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「金かけて育てたんだから」

先日、無職なのに買い物しすぎて銀行口座をからっぽにするという猛省案件をやらかした旨について、記事を書きました。

要約すると「お金の管理をろくに知らずに生きていくと、金銭感覚が身につかないまま大人になってから苦労する」という話です。

上記の記事で、私にとってお金は「使ってもなくならないもの」だった、と書きました。自分の部屋も持てないくらい狭いアパートに住み、懐に余裕があるとは思えない状態で、何故そんな異常な考えを持っていたかというと、ほしいものを何でも買ってもらえたためでした。

そんな私は、お金に対して一種の嫌悪を抱いていた時期がありました。
嫌悪、というよりは恐怖の方が近いかもしれません。

今ではそこまでお金に対してネガティブな思いはないですが、完全に払拭されたかというと、うーん、どうだろうなあ、という感じ。

「ほしいものがなんでも手に入る」なんて、そんな恵まれた環境で何を言っているんだ?と思われそうですが、今回、自分の金銭感覚を見直していくうちに気づいたもうひとつの問題として、お金に対する自分の考えをまとめておこうと思います。

「お前にはずいぶん金をかけた」

私がお金に対して嫌悪、あるいは恐怖を感じるようになったのは、大学受験を迎えた頃でした。高校3年生。人によってはもうすぐ社会人になる年齢。

きっかけは、父方の祖父からの電話でした。
大学受験を控えたある日、酔っ払った祖父から「早稲田大学以上のところに受からなかったら殺す」という電話がかかってきたのです。

過去の記事でも散々書いているので繰り返しになってしまうんですが、これがやはり、自分の中ではかなり衝撃的な発言でして。いろいろ突っ込みたい点はあるんですが、なによりもまず「なんで祖父に殺されないといけないの!?」という疑問。

祖父いわく、「お前にはずいぶん金をかけた」
え?どういうこと?と混乱する私に、祖父は「学費などの高い金額は自分が出してやっている」「たくさん小遣いを送っている」と話し始めました。

聞いてないよ!?!?!?!!?!

このとき、私は「金銭面で、祖父にものすごくお世話になっている」ことを、はじめてまともに認識しました。

私は、「父親、母親、自分」の3人家族で暮らしていました。
母は専業主婦です。なので、収入はありません。
となると、自分がもらっているお金は、働いている父のお金だろう。
ごく自然な発想だと思います。実際、私はずっとそう思っていました。

しかし、それは間違っていました。
私が”使ってもなくならない”とアホみたいな勘違いをしながらバンバン使っていたお金は、祖父のものでした。そのことを知ったのは、高校3年、要するに「知らずに散々使った後」でした。

私はずっと、父にお金をもらっていると思っていました。なので、父に学費のことを言われるのは、まあそりゃ働いてくれてるんだから、無駄遣いされたら嫌だろうな、と納得できていました。

しかし、祖父にしょっちゅう電話で「立派になれ」「勉強しろ」と言われるのは「なんで?」という感覚しかありませんでした。関係ないじゃん、と。確かにお正月には桁のおかしいお年玉をもらったりしてるけど、でも、私を育ててくれているのは父と母であって、祖父は関係ないじゃないか、と。

しかし、ようやくそこで合点がいきました。なぜ、私の人生に祖父がこうも口出しをしてくるのか。それは、祖父のお金で私が育てられていたから。

自分は両親ではなく、祖父に「お金をかけて」育てられた。
それを自覚した途端に、急に怖くなりました。

「かけた金額に見合うだけの”なにか”を返せなかったら、例えば祖父の期待する”立派な人物”になれなかったら、見捨てられるのではないか?」と。

かけられたお金に対する”見返り”

私に仕送りをしてくれていた祖父は、ものすごく努力して財産を築き上げてきた、いわゆる”お金持ち”です。しかし、だからといって金を湯水のように使うことは許しません。

小学生の私にウン万円をお年玉として渡したり、ほしいものを買えるようにと親づてにお小遣いを送り続けたりしてはいましたが、それは「未来の私のための投資」であって、「金をかけたぶん、ちゃんと立派になれよ」ということだったのだと思います。(あくまで想像ですが・・・)

でも、そんなことはまるで知らずに生きていた私。

ただ、怒られるのが嫌だから、言われるがままに勉強を頑張っただけ。
お金に対する見返りとして努力をしていたつもりはなかったのですが、結果的には、「優秀な成績」や「国立大学合格」などが、見返りとして機能してしまった

