するか。
それの通りと向かいがなくヨガ的修法というのは、心と身体を普遍的筋道に則ってではないので、コントロールを失い、また危うきと相応感応してしまう可能性が高い。
それがマインドコントロールにも繋がる。
本当の神道は徹底的に中心に普遍的主体性を真ん中になので、だからキチンとした神社で向かうと安全性が高いけど。
神道は普遍的主体を如何にだからね。
仏法仏道はそこに繋がる為の入り口に過ぎない。
世界の普遍そのものと向かうのに、特別な修法とかは必要ない。
只、自分という枠で世界を測らないことだ。
世界の普遍とローカルな自身がどう繋がってあるか。
誰でも世界の道理の中にある事は知ってるし、そうして世界そのものが形成されていることは知ってるけど、それが実際にどの様にというのを知らないからね。
だからこそ、心と身体とそれを繋ぐあり方を捉えてある事が大切なのだけど。
こういう自分の中に埋没する様なあり方で、ヨガ的方法を行うべきではない。

実際の心と身体での体感は大切だけど、だからこそそれはキチンとした普遍的あり方に於いてであるべき。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?