マイナスから始まる人生
ちょっと暗いタイトルのお話。
運動神経バツグン、頭脳明晰、美人orイケメンで、明るく朗らかな性格の両親からの愛情を一身に受け、十分に金銭的余裕のある家庭に生まれ育つ。
そういった人は、多分この世においては非常にレアな存在でしょう。
私は、運動神経はそこそこ、頭脳は多分まあまあ、顔はブスですが自分では結構気に入っていて、両親の仲は悪いですがそれぞれからは愛情はきちんと受けて育ったので、幸せだと感じています。
ですが、「もし人生に徒競走みたいなスタート地点があったら、私は少しうしろのほうから、マイナスから始めたんじゃないかな」と思うことがあります。
十分に恵まれた境遇にいるとは理解しています。ですが、やはり自分の中で、負い目のようなものがあったのです。
それが、「視力の悪さ」と「歯並びの悪さ」です。
視力回復トレーニングセンター
私は小学校に入る頃、すでに視力がだいぶ落ちていました。
原因は、おそらく父親の遺伝と、暗いところでゲームボーイで遊んだり、本を読んだりしていたこと。
「こんな小さな子供なのに眼鏡をかけなきゃいけないなんて」という母の悲しみをよそに、私は「なにこれカッケー!」と思いながら眼鏡をワクワク選んでいた覚えがあります。
まだ、あまり「子供が眼鏡をかける」のが普通ではなかった時代だったのでしょう。今ではごく当たり前のことになっていますね。
そして、視力の低下を防ぐために、私は「視力回復トレーニングセンター」に通うことになりました。
そこで行われる内容は、目のまわりの筋肉をほぐす運動を教わったり、首のあたりのツボを教わったり、目のトレーニングとして「遠くにいったり近くにきたりする指を目で追う」など、エトセトラ、エトセトラ。
ちなみに、子供の参加者はあまり見かけませんでした。
個人的な所感としましては、「効果あったのかよくわからん」です。
多分、一応、効果はないわけではなかったのでしょう。ただ、子供の私としては、そこまで楽しいものではなく、毎日家でもトレーニングメニューをこなさなければならないことが嫌で駄々をこねていました。
おそらく、その「視力回復トレーニングセンター」の会員費用は、安いものではなかったでしょう。また、お値段高めのブルーベリーの粉薬を毎回買わされていて、子供心にも「うわー高いお薬だなー」と思っていました。
何も知らなかった子供の私に、合掌。
地獄の矯正治療
そして、小学校、高学年になった頃。
私は、歯の矯正を行うことになりました。
今では、矯正が目立たないように配慮されたデザインが増えているようですが、私がやっていたのは銀色の装置を歯にびっちりつける、どうしても目立ってしまうデザインのものでした。
で、はじめの頃はあまり見た目など気にしていなかったのですが、段々と、口をあけて笑うのが恥ずかしくなって、笑うときに手を口に持っていくようになりました。食事をするのも、矯正にモノがひっかかるのが恥ずかしくて、なんとなく苦手意識が出るようになりました。
そして、治療がやっと終わるかな・・・と思った頃、妙なところに妙な形で歯が生えてきて、今までの器具がうまくハマらなくなりました。
そして「ハマらないなら仕方ないか」と勝手に治療を中断して、そこそこの期間をサボってから歯科へ再度行ったところ、「これはもうやりなおしですね」と言われました。自業自得!
そして、あまり安くない・・・というか正直めっちゃ高い矯正治療を、さらに数年やることになってしまいました。
大学生になる頃にようやくとれて、歯並びも綺麗になったので、今となっては「やっておいてよかった」とは思っています。
ですが、あの「あんなに痛くてイヤな思いしたのにやりなおしになった」のは、自業自得とはいえ、非常に悔しかったですし、「乳歯の時点でやるよりは永久歯になってからやればよかったんじゃないか!?」とも思ったり。
何がマイナスなのか?
ここまで読んでくださった方で、「別にたいしたことないじゃん」と思った方は、正しいです。目が悪いことも、歯並びが悪いことも、そう珍しくありません。
ただ、私としては、その二点を自分の中の”マイナス”と感じています。
(※目が悪いこと、歯並びが悪いこと自体を駄目だとは思っていません あくまで”自分の”目と歯並びの話です)
視力回復・歯の矯正治療によって、自分の中で「両親にお金をたくさん使わせた」という大きな負い目ができてしまったためです。
私の家庭はそこまでお金に困っていたわけではありませんが、おそらくお金を湯水のごとく使える余裕はなかったと思います。
自分で「目をよくしたい」「歯並びかっこわるいから治したい」と言った覚えはなく、どちらかというと私の将来を心配した母が「こういうのあるから、やってみる?」という提案をして、お金のことを何も考えていない小学生の私が「やる〜」と適当にノッてしまった、という感じでした。
ですが、お金を稼ぐことの大変さを知っていくにつれ、「なんでこんな私なんかにお金をかけさせてしまったのだろう」とじわじわ悲しくなっていきました。自分に生きる価値がないと思っていたからです。
両親は「大事な子供だから」という、その一心だけで、お金をかけてくれたのでしょう。特に母は、私のことを常に心配していました。
ですが、視力が悪くなければ、歯並びがもともと良ければ、そもそもお金をかけさせることもなかった、と、「自分に生きる価値はない」と思い込んでいた時期の私は、人生をマイナスからスタートさせたという感覚で捉えていました。
ゴールはどこにある?
と、マイナスから始まる人生〜!悲劇の人生〜!みたいに書いてきましたが、違うんですよね。
確かに私は、他の子供よりも手間をかけたかもしれません、お金がかかったかもしれません。ですが、それはそれ。
スタートラインがマイナスに感じられても、別にそこから自分なりのゴールを目指せばいいわけで、”マイナス”は”ハンデ”にはなり得ても、”負い目”にはしなくて良いはず。
お金かけて育てた結果、無職で病気の私が出来上がりましたけど、それはもう、仕方ないことです。
というか別に一生働かないとか一生病気とか決まってないし!まだこれからだし!明日から本気出すし!いや明日は無理でも・・・そのうち・・・そのうち頑張るし・・・(台無し)
視力は読書にパソコンにお絵かきであまりかんばしくないですが、せっかく歯並びはよくしてもらったので、どんどん大口あけて笑っていこうと思います。
みんなゴールは別々だし、そもそも競争じゃないからね。楽しく生きることができたら、それが一番いいなあ。泥水でした。
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