「垢抜け」の排他性

“垢抜け”という言葉を大学生になってからよく耳にするようになった。まるで垢抜けなければいけないかのように、皆必死に垢抜けようとする。否定はしないがなんかそれ、ちょっと気持ち悪くないか?

野鼠みたく不快な不潔感を放ちながら世界に受容を求めても通らないのは分かるけど、蝶には蝶の蜂には蜂の美しさがあるのに、蝶にならなければ価値が無いとされるのが現代の垢抜け文化な気がする。

と、生物に例えてみたが、要はこういうこと。僕は、人と関わる上で清潔感は大切だと思う(体質や病気で清潔感を保つことすら困難な人がいるのは承知)。かと言って、皆が皆同じように同じ美しさ(髪染めてセットしてメイクして…)を求めるのは、本来正解の無い“美”を画一化してしまう排他性を感じて、どうしても不気味なのだ。だから皆のファッションに従わなくてもいい。垢抜けなくたって美しい人はいる。高校生までの垢抜けてないそのまんまの顔にも、それぞれの個性や魅力が確かにあった。それが嫌で自分を変えようと垢抜けるのは素晴らしいが、垢抜けることが正解になりすぎると、垢抜ける前の人間が本来持つ美しさが“下位”に落とされてしまう気がしてならない。あくまでも“垢抜け”は選択肢の一つであり、義務でもなければ人に強いるモノでもないと考えている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?