見出し画像

早川文庫SFは2020年代の必修科目テキストだ(2)

*映画館にいた「ブレランおじさん」
 

筆者は『ブレードランナー』直撃よりもだいぶ後の世代なので、「(おにぎりは)1つで充分ですよ!」のハリソン・フォード版はオトナになってからDVDで観た。なので最初に映画館で観たのがあのライゴズ主演の『2049』だったわけであるが、上映前の客席を見渡すと、だいたい40〜50代くらいのいかにもSF映画好きなおじさんたちが占拠しているという、個人的にはとても和む空間になっていたのだ。しかしただひとつ、そこになんともいただけないおじさんがいたことを除いては。

 私の右斜め前に着席していたそのおじさんは、恐らく娘さんと思わしき大学生くらいの若い女性と二人で観に来ていたようなのだが、上映中にも関わらず、しきりに隣の娘さんに話しかけているのだ。近くで観ているこちらとしては気が散ってしょうがないわけであるが、「いったい何を映画の最中にしゃべることがあるんじゃい!?」と少し傾聴してみると、どうやら鑑賞中の『2049』を前作『ブレードランナー』のネタを交えながら解説してあげているようなのだった。なるほど、ここでちょっとおじさんの気持ちになってみようではないか。

 おそらく50歳前後であろうおじさんは、自分が大学生くらいの時に『ブレードランナー』が日本に上陸してきた、いわば「直撃世代」であろう。そして、その続編が30年以上ぶりに公開されるタイミングで、わが娘が『ブレードランナー』を観た自分と同じ年くらいになったという因果めいたものに、おじさんは得も言われぬエモーションを抱いたのではないか。それで、よせばいいのに娘さんがふとなんとなく「『ブレードランナー2049』面白そうだね!(ラ・ラ・ランドの)ライアン・ゴズリング出てるし」と口を滑らせてしまったばっかりに、お父さんは待ってました!とばかりに意気揚々と娘と映画館に繰り出し、自身溢れんばかりのブレラン愛を炸裂させてしまったのだろう。

こんなストーリーであればなかなか微笑ましいものがあるが、それでも、絶対に上映中はおしゃべり禁止!である。

*ライゴズ

 閑話休題。そんなこんなで『2049』はどうだったかというと、個人的には「カッコいいんだけどどこか情けない男」を演じさせると右に出る者のいないライゴズ効果もあって、主人公Kを通じたレプリカント(アンドロイド)の悲哀という物語要素が非常に気に入った。正直、SFXやビジュアル面のインパクトでは前作を超えることはなかったけれども、前作では画期的な未来世界描写と、ハリソン・フォードのアクション要素がスポイルしてしまっていた、レプリカント側のドラマ成分を濃厚に含んでいたのが印象的だった。とくにKが心の拠り所にしていた「ヴァーチャル彼女」とのやりとりや、その彼女とまさかそんな!の方法で行うヴァーチャル〇〇〇シーンなんかは「非モテ男子の文明開化や!!!」と、同志として最大級の喝采を送りたくなったほどである。

*劇場版もいいけど、原作もいいぞ

またまた閑話休題。その『2049』が劇場公開されるまえに、ふとなんとなく「原作を読んでおいたほうがいいかも?」と思い立った私は、書店の早川文庫SFの棚を訪ね、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を手に取ったのである。読んでみると、映像作品とはまた違った世界と人物描写がそこにあり、すっかり魅了されてしまった。たとえばタイトルにある「電気羊」は劇場版とは全く関係のないワードであり、人間以外の動物が絶滅した環境下においては、電気動物を飼うことと、飼っている動物のランクが社会的ステータスになる、という小説オリジナルの設定が存在することを知ったり、主人公のデッカードがどちらかというと冴えないオッサンで、彼のアンドロイドとの対峙の仕方や物語の結末も、劇場版とはかなり異なっている点が興味深い。なによりも感心するのは、これが50年ほど前の1960年代に書かれた小説なのにも関わらず、古臭さを全く感じないことだ。

 物語に登場するガジェット(機器類)も面白い。聴く者の精神状態を調節できる「情調オルガン」なんかは実際にあったらいいなと思うし、別人の疑似体験ができる「共感(エンパシー)ボックス」という機器に至っては、AR(拡張現実)やVR(仮想現実)を駆使したゲームやエンタメ施設そのもので、時代の先取り感があってすごい。前項(1)でも述べたように、AIやVRといったキーワードがようやく世間一般に浸透してきた昨今の現実世界が、SFの金字塔といわれた本作(50年以上前にフィリップ・K・ディックによって書かれた!)の世界に追い付いてきた といっても良いのではなかろうか。

 

(3)につづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?