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私の、私だけの。

今、いろいろなものを断捨離ではないが、整理をしている。
元々整理整頓はできる人だったので、みえる場所は整理している。
引き出しの中は “私だけの” 世界だから、それなりに、なおざりに。

ただ、増えていくものがある。
それは、本。
中でも、向田邦子さんの本は増える一方。

去年秋に初めて読んで以来、先日まで21冊持っていた。
ご命日の前日と当日にあわせて5冊買ったので、26冊持っている。
実際は27冊で、ある本だけ2冊持っている(買い間違え)。

6月には我慢できずに16冊もまとめ買いして、やっと1回目を読み終えた。
2回目と思ったが、Amazonで新品購入できるのは残り5冊だったので、
  もう我慢できずに買った。
これで、新品で買えるのはもうないが、
  出版社に問合せしてみようかとさえ思ってもいる。

中古でも買うことはできるが、それをする気はない。
元々中古は苦手で、唯一持っていたのはアンティーク時計。
それも先日手放したので、もう中古は持っていない。
いや、私という引き取り手のない中古があるだけか。

中古は別の誰かの持ち物で、彼女の本ではそれがどうも嫌だった。
それは、“私の” 向田邦子さんが欲しかったから。
なぜかはわからないが、“私の” という言葉が顕れた。
“私の” と言いながら、心の中では “私だけの” だけれど。

彼女のファンはそれぞれが、“私だけの” を持っていると思う。
それだけ彼女への想いを大切にしている。
といって、“私だけ” に留めない。
つい人に、“私だけの” 彼女への想いを語りたくなる。

語り出すと、長くなってしまう。
整理できずに、ただただ想いが心からあふれ出ていく。
ある言葉を発すると、言葉がふくらんでしまう。
「これだけ、好きなんです」ということを伝えたくなって。

以前、『向田邦子さんに恋している』を思わず綴ってしまった。
他にも、『本棚の住人たち』の中でも綴った。

誰かに語ったとき、“私だけの” が、“私たちの” に変わる。

これだけ、人から好かれた作家はいたのだろうか。

ある本を読み直しているとき、向田邦子さんに恋した理由がわかった。
その本は、『完全保存版 向田邦子を読む』。
多くの人の、「私の向田邦子」の想いを持っている。
同じような感じ方をしている人が多く、
  読んでいて幸せな心豊かな気分になる。

本の中の「私が愛する向田邦子」シリーズの中で、
  藤本有紀さんの「好きな人」に私の想いを代弁してくれていた。

そのミュージシャンが「好きな脚本家」でも「好きな作家」でもなく「好きな人」と表現していることが妙に引っかかりました。
(文末まで省略)
向田邦子さんは「好きな脚本家」でも「好きな作家」でもなく、私の「好きな人」です。

そう、私にとっても、「好きな人」。
彼女の外側にあるものではなく、
  内側にある生き方や姿勢そして彼女が発する言葉一つひとつが、
    好きになった。
人間、向田邦子を好きになっていた。

その本の中で秋山ちえ子さんは、次のように語っている。
これに近いのかもしれない。

私は “向田邦子に入れあげている” と、人にも、彼女にも話した。この年になると、“入れあげる” という言葉を使う程、人にほれこむようなことはめったにない。条件がむずかしくならからだ。

私は、会ったこともない一人の人として好きになったんだと。
もう会えないから、好きが消えないんだと。
会うことができるのが本の中だけだから、何度も会いに行くんだと。

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