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第11週:ヴァ=イガシュ(近づいた)

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基本情報

パラシャ期間:2022年12月17日~12月23日
通読箇所

  • トーラー(モーセ五書) 創世記44:18 ~ 47:27

  • ハフタラ(預言書) エゼキエル書 37:15 ~ 37:28

  • 新約聖書 ルカの福音書 6:9~16
    (メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所) 

自身を明らかにするヨセフ
ユダ・バハナ 

ユダ・バハナ師
(ネティブヤ エルサレム)

今週のパラシャ(通読箇所)は、劇的な展開で始まる。
ヨセフは兄弟たちに気づかれず、彼らを罠にかけ、盗まれたと報告された銀の杯がベニヤミンの袋から発見される。ここで兄弟たちや(初めて読む/聞く)読者は、ベニヤミンの運命を同じ母ラケルを持つ兄ヨセフと重ねただろう―

あぁ、ヨセフと同様ベニヤミンまでもエジプトに奴隷として売られるか、
またはエジプトの宰相の品を窃盗した罪でエジプトの牢獄に入れられるのか・・・

生じる疑問 

エジプトで宰相となったヨセフ

そしてこの物語を注意深く読むと、ある疑問が生じる―
なぜヨセフは自由の身になって(=エジプトの司に就任)からも、カナンの地にいる家族に連絡しなかったのか。神の手は時を越え、その兄弟たちをヨセフのところまで連れてきた。この長い年月の後、兄弟たちは彼についてどう考えていたのか、またなぜヨセフの安否を確かめようとしなかったのだろうか。
 
ヨセフがエジプトに売られてから、22年が経過している。当時兄たちは20~30代だっただろう。そうすると今の彼らは40~50代、人生の終盤に差し掛かっている。皆が成長して知恵を得て賢明になり、ヨセフの兄弟たちはもはや嫉妬に燃えた子供たちではない。
 
そしてなぜヨセフは、兄弟たちに対しすぐに本当の姿を現さなかったのだろうか。すでに人生は完全に好転しており、ファラオに次ぐエジプトのトップの座という高位に就き、バラ色の人生になっていたし、恐らく彼は兄弟たちを許していただろう。
では、なぜ家族に連絡を一切取らなかったのか?
 
なぜ彼が兄弟たちにすぐ自分自身を明らかにしなかったのか、私には答えがない。私の推測になるが、兄弟たちを20年ぶりに見たとき、ヨセフはフラッシュバックで心の傷と当時の経験がよみがえったではないか。そんな負の思い出と感情が彼を包み、圧倒した。エジプトの宮殿だが、心ではドタンの乾いた穴の中だったのだ。
若い頃の感情とそこからの様々な記憶に襲われ、自分は心の準備ができていないと考えた、または自身を制御する術を持っていなかった。だから、自身を明らかにしなかったのだ。 

ヨセフはなぜ家族に連絡しなかった?

(thetorah.com より)

このように兄弟たちと実際に顔を合わせたこの瞬間については、このように想像して理解することができる。しかしそれまでの間は心の整理ができていたはずで、なぜ家族と連絡を取らなかったのだろうか。
 
ヨセフがファラオの夢を解釈したことで登用され、一気に王に次ぐエジプトで第二の人物になった。その少し前の彼は牢獄のヘブル人囚人で、すべての人に軽蔑されるような社会の最底辺だった。しかし次の瞬間に彼は、王の様々な顧問や軍師、魔法使いや大臣、エジプトのすべての役人や祭司たちよりも上になったのだ。
 
しかし宮殿の人々は、このヘブル人の元奴隷が王に次ぐ人物となり、彼らにとっては上司となったとき、どのように受け入れたのだろうか?
少し前まで彼は何者でもなかったし、彼らにとっては人以下だった。レイプ未遂で告発され囚人となった、ヘブル人という外国人だったのだ。
ヘブル人に対するエジプト人の態度は、先週のパラシャにはっきりと見られる。兄弟たちが二度目にエジプトに到着したとき、ヨセフは彼らに一緒に食事をするように勧めた。その時、彼らは別々のテーブルに座っていた― 

それで、ヨセフにはヨセフ用に、彼らには彼ら用に、ヨセフとともに食事をするエジプト人にはその人たち用に、それぞれ別々に食事が出された。エジプト人は、ヘブル人とはともに食事ができなかったからである。
それは、エジプト人が忌み嫌うことであった。

創世記 43:32 

ヘブル人を食事に参加させることが忌まわしいと考えられている国の中枢部で、そんなヘブル人のヨセフが突然昇進して彼らの上に立った時を想像すると―
彼らの多くはヨセフを軽蔑し、憎んでいたことだろう。 

そんな環境に置かれたヨセフは、認識し重要な教訓を学んだ。ヘブル人という出自から何かを半歩でも間違えれば、それは考え得る最悪の形で解釈され、とんでもない代償を支払わされ、幸運なケースであればもう一度エジプト社会の最底辺に逆戻り、最悪はカナンの地からの内通やエジプト国家への謀反の罪で処刑される・・・
したがってヨセフは、ファラオとエジプトに絶対的な忠誠心を示さなければならなかった。彼の一挙手一投足はつぶさに観察、いや監視され、偏見というマイナスのレンズを通して見られている。彼は自分の過去と伝統を完全に捨て、エジプトに同化しなければならなかった。
 
したがってヨセフは、兄弟たちの前でもファラオの許可なく個人的な決定・行動を起こすことはなかったのだと思われる。 

ファラオはヨセフに言った。
「おまえの兄弟たちに言うがよい。『こうしなさい。家畜に荷を積んで、すぐカナンの地へ行き、あなたがたの父と家族を連れて、私のもとへ来なさい。私はあなたがたに、エジプトの地の最良のものを与えよう。あなたがたは、地の最も良い物を食べるがよい。』

創世記 45:17~18 

ヤコブはベエル・シェバを出発した。
イスラエルの息子たちは、ヤコブを乗せるためにファラオが送った車に、父ヤコブと自分の子どもたちや妻たちを乗せた。

創世記 46:5 

ヤコブをエジプトに連れてきた馬車はヨセフ個人のものではなく、ファラオ(国)のものだった。
これはファラオの決定だったので、誰もヨセフを批判することはなかった。
その後、ヨセフを知らない新しいファラオが即位し権力を握ったとき、その王がイスラエルの子らを奴隷にしたのは、驚くことではない。 

リーダーの資質を持ったユダ

イシマエル人に売られるヨセフ。
これもヨセフの命を救うための、ユダの考えだった。

さて、このような状況を理解した上でパラシャの冒頭に戻り、ユダの演説について考えてみよう。
 
私たちは皆、両親・兄弟・配偶者・子供など家族との関係に、敏感なものを持っている。
ヨセフも例外ではなく、しばらくすると彼は家族をとても恋しく思ったに違いない。愛情を注いだ父親を恋しく思い、孤独でいることに疲れ、宮殿でのすべてのことに神経を使うことに疲弊していた。
 
そして、ユダはどうだろうか。
ユダヤ人の歴史は彼の歩みに続いており、ユダヤ人というのは彼の名前からだ。神は選民の中からもユダを選ばれ、彼を通してその後ダビデの家・王朝を建てられた。

そしてメシヤ・イェシュア(イエス・キリスト)もユダの子孫、ダビデの家から出た者だ。新約聖書を読めばイェシュアがユダヤ人であることは明白であり、十字架に『ユダヤ人の王イェシュア』として掛けられた。サマリア人などの他民族の人々も、彼がユダヤ人であることを知っていた。ヨハネの福音書第4章では、イェシュアとサマリア人女性との出会いを見るが、サマリア人の女性は「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの私に、飲み水を求めるのか」(ヨハネ4: 9) と言っている。
 
このトーラーの箇所では、ユダはベニヤミンを救うため最大の試みを行っている。それはベニヤミンの身代わりとして『罰』を受け、奴隷になるというものだった。この行動に、ユダの指導者としての資質がよく表れている。この自己犠牲は、ユダの子孫として永遠の犠牲と人類全体のためになったメシヤ、われらの主イェシュアを思い起こさせる
彼は私たちが死から自由になることができるよう、ご自身を捧げた。
 
創世記のこの箇所を読んだとき、私はユダの知恵に感銘を受けた。彼は相手の考えに沿って行くが、そこから別の(自身の考える)方向に物事を向け、持って行く方法を知っている。ユダの持っていた知恵とは、前向きな性質だ。これは、ユダがドタンで兄弟たちにヨセフを殺さないように説得したところにも、表れている。ユダと兄のルベンは、他の兄弟とは違いヨセフを救いたいと思っていた。ユダはほとんどの兄弟の考え、つまりヨセフを殺すことには表向きは同意し、そして最後の瞬間にヨセフを殺すのではなく別の方法を提案している。
 
そしてこのユダとルベンの2人は後に、食料を買うためベニヤミンをエジプトに連れて行くよう父ヤコブを説得している。両者とも説得を試みてはいるが、ヤコブはルベンの説得を拒否したが(42:37~38)ユダは説得に成功している(43:3~14)。ここからも、ユダの知恵とその知恵を説明する能力、そして説得力とリーダーの資質を窺い知ることができる。
 
そんなユダはヨセフの柔らかい部分がベニヤミンだと、認識したように思われる。彼らが父と弟について話すとヨセフが感動するのを見たり、ヨセフがベニヤミンに対して異なった取り扱いをし、食事の時に彼に一番多くの食べ物を与えたことに気づき、ベニヤミンがヨセフに琴線に触れると察したのだろう。
 
ひいき目に見てもヨセフは奇妙な行動をしており、それは次一節からも分かる。

彼らはヨセフの前で、年長者は年長の席に、年下の者は年下の席に座らされたので、一同は互いに驚き合った。

創世記 43:33 

末っ子であるベニヤミンへの心配り、そして父親への異常な関心は目を引くものだ。ユダはそれに気付いたに違いない。
そしてユダは父ヤコブと弟ベニヤミンについてを詳しく語り、身代わりになることを申し出ている。話の中で、ユダはあらゆる方法で「アブ(אב)」という言葉を14回使用し、弟や若者のイメージに12回も