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改めて『痙攣 Vol.3 ロックの過剰 プログレ/ニューウェイヴ特集』について内容紹介

『痙攣 Vol.3 ロックの過剰 プログレ/ニューウェイヴ』の一般販売開始からしばらく経過したこともあり、再度note上で簡単な記事紹介を行います。是非ご覧ください。

巻頭文の拙稿「ロックの過剰について ―技術・歴史・共同体の視点から―」。本稿では「ロック」という分類がもはや形式的に定義できない一方で、特定ジャンルを指す言葉として今も問題なく成立するというアンビバレント、「ロックの過剰」をそれを取り巻く諸条件から考察する内容となっています。
エレクトリックギターの黎明期から、ブリティッシュインヴェイジョンの端緒、バンド幻想の持つ含意に至るまで、「ロックの過剰」のはじまりに迫っていきます。

妖怪みたまん氏による『極東奇想音楽絵巻』。本稿ではアンダーグラウンドシーンを象徴する名バンドRuinsの歩みから、海外の動向を絡めつつ、極東=日本の地下領域における音楽実践の豊潤さを照射する内容となっています。著者の膨大な知識量に裏打ちされた固有名詞の嵐に圧倒されてください。

樋口恭介氏による「分裂者たち」。「TOOLを題材に何か書いてほしい」という編集長である私の幾分曖昧なオーダーに対して、小説家である彼が返してきたのがこの一つの短編小説でした。
卑近な生活と宇宙的スケールが接続するこの奇妙な物語は、曼荼羅的サイケデリアの中で肉体が不可逆的変容を遂げるTOOLのとあるプロモーションビデオを私小説的に翻案したかのようです。日常に追われて一生を終える私達にとって、彼らの音楽を聴くことは、ある種の啓示にすら等しいのかもしれません。


「ダニー・エルフマン『Big Mess』クロスレビュー」。本稿では永田希氏、高橋祐希氏、灰街令氏の各々の視点から本作が分析されています。これらを通じて90年代の歪で空虚な模倣としての、プログレッシヴロックの再解釈としての、あるいは汚泥の美学の体現としての同作の姿が見えてくるでしょう。

s.h.i.氏の「わからないものをわからないまま理解するために――ジョン・ゾーンが取り組む「プログレッシヴメタル」の在り方と、そこに伴う「ジャンル」の話」。「ロック」の多義性から今日の望ましい音楽の記述の在り方について探る本稿は言わば本誌全体の批判的役割を果たしていると言えます。
「複雑なものをできるだけそのまま具体的に読み込み理解するよう努めること」を説くs.h.i.氏による論は、音楽について何か文章を書くすべての人にとって、何か示唆するものがあるのではないでしょうか。


私が取材担当した「ロックミュージックの現在地点 南田勝也インタビュー」。『ロックミュージックの社会学』や『オルタナティブロックの社会学』の著者にして社会学者の南田勝也氏とのインタビューは様々な話題を横断する非常に刺激的な内容となりました。
現代の音楽シーンの脱文脈性/日本のロックの無思想性の問題/インディー美学からの脱却の可能性といった様々な話題に及んだ本インタビューは現代のロックについて考える上で様々なヒントを含んでいます。

tkhr_gother氏による「ニューウェイヴとヘヴィメタルの融和の旅路 ~ゴシックメタルを介して俯瞰するHR/HMとニューウェイヴの蜜月~」。ゴシックメタルというサブジャンルに着目することで見えるニューウェイヴの知られざる影響圏はロック/メタル双方を考える上で一つの示唆になり得るでしょう。

「THE SPELLBOUND『THE SPELLBOUND』クロスレビュー」。私と北出栞氏が担当した本稿ではそれぞれ方法は違えど(時代論とサウンド論)、本作の纏うある種の希望のニュアンスを言い当てているように感じられます。その意味で2つを読み比べても面白く読めるはずです。


拙稿「BUCK-TICK論、あるいは2つの攪乱について」。3~40年に及ぶBUCK-TICKの長大なキャリアの中で、彼らが攪乱者、オルタナティヴであり続けられるのはなぜかという問題を、90年代以降の展開を追いながら、論じた内容になります。
90年代、00年代、10年代という3つのディケイドを比較する中で見えてくるのは、資本主義の原理によって駆動される現代ポップカルチャーにおいて真にオルタナティヴであるとはどういうことかという問題に他なりません。

こちらで販売受付中なので、もし興味があればぜひご購入下さい。
痙攣 Vol.3 ロックの過剰 プログレ/ニューウェイヴ特集 | 音楽ZINE『痙攣』 zinekeiren.thebase.in/items/70556261


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