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ルツではなくボアズの信仰に着目―

イスラエルでは今日(6月4日)の日没から、シャブオット(七週の祭り・律法授与祭)です。このシャブオットの祭りではルツ記が読まれ、先月ヴィクトリア・トゥルーベックさんにも語って頂きました。 

そんなルツ記ですが、この書の設定に欠かせないないのがルツが『寄留者・よそ者・アウトサイダー』であるという点です。もしルツがイスラエル民族の良家出身で縁談によってボアズと結ばれていたら…
ルツ記のドラマ性も失われ、ダビデの系図の一部に加えられたことに何の驚きも生じないことでしょう。ルツが『寄留者・よそ者(ヘブライ語でゲル)』だったからこそ、ダビデの系図そしてマタイによる福音書のメシアの系図に彼女が特別な形で登場しているとも言えるのです。 

モーセ五書の寄留人観+神の愛

pinterest.com  より

トーラー(モーセ五書)を読むと、神は寄留者・よそ者に特別な愛を注いでいることが分かります。
実はイスラエルに対して神が「愛する(אהב アハブ)」という言葉を使っているのは数回で、そのほとんどが「あなたの父祖たちを愛した(民数4:37・申命10:15)」という父祖に対する過去形の表現だったり、「定め・契約を行うのであれば、あなたを愛する(申命7:12~13)」という条件付きの表現です。
唯一の例外とも言えるのが申命記23:5の「あなたの神、主があなたを愛された」という箇所で、英語の聖書などではここを現在形で訳していたりもするのですが、ここもヘブライ語では過去(完了)形になっており、文脈としても神が呪いを祝福に変えたことに対しての理由としての(付け加え的な)記述です。

ですから神→イスラエルへの愛に関するストレートな表現は、(驚くべきことに)ほとんど見られなかったりします。
しかし寄留者・よそ者(ゲル)に対しては、申命記10章にこんな聖句があります―

あなたがたの神である主は、神の神、主の主、大いにして力ある恐るべき神にましまし、人をかたより見ず、また、まいないを取らず、みなし子とやもめのために正しいさばきを行い、また寄留の他国人(ゲル)を愛して、食物と着物を与えられるからである。
それゆえ、あなたがたは寄留の他国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で寄留の他国人であった。

17~19節

神はここで自身についてわたしは~な神と語っており、『神の名刺』のようなものになっていますが、その最後は寄留者・よそ者に対する愛で締めくくられており、神が愛しているように「寄留者を愛せ」とイスラエルに命じています。
ここまでストレートな愛する(アハブ・אהב)という動詞を用いた言葉を、神はイスラエルの民ではなく寄留者に対して向けているのです。もちろんイスラエルは神が選んだ民なので、「愛する」という言葉を使わずとも自明の理だったのでしょうが、神の寄留者に対する愛は特別で非常に重要なものであることが分かります。 

神が命じる「寄留者への愛」という理想と現実

musaf-shabbat.com より

これを頭に入れながら、ルツ記を見ていきましょう。ルツ記に登場するイスラエルの民たちは、この神から与えられていた重要な戒め(寄留者に対する敬意や愛はトーラーのなかで最も繰り返し命じられている戒律、とも言われている)を守っていたのでしょうか。

ルツ記2:2にこうあります―

モアブの女ルツはナオミに言った、「どうぞ、わたしを畑に行かせてください。だれか親切な人が見当るならば、わたしはその方のあとについて(うしろで)落ち穂を拾います」。ナオミが彼女に「娘よ、行きなさい」と言った…

ルツ2:2

この箇所だけを読むと、何も感じないかも知れません。しかし、(上述の)神が寄留者を愛しイスラエルにも同様に愛するよう命じている、という点から見てみるとどうでしょうか。
寄留者であるルツが畑に行き親切な人を見つける必要があった、ということは当時のイスラエルびとたちの間に「寄留者への愛」が欠落していたことを物語っています。
また同胞であり夫と息子たちという古代社会における「女性としてのすべて」を失ったナオミに対して、同情や助けの手を差し伸べていないところからも、当時の殺伐とした場景が想像できます。

ここ2節の親切な人というのはヘブライ語から直訳すると、「私が(彼の)その目に恵み・慈悲を見出す人」となり、11世紀の著名なラビ(ラッシー)はこの箇所から
「特別に恵み深い人以外は、ルツを(収穫物を取られないよう)叱責していた可能性があった」
と論じています。

ここで思い出さなければいけないのは、レビ記19章にある「畑のすみを刈ったり、落ち穂を拾ってはいけない」というルールです。これらは貧しい者と寄留者のものとされており、ルツが行おうとしていたことは律法に則った行動なのですが、それを行うためには『怒らずに拾わしてくれる、慈悲・恵み深い特別に親切な人』と出会う必要があった、というのです。