一方で、私立の大学に入学した、ひとつ年下の従姉妹。社交的で、明るくて、家事も一通りこなせる彼女を、私はとても尊敬していました。
しかし、祖父は「あれだけ金をかけたのに、あの程度の大学か」と愚痴る。
国立に受かった私を褒める一方で、従姉妹の通う大学をけなす。

私はその愚痴を聞いて、ああ、祖父の思い通りの人間にならなければ、私もこうやってけなされるのだろうか、とひどく憂鬱な気持ちになりました。

それ以来、私はお金をもらうことが、プレッシャーになっていきました。
もらったら、その分だけ、何らかの見返りを果たさねばならない。そんな気がして、自分が何か褒められるようなことができたとき(テストで優秀な成績をとれた、推薦枠に受かったなど、何らかの結果を残せたとき)に、何かを発散するかのように、もらったお金を使うようになりました。

しかし、逆に、調子に乗り始めたのもこの頃だったように思います。
「結果を残せば、もらったお金を使っても良い」

成績が安定してきた頃、私は逆に開き直り、大学生にしては派手な金遣いをしはじめました。ウン万円のジャケットを買ってみたり、高額な本を大量に購入したり。バイトもしてましたが、当時の買い物の仕方を考えると、バイト代だけでまかなえる金額ではなかったと思います。
この頃の悪癖も、今の自分に悪影響を残している気がする・・・。

要するに、私は「努力によって結果を残す」形で「お金に見合うものを返す」という方法をとったのです。見合っていたのかどうか、本当のところはわかりませんが、少なくとも私の中では「お金を使っても良いだけの努力をしないと見捨てられる」という強迫観念じみた考えがありました。

見捨てられたところで、自分で稼げればそれでいいじゃないか、と今では冷静に思います。ですが、その頃の私は、「祖父の望む結果を残すことでお金がもらえるなら、それが一番楽だ」と信じきっていましたし、「見捨てられる」=「死」だと思いこんでいました。

とにかく、お金をかけてもらったからには、結果を残さねば。
しかし、その行動方針は、私の結核発症や、不安障害による辞職という形で崩れ去りました。

「金がかかった」と言われましても

さて、親元を離れ、両親や祖父とのつながりが子供の頃よりも薄くなって、自分の育った環境を客観的に観察できるようになった現在。

「お前にはずいぶん金がかかった」なんて言われてもね!

そんなこと知らないですよ!!!!!!!!!!!!!!!!

そもそも頼んだ覚えないわ!!!!!そりゃお金はありがたいけど!!!

見返り求めるくらいならね!!最初からそんなことしなくていいです!!!

・・・とまあ、素直に書くと、こんな気持ち。

実際、お金をもらわずに生きていたらどうなるか、と言われると、多分国立大学なんて合格できなかったと思いますし、そうなると今の伴侶にも会えていないわけで、結局は後出しの意見でしかないんですけども。

あと、「お前にかけた金を全額きっちり耳を揃えて返せ」と言われたら、それもちょっとすぐには・・・というか一生かけてもわりと難しいというか、保険金とかかけて死ぬ以外の方法が思いつかないんですけど。

でもやっぱり、「お金で子供を支配する」というのはおかしいと思う。

子供を育てるうえで、「お金や手間をかけた分、なんらかの見返りを求める」のは、親の在り方として正しいかどうかは置いておくとして、人間としては当然の心理だと思います。

無償の愛で、子供の全てを肯定して、何の見返りも求めずに育てる。それは難しいことでしょう。ですが、かといって「見返りがないと見放す」のはおかしいと私は思っています。

私は実際に見放されたというわけではありませんし、病気で仕事をやめたときも、「失望した」と怒られることはありませんでした。そこは、父や祖父に対する、自分の勝手な思い込みでした。

ですが、支配的な言動(殺すなどの発言、学歴差別)を受けたのは事実ですし、私の神経がおかしくなったひとつの要因であることは確実です。

私は祖父を尊敬しています。努力を怠らず生きてきた姿勢や、博識で読書好きなところが、血の繋がり云々抜きに、単純に一人の人間として、素晴らしい人だなと思っています。

だからこそ、お金という契約じみたもので縛るのでなく、ただの「祖父と孫」という関係として付き合いができていたら・・・と思いますし、大人になった今は、単純に一対一の人間として付き合いができれば、と思います。

お金は生きていくうえで必要ですが、それによって人間の関係が変わってしまうのは、やっぱりどうにも受け入れがたい。

だからこそ、自分で稼げるようになりたいです。
他人に金銭関係で依存するのはもう避けたいぞ〜・・・・・・

口座からっぽ事件で、色々と見つめ直す機会になった泥水でした。

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