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人生はベルトコンベア(前編)

画像は電車の線路ですけども。
要は「レールの敷かれた人生」的な意味合いだと思ってください。

みなさんは「初めて自分の意志で選択したとき」のこと、覚えていますか?

この大学に行こう、と受験を決心したとき?
こういう仕事に就こう、と就職先を決めたとき?
都会に出よう、一人暮らしをしよう、と実家を出たとき?

学生の方は、まだあまりそういう経験がないかもしれませんが、成人した方は、だいたい「大学進学」「就職先決定」「暮らす場所決め」などで経験したことがあるのではないかと思います。

私は、中学で初めて私立を受験し、大学を受験し、さらに大学院へ進み、会社に就職するという一連の体験をした、今年25歳になった成人済みの人間ですが、「自分の意志で選択した」経験がありません

強いて言うならば、「会社をやめた」「パートナーとの同居を決めた」あたりが「自分の意志で選択した」ことかなあ、と思います。

つまり、会社をやめるまで、私の人生はベルトコンベアに乗っていたようなものでした。ただただ流されていく、自分の意志があるようで、実はない

ある意味、恵まれていたとも言えるのかな、と思います。
選択をしないでも生きてこれたというのは、「用意された環境があった」「環境を用意してくれる人がいた」ということですから。

ですが、私は今、病気で無職になって、ようやくそのベルトコンベアから降りて、生まれたての子鹿のごとく、ガクガクしつつも自分の足でようやく立とうとしているのです。

そして、「自分の意志で選択すること」の難しさを痛感しています

正直、苦しいです。
苦しいですが、これは必要なことであり、重要なことだと思っています。

なので、「自分の意志で選択することは、大変だけど大切なことなんだ」というのを忘れないために、記録しておこうという所存です。

ベルトコンベア創世記

まず、私に提示されてきた”生き方の方針”について一言で表します。

私は、主に父方の親戚に「偉くなれ」と言われて育てられてきました
(こちらの記事でも触れています:不安障害で会社やめました

具体的に「偉い」ってどういうことなのかわかりませんが、とりあえず子供の頃の私は「優等生でいること」「両親や親戚の期待に応えること」が大事なのだろう、と捉えていました。

明確なベルトコンベアが始まったのは、小学生の頃からでした。

小学5年生のとき、「周りの子はみんな受験するみたいだから、あなたもする?」と母に聞かれ、「よくわからないけど、その方がいいならする」と受験をすることにし、私立の女子校をいくつか見学して「この学校、建物が綺麗ですごい!」という安直な理由で志望校を決めました

第一志望校に合格したとき、親は大変喜んでくれたので、「ああ、合格してよかったなあ」と思いました。私自身は「あの綺麗な校舎に通えるんだなあ、楽しみだなあ」程度の気持ちでした。

ある日、のんべんだらりと家でゴロゴロしている私に、父が問いました。

「お前、ちゃんと勉強してるか?」

それに対し、「平均くらいじゃないかな?」と私は答えました。

偏差値で言うと60いくかな〜程度の学校だったので、授業内容はそこそこ難しく、特にガリガリ勉強しているわけでもなかった入学当初の私は、クラス平均か、ちょっと上くらいの成績でした。

ぼんやり答えた私に、父は言いました。

「勉強しないなら、学校やめろよな。学費、結構かかってんだから」

それを聞いた私は、「えっ!?何それ!?」という気持ちでした。
確かに、受験を決めたのは私です。私立の学校を選んだのも私です。

ですが、私はお金のことは何も聞かされておらず、ただ「できるだけ偏差値の高い=頭の良い学校に合格する」ことをミッションとし、個人的には「合格して両親や親戚を喜ばせた」時点でミッション達成だと思っていたので、「勉強しないなら学校やめろ」という父の発言は、なかなかショックでした。

私は、「さすがにやめさせられたくない、友達と離れたくない」という気持ちと、「ガチで勉強したらどのくらいできるんだろう」という興味とで、本気で学校の勉強に取り組み始めました

嬉しいことに、みるみる成績はあがっていきました。クラスで3位以内、学年15位以内くらいに入れるようになった頃には、「意外とやればできるもんなんだなあ」と、勉強を楽しむようになっていきました。
成績優秀になればなるほど、親は喜んでくれました。私も安心できました。

こうして、「優等生であるかぎりは大丈夫」という心の拠り所(?)ができ、ただそれに淡々と応えるというスタンスが自然と出来上がってしまいました。

見えないベルトコンベア、完成。

「落ちたら死ぬ」と思ってた

高校にあがり、依然として勉強をエンジョイしていた私は、「大学受験」という次なるミッションに挑むことになりました

「とりあえず理系で、パソコン好きだし情報系かな」程度しか考えていなかった私は、特に希望する大学はありませんでした。
そんなとき、仲良くしていた友人が「国立の○○大行こうと思ってるから、一緒に受けようよ」と言い、私は「それでいいか」と、これまた安直に決めました。

国立ならば私立ほどお金がかからないし、偏差値とかいうシステム的にもそこそこ上位だから、きっと親も喜んでくれるだろう、という考えもありました。学費のことで何か言われるのは、中学で経験済みだったので。

そして受験勉強に励んでいたある日、祖父からの電話がきました。

その頃の祖父は、酒に酔うと適当な親戚に電話するというあまりよろしくないクセがあり、しかも酔っているせいで暴力的な発言が多く、私は非常に苦手意識を持っていました。

「勉強頑張ってるか」「偉くなれよ」といういつものセリフを受け流しつつ勉強をしていた私に、祖父は電話越しで衝撃の発言をかましてきました。

「早稲田大学以上のところに受からなかったら、殺すからな」

・・・もちろん冗談だとはわかっています。
そんなんで殺されてたまるかーい!!!!!

