どうでもいいがなと思うとき、ツインレイが泣いているとき。
ツインレイの話題についてを私はずっと記事を起こし続けてきて思うことは、ツインレイと出会っていない人にとって、ツインレイの話題は「どうでもいいがな」の分類にあるんだろうな。
私たちはとても深刻だ。
ツインレイについて真剣に悩んでいる。
かくいう私は、悩んでいたのか、何をしていたのかなんて正直にいうとよくわかっていなかった。
実際、私がツインレイの理論を書き続づけていることも、私は何をしているのかがよくわかっていなかった。
彼と結ばれたいと言葉にはしているが、ホントのところ、どうなの? って深堀してみれば「結婚にたいして印象悪いモーン」っていう私がいたわけで——。
私は、他人事の「私にとっちゃどうでもいいが、当人にとっちゃ深刻なんだろうな。」という話を聞いてきた。
「こうしたら上手くいくやん。」
っていう部分が見えているときもある。
だけど、人って「上手くいく方法を手に取りたくない存在」だとも思う。
けっきょく、その手段が自分でもわかっていても、実行に移すことが出来ない。なんなら実行に移すことが出来ていたならば、私に深刻な話をする必要性もない。
とどのつまり、私はツインレイのことは、そんなに深刻ではなかった。
ツインレイとうまくやりたいという思いはあった。あったはず。あったよ、もちろんだよ!
だけど、うまくいかせること以上に大事なことがある。
うまくいかせようとしないことだ。
うまくいかせようと躍起になっている時点で、うまくいかない。それが当時から思っていたことだったから、うまくいかせようと躍起になることもなかったし、サイレント期間にはいったときも然るべきタイミングのような気もしていた。
くるべきときが来た。そんな感覚だ。
実際、ツインレイのサイレント期間の初期で、別れに対してもそこまで深刻ではなかった。
わかれはいつだって悲しい。そんな感覚だ。
だけど、それ以外に、心の奥深くから湧き上がるような悲しみが存在し、その悲しみが周期的にやってくるから、悲しみのための涙を流す必要性はあった。
ツインレイの彼に対して執着があったから泣いていたっていうのは感覚が違う。
魂がたまーに泣いている。
これがツインレイの分離記憶を思い出しては泣いていたときなんだと思う。
つまり、分離している記憶が泣いているのである。
こういう、とりわけて深刻な事態が魂的には起こっているわけなんだが、この世の意識として存在している私からしても、潜在意識が泣いていても「なんでこんなに泣いているんだ?」というどうでもいい感はある。
周囲から見ても、ふつうに情緒不安定なんだな・・・・と思われていた。
周期的には1週間に1回ぐらいから、1か月に1回ぐらいの頻度で、起きたら泣いている日があった。(夢の記憶もなくて、ただ起きたら泣いているんだ。)
ツインレイの期間って、よくわからない現象が頻発して起こる。
この頻発して起こる出来事も、実際、現実的な面からみれば、わりかし私生活の中からみれば「どうでもいいこと」なんだ。
じっさい、ツインレイの相手に対しても『どうでもいいこと』にまで持って行けたりもするけど、潜在意識がそれを許さない。
だから、環境がツインレイへ引き戻すように動いていく。
私は、なぜか猛烈に『ツインレイの理論が気になりすぎる』っていうターンに突入して、理論を組み始めていくんだが、これはこれで、私の修行の一貫だったのだと思われる。
よく、ツインレイ理論を気にしている場合じゃなくて、自分と向き合えとかもある。
いやいや待ってよ、こっちは試験中なんだって・・・・・。
魂の大学にも色々あってさ、なんでか私は哲学科みたいなところに入っちゃったわけよ・・・・。
この論文を書き上げて、神さんに提出しなかったら、神さんに「オッケー☆」してもらって、魂の大学卒業認定されないんだよ。
これが出来なかったら、ハイヤーセルフとして神認定してもらえないんだって・・・・。
ある程度の感覚まで昇華が出来ないと、神まで持ち上げられないんだ。
実際、ツインレイとしても色々な種類というか。
色々な在り方があるなかで、私はハイヤーセルフを神として即位させることがまずひとつとしてあるんだが、そのために必要なこともやっていたっぽい。
覚醒ってなんなの? って色々あって、それがツインレイがどの立場のツインレイなのかによって大分違うはず。
私みたいに、神さんを新しく即位させるために地上にきているツインレイだっている(私はそういう人生だったし)し、この地上における闇の意識(恐怖や不安、罪悪感)を浄化させる目的でやってきているツインレイだっている。
家系の因縁を請け負うツインレイだっている。
別にツインレイの相手と結ばれたいっていうだけでツインレイやってたっていいし、ツインレイが成立すれば、それはそれでみんなハッピーだし。
一概に言えたもんじゃない。
きっと、私が知らんツインレイの形態もあるんだろうし、それはそれでいいんじゃないのとは思っている。
型にハマる必要性もない。
だけど、型破りしたいんだったら、まずは型を模さないと破るものも破れないとは思うけれども。
たいてい、ツインレイ同士間でも、相手のツインレイのやり方については「どうでもいいがな」でいいんだと思っている。
自分にとって「これいいな!」っておもったり「自分にぴったり!」って思うモノだけを受け取って生きていくことがあってもいいと思う。
自分にとって似合わないものが悪いものだなんていう理屈は通らないでしょ?
ファッションにセンスはあるかもしれないけど、好き嫌いで嫌いなファッションを悪くいうか? わざわざ。
善悪二元論って嗜好と善悪が同一化してしまっているきらいがある。
大事なのは、ピーマンきらいだったらのけちゃえ! でもいいってこと。
わざわざ「ピーマンが嫌いやねん」って言葉にする必要性もあまりない。
だけど、なんでピーマン嫌いなんだろう? って考えてみる必要性はあるかもしれない。その理由が何か必要なトリガーであることもあるから。
だけど、嫌いだからってその人殴っていい理屈は通らないよ。
それじゃあ警察いらねえよって話になる。法律も倫理もあったもんじゃない。
人って、自分は正当な話をしている。
とかおもいながら、
ただ単に嗜好の話をしている。
だなんてことが往々にしてあるんだ。
だけど、社会のルールや法律は守るのが国民の義務である。
この部分は、人として、人間として、日本人として守る国民の義務があるから、嗜好とは違う。
これが世の中の秩序を守ることに繋がっているんだ。
だからこれは守らなきゃいけないルールなんだ。じゃないと捕まっちゃうってこと。
それ以外のことで『自分は正解だ!』ってこともないし、なんなら、法律が正解ってわけでもなくて、それは国民の義務だから全うするべき事案であるだけ。
法律だって、国が変わるときゃ変わるしね。
ツインレイに対しても同じこと。
時代が変われば、ツインレイの形も変わっていく。
私たちは歴史になっていく。
そうしたとき、私たちは『どうでもいいこと』に分類されるけど、私たちにとってはどうでもよくないことだよね。
人って結構、主観的な生きもんでさ。
自分にとってどうでもよくないことが、他人にとってどうでもいいことってよくあることで、ツインレイなんて最たるもんなんじゃないのと少々思った。
だけど、それが人だよね。
人が泣いていようが、何していようが。自分のささくれが一番痛い。
だけど、ツインレイは人のささくれを想う心があっている存在だと私は思いたい。人のささくれのために、自分のささくれを我慢してしる人たち。
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