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量と質

ある打ち合わせの中で、思わず反論してしまったことがある。

「○○はない」と言われたので、「○○はあります」と。

反論したのには、理由があった。
ないと否定されたもののために頑張っている人たちを知っていたから。

ここで「そうですね」というと、
  否定された人たちの存在を否定することになる。
それが、性格的に、生理的に嫌だった。

昔から、「見ざる、言わざる、聞かざる」ができない人だった。
今は大人になって、目や口や耳を塞ぐことは相変わらずできないが、
  言葉や行動を選ぶようにはなった。
そう、ストレート一辺倒から、変化球を覚えた。

昔は、この性格を知っている人からよく言われた。
「言ったから(聞いたよね)、後よろしく」と。

結構、面倒ごとをよく押しつけられた。
今まで、本当に損な、めんどくさい役回りをよくしてきた。


話は戻って、「ある」と言ったら次にこんなことを言われた。
「じゃ、どのくらい “ある” の」と。

そう、ポイントが変わった。

始めは「ない」と否定したから、「ある」ことを伝えた。
今度は「ある」ことの「ボリューム(量)」を訊かれた。

あなたの周りのごくごく一部だけのことでしょうね、的な感じに。

ボリュームが少なければ、「“ない”に等しい」と言いたいのかもしれない。
これは特段めずらしい話ではなく、よくある話の展開だ。

正直にいえば、この辺りで話をするのが嫌になった。
昔の私なら、「論点をすり替えていますよ!」と間違いなく言っていた。
相手構わずに、吠えていた。

語気は少し強かったと思うが、怒らずに説明をした(つもり)。
相手も、「小さくて見えていなかっただけだね」とわかってもらえた。


誰もが、自分の領域内だけでモノゴトを判断する。
さらに存在しているかどうかをつい、ボリューム(量)で評価してしまう。

自分のモノサシだけで、いろいろなものを評価する。
そのモノサシが絶対とでも、言いたいかのように。
モノサシが一本しかないように。

数学が得意で会計の仕事をしていたので、評価の考え方はわかる。
しかしこのような評価には、大きな問題がはらんでいる。

「ない」のではなく「ある」のに、存在しているのに、
  その存在を否定してなかったかのように思う問題を。

「存在していない」のではなく、
  「見えていない/知らない/気づいていない」だけなのに。

その存在に蓋をかけてしまう。
存在していなかったようにする。
「見えない」「見えていない」ふりをする。

ふりが上手いだけかもしれない。
それが、よくある大人の対応なのかもしれない。


以前綴った「無の探究の旅」を思い出した。


相手を否定しても、自分は肯定してほしい。
今の社会の問題がここにある気がしている。

「自分」という存在が強いのか、弱いのか。

よくわからない。
よくわからないからこそ、そこを知りたい。

この辺りが、損な役回りを押しつけられる理由かもしれない。

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