また別のラビたちは「その人の後ろで落ち穂を拾う」という表現から、もし畑で収穫作業をする労働者の目の前や横で落ち穂を拾えば、(ラッシーの解釈である)叱責されるだけではなく女性としての危険すらあったのだろう、とまで述べています。

2節でルツはナオミに「畑に落ち穂を拾いに行かせてください」と言っていますが、これは律法に則った正当な行為。
しかし当時の畑での収穫という場は若い女性が1人で行くには危険な場所であり、① 特別慈悲深い人に当たり+② 彼から直接見えない後ろで目立たず・こそこそと落ち穂を拾う必要があった、というのです。
雀の涙ほどの落ち穂を得るために、貧しかったり寄留者だった女性たちは時として体を売る必要すらあった― そんなショッキングな当時のイスラエル社会について、指摘しているラビたちもいます。 

このラビたちの描く堕落した社会像を受け入れるかどうかは個人の自由ですが、2章の続きを読むと彼らの解釈があながち間違っていないのが分かります。
ボアズはその女性がナオミと共にモアブからやって来たルツだと知ると、「わたしのところの若い女性たちのもとを離れないように。若い男たちにはあなたに触れない(邪魔しない)ように命じた」とルツに声を掛けています(2:8~9)。
ここからボアズが若い男たちに命じなければ、そしてルツがボアズのもとで働く女性たちの近くに居なければ、彼女に何が起こるか分からないような状態だったことが分かります。

当時のイスラエル社会は、神が求める倫理観からはかけ離れており、最も重要な戒めの1つである「寄留者への敬意や愛」が微塵も感じられないような状態だったのでしょう。 

『ボアズ』の信仰

しかしそんな社会(とルツ記の物語)が変わり始めたきっかけは、寄留者であるルツに対して敬意と愛のある行動を起こしたボアズです。

8節のルツに対して掛けた言葉は「わたしの娘よ(ביתי ビティ)」という、部外者であり卑しいものとされていた寄留者へに対するものではなく、家族に対して使う愛にあふれた言葉でした。

「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」という言葉とともに、父母と生れた国を離れモアブからユダの地にやって来たルツ。
しかしそんな彼女を家族として迎えてくれる人はもちろん、寄留者としてさえ正当に扱ってくれるイスラエルびとは居ませんでした。そんななかでのボアズからの「わたしの娘よ(ביתי ビティ)」という声に、きっとルツは涙したのではないでしょうか。

そしてボアズからの温かい言葉にルツは、

「どうしてわたしのような外国人を顧みて、親切にしてくださるのですか」

10節

と驚いた様子を見せています。この彼女の言葉は驚きと感謝に満ちたものとも捉えられますが、もしかするとルツはまだボアズの善意に対して一抹の不安を感じていたのかも知れません。
当時の畑で働く男性が、落ち穂を拾おうとする貧しい+寄留者の女性たちに対して(性的を含む)危害を与える可能性があったことから、ボアズの善意の裏に何かがあるのではと恐れていたとして、決して不思議ではありません。そしてその後のボアズの丁寧な(長い)返答(11・12節)を見ると、このルツの言葉が修辞疑問文というだけではなく本当に困惑し怯えていた様子も伝わってきます。

そしてそんなルツに対してボアズは

「あなたの夫が死んでこのかた、あなたがしゅうとめにつくしたこと、また自分の父母と生れた国を離れて、かつて知らなかった民のところにきたことは皆わたしに聞えました」

11節

と彼女が選んだ道・人生をあげ、ひとりの人としてリスペクトしているのが分かる言葉が見られます。そしてイスラエルの神を選んだルツに対して、「主があなたのしたことに十分に報いられるように(12節)」と祈っています。
(ここまでに述べた)当時の時代背景やルツの置かれた状況を考えると、ルツはナオミ以外のイスラエルびとから祈られたことなどなかったでしょう。寄留者であるルツを対等なひとりの人として受け入れ、彼女をリスペクトした『ボアズの信仰』がルツ記後半の物語、そしてメシアの系図に繋がるための重要な役割を果たしているのです。

まとめ

ルツ記を読むと『ルツの信仰』にスポットライトが当てられ、ボアズはどちらかと言うと陰の脇役的な立ち回りが多いのではないかと思います。
しかしルツ記の物語がダビデ王そしてメシアに繋がることになった理由には、(アブラハムを連想させる)ルツの信仰だけではなく寄留者である彼女に見せたボアズの信仰も隠されているのかも知れません。

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