というかそもそも早稲田大学以上ってなんじゃい!
偏差値で全てを見すぎでしょ!大学ったって色々あるでしょ!

ですが、受験を控え、金銭的にも色々とお世話になっていた私にとって、その言葉はかなり重く響きました

「これはマジで第一志望か早稲田に受かるしかねえぞ」と私は改めて気を引き締め、受験勉強に専念しました。適度に息抜きもしてましたけどね。

その甲斐あってか、神様が「こいつさすがにかわいそう」と思ってヘルプしてくれたのか、私は無事に第一志望の大学に合格することができました

無事(?)、ベルトコンベアに流されていく私。
落ちたら死ぬとこだった、セーフセーフ、と安堵しました。

これで学費についても、偏差値についても、文句は言われまい

その程度の気持ちでしか、大学を選んでいなかったわけです。
(実際、大学自体、見学すらせず受験のとき初めて行ったほどです。あまりにも考えがなさすぎるよ!)

※余談ですが、私をその大学へ誘ってくれた友人は、「センター試験の結果よかったからもうちょい上いってみるわ」と別の大学に変えてしまったので(誘っといて勝手に志望校を変えて、しかも合格してしまうあたり、さすが私の友人、フリーダムすぎて笑う)、行き先がバラバラになりました。
私としては「過去の自分を誰も知らない場所」として大学に臨むことができて、結果的には良かったと思っています。

大学デビュー、初めての自由(もどき)

そして大学に進んだ私は、その自由度に驚きました

講義をどう受けるかは自由。
ものによっては、テストさえ受ければオッケー。
遅刻という概念すらないところもある。

なんじゃこりゃ、どうすればいいんだこりゃ、と初めはパニクる、ベルトコンベア人生に慣れきった私。高校と違って、何時に来るかさえ自由なんだもの。

ひとまず「この講義をとっておけば大丈夫」というのを友人や先輩のアドバイスをふまえて、でも念のために大体の講義は受けて、できるだけ成績は良くしよう・・・と、方針を立てました。

どうやれば「偉く」なれるかは知らないけれど、成績優秀であるにこしたことはなかろう

下心というか、保険というか、とにかく私は自由に振る舞えるところは自由に振る舞いつつ、それでも「優等生であること」を心がけていました

そんな私にとって、特に戸惑いを感じたのは、周囲の「留年」でした。

中学、高校の頃は、よほどのことがない限り「留年」「退学」という言葉はきかないものでした。しかし、大学では、それらは決して珍しいことではないのです。それが、私には驚きでした。

私は父から「留年するくらいなら大学はやめさせる」と言われていたので(勉強しないなら学費は払わない、と同義なのでしょう)、普通に講義をサボりまくる先輩や同輩が、不思議で仕方ありませんでした

「なんでサボることができるんだ?」
「なぜ平気でいられるんだ?」
「留年が、怖くないのか!?」

留年=ベルトコンベアからの転落=死、だった私にとっては、サボりまくる人たちは、理解を越えた存在でした。この人達は、留年しても死なないというのか・・・!?そんな世界があるのか!?嘘だろ・・・!?みたいな。
(さすがに、留学や病気など、事情あっての留年は理解できますけども)

ここで「留年しても死なないんだ〜」「親の言うこと全てを聞く必要はないんだ〜」とサボり組たちに感化されていたら、おそらくベルトコンベアから抜け出すことができていたんでしょうが、私は怖くてそれができませんでした。

「真に自分で選択すること」を今まで一度もしなかった私は、ただ優等生であることを守るのが、唯一の道だと思っていたのです

と言いつつ、カッチリしすぎていたわけでもないです。
髪の毛を半分剃って坊主部分に模様をいれてみたり、奇抜な服を着てみたり、三日酔いするほど酒を飲んでみたり、結構、自由を楽しんでいました。

ですが、結局それも、「大学院に進むときの面接時には髪を元に戻せるように」「バイトは成績が落ちない程度に」と、ベルトコンベアを意識し続けていたので、”自由もどき”といった感じでした。

そして、大学四年。
ついに、ベルトコンベアから落ちかける事案が発生します。

結核発症です。

・・・と、まだ話は続くのですが、思った以上に長くなってしまったので、一旦ここで筆を置きます。

次回は、結核発症から就職活動、入社、退社についてお話しようと思います。

ここまで読んでくださった方、長文にお付き合いくださり、ありがとうございました。

サポートしていただけると心身ともにうるおいます(主にご飯代にさせていただきます)。ここまで読んでくださってありがとうございました!