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そして報われたもの

文章記事では、とてもとてもお久しぶりです。泥水です。

以前、親が癌になったという旨の記事を書きました。
これを書いたのも、もう半年前になるんですね。
自分で読み返して、少し感慨深いものがありました。

さて、その後の経過なのですが。

手術、無事に成功しました。
大勝利です。

やったーーーーー!!!!!!!
抗がん剤ってすごい!
薬開発した人はすごい!!
お医者さんってすごい!!!

私の大事な母を助けてくれた、すべてに感謝、感謝です。

もちろん、まだまだ油断大敵。もろもろの心配はゼロではないのですが、ひとまず大きな癌は切除できたので、喜びの気持ちと共に、ここまでの経緯を記しておこうと思います。

治療との戦い

この半年間、私の母は癌と戦い続けました。

「それなら”病との戦い”の方が正しいのでは?」と思う方もいるでしょう。
ですが、外野の身の私からすると、癌は病そのものより、「治療との戦い」であると感じました。

以前の記事で触れましたが、母の癌は発覚した段階で非常に進行しており、手術で取れる状態ではありませんでした。

そのため、「抗がん剤で小さくしてから、外科手術で癌をとる」という方法が医師から提案され、母はそれを受け入れました。

医師いわく、「最近の抗がん剤はそこまで副作用もひどくない」「特に、お母さんの場合は○○癌なので、そこまでつらい副作用が出る薬ではない」(癌になった部位によって投薬する種類が変わるらしい)とのこと。

実際、はじめの投薬では、母は「副作用はなにもない、大丈夫そう」と連絡をくれたので、「医学の力ってすげ〜」と私はノホホンと構えていました。

しかし、薬というものは、投薬すればするほど副作用が出るもんなんです。
そりゃそうだよなあ!自分も経験したじゃん!忘れてんじゃないわよ!

・・・というわけで、投薬が重なって、数ヶ月経った頃。
ついに母から「しんどい」という発言が。
副作用自体が、というより、「こういう副作用が毎回出るとわかっていながら、病院に行って投薬の点滴をしないといけない」のがつらい、と。

確かに、ウン週間に一度、必ず病院に行き、時間のかかる点滴をしないといけず、しかもそれを半年の間、必ずやらなければいけない。
これはしんどいでしょう。副作用で苦しむと知りながら、それでも病院に行かなければいけないのですから。

何事にも我慢強く、弱音もほぼ吐かない母から「しんどい」という言葉が出るのは、よほどのことだな・・・と非常に悲しい気持ちになりました。
かといって、投薬をやめよう、というわけにもいかない・・・。

副作用が出ようとなんだろうと、まずは薬で癌を小さくしないといけない。だから半年は、どうあがいても、頑張らないといけない。
本人も理屈ではわかっているだけに、弱音をはいたってしょうがない、と思っていたようです。私に「しんどい」と言ったあと、「そんなこといってもしょうがないのにね、ごめんね」と謝ってきました。

私はただ「謝る必要なんてないよ、つらいとかしんどいとか、愚痴や弱音くらいいくらでも吐いてよ」としか言えませんでした。

そう、何もできないんです。悔しいことに。家事くらいはできても、本人が苦しむ症状に対して、私はまるで無力なのです。
痛みをはんぶんこ、とかできる何かがあれば良いのにね。

”娘”の私にできること

私自身は、病院や実家から少々遠いところに住んでいるため、見舞いにもたいして行けていませんし、せいぜい電話で励ますのが関の山でした。
なので、癌を抱えた闘病生活がいかにしんどいかは、想像もつきません。

「手足がしびれる」ときくたびにハラハラし、「気分が悪い」というのでなにか手伝えないか?と悩み・・・。だんだんと自分の無力さというか、「この親不孝者が!」という気持ちに苛まれていく日々。

暗澹とした気持ちになっていく私に、旦那が冷静に助言をくれました。

「君が折れてしまったら、それこそまずいよ。お母さんが苦しんでいるからといって、君まで苦しむ必要はない。むしろ、いざというとき駆けつけられるように、好きなことをして元気でいるのが一番だ」。

ハッとさせられました。
そうだよなあ、私が折れてどうすんのさ!?

開き直った私は堂々とやりたいことをやるようになり、元気を取り戻していきました。母にも「私は元気だから大丈夫!」「とにかく少しでも楽になれるならなんでも言ってみてよ!言う方がつらいなら別に言わなくてもいいし!」と、とにかく”私は大丈夫だから、頼りたいときは頼ってくれ”というメッセージを送り続けました。

母がそれをどう受け止めたのか、本当のところは本人にしかわかりません。ですが、少しずつ「こういうことがあって大変だった」「電話してもいい?話したい」と連絡をくれるようになったので、結果的には良かったのかな、と考えています。

そして手術へ

半年という期間、頑張って投薬を続け、ついに手術の日が決定。

手術前日に実家へ戻り、病院へ顔を出すと、以前よりは顔色の良くなった母がいました。いろんなところに治療や検査での痕があり、それが非常に痛々しく、また私の中で「こんな母を放って何をしてたんだ!」と怒鳴る声が聞こえましたが、もう無視だ無視。
私は元気な姿でお見舞いするために今日ここまで生きて来たんだからな!

医師からの説明としては、「薬はきちんときいているけれど、転移などの可能性はなくもない」。つまり、手術して中を直接見てみないと、なんともいえない。検査でわかることには限界があるので、しょうがないみたいです。

最近は何してるの、ここWi-Fiつながるの、今年のコナンの映画はヤバイ、などと雑談を交わし、気づけば小一時間経っていたので、「また明日来るし、手術終わるまでいる予定だから」と去ろうとすると、母が「来てくれてありがとう」と私を抱きしめてきました。

母は私の不安障害のこともわかっていて、電車に乗るのが怖いと震えていた時期を知っていたので、「自分の体調を優先してね」と言ってくれていました。無理に見舞いに来なくても良いよ、と。

私は「最近は調子いいからね!」と何度目かの大丈夫アピールをして、その場を去りました。どうか母の頑張りが報われますように、と祈りながら。

翌日、親戚もとい母の姉たちと共に、手術室へ行く母を見送り、待つこと数時間。手術の終わる予定時刻より1時間ほど早めに呼ばれ、先生のもとへ。
よぎるのは嫌な思い出。ひとりの叔母はハンカチを握りしめ、もうひとりは顔面蒼白です。

まだ手術が終わるには早すぎる時間に母の担当の先生に呼ばれて、嫌な予感が背筋をかけていくのを感じました。
「癌を取り除く予定の手術でしたが、今のままだと手術で取り切れる状態ではありません。」

良くない結果なら、そのときはまた話し合おう。
覚悟を決めながら手術室へ向かうと、主治医の先生からの言葉。

「無事に終わりました」。

よ、よかったああ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!

すでに涙目の叔母たちとともに、「どうぞこちらへ」と謎のお盆を持った先生に促されて座れる個室へ。

「抗がん剤がうまくきいて、癌がちゃんと小さくなって、とれるようになりました。心配していた転移もありません。一番良い結果だと思います

ワッと泣き崩れる叔母、私の手を良かったね、良かったね!と言わんばかりに握りしめるもうひとりの叔母。私も力強く握り返しました。

「で、えーとですね、苦手な方は目をそらしていただいてですね」

目をそらす?なにから?

「こちらが切除したものになります」

先生が持っていた謎のお盆。そのうえにのっていたのは内臓でした。
内臓ですよ。わたしの、おかあさんの、内臓。

そういうの見せるんだ!?!?!?!?!?と仰天しつつも、先生の説明をきく。これがこういう部位で、ここが癌になってて・・・と実物を見せられて、なるほどね・・・へえ・・・と思わずまじまじと見てしまう自分。
手術が成功した安心で、変にネジがとんでたんですかね。

いろいろと細かく説明を受けましたが、要するに「悪い癌は薬のおかげで小さくなって、無事に切り取れたよ!全部オッケー!よかったね!」ということで、また麻酔さめたら呼びますからね〜と待合室へ戻されました。

母の半年の頑張りは報われて、しかも一番いい形の結果で終わった。
心から良かった、と思いました。
なんだか、見える景色も晴れやか。叔母たちも「良かった良かった」と繰り返し言いながら喜んでいました。

病との付き合い

これからまだ、課題はあります。切ってつなげた部位が、ちゃんと元通りくっつくかどうか、そして動かしていなかった内臓が、元通り働くようになるかどうか。再発防止のための抗がん剤も必要になると思われます。

ですが、ひとまずは「無事に終わってよかった」。これに尽きます。

私としては、何よりも「母が抗がん剤で受けた苦しみは無駄じゃなかった」のが、ホッとしましたし、嬉しかったです。あれだけ苦しんで結局ダメでした、だったら、本当に心がポッキリ折れかねない・・・と心配だったので。

今、私はこの記事を、母のいる病院に近い実家からではなく、現在住んでいる家に戻って、書いています。手術後の見舞いに行くべきじゃないのか?とも考えましたが、それは私がまた、元気を取り戻した頃に行く予定です。

自分ではあまり自覚していませんでしたが、待っている間、精神的な疲れがすごかったようで、「無事終わった」と聞いたあと、どっと眠気がきて、帰りの電車でも久々に”寝落ち乗り過ごし”をやらかしました。起きたら首がメッチャ痛かったうえに終点だったからビックリした。慌てて降りました。

母が大病を患ったとわかったとき、親戚からは「今こそ娘のあなたが頑張らなきゃ」と言われました。まあ、理屈ではそうでしょうね、と思います。

でも、母は「無理をしないで」と言ってくれました。私が心から母を案じていると、わかっていてくれるからこそ、母は私にそう言ってくれたのです。
見舞いの回数の問題じゃないぞ、と。

私が倒れるんじゃ意味がない。私がまず元気でいることが、何より母にとっての優先事項であると、母は私に言ってくれたのです。

叔母たちの価値観からすれば、私は親不孝者かもしれません。見舞いもたいして行かず、家事を手伝いにいって逆に手間を増やしてしまったり。

ですが、私は私なりにできることをしたと思いますし、これからもこのスタンスを無理に変えるつもりはありません。もちろん、親の余命がわずか、とか、状況が変わったらどうなるかは私にもわかりませんが。

私はまず私を大事にすること。
そうしてはじめて、他人を支える余裕ができる。

そりゃ、元気モリモリで、毎日お見舞いできるパワーがあれば、そうしてますけども、今はそういう状態ではないので・・・。
できることからコツコツと。とりあえず、また回復したら母の顔を見に行きたいです。たくさん話したいことがあるし、会いたいなあと思ってます。

自分を大事にしたうえで、大事な人を大切にして生きたいです。
病院帰り、空がやたらにまぶしかった。泥水でした。

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おまけ:漫画(2P)

主治医の先生がなかなかユーモアあふれる方(???)だったので、手術後のやりとりを漫画にしました。

ご祝儀感覚で読んでもらえるととても喜びます。

ひとまずおまけはおいといて、ここまで読んでくださった方、ありがとうございました!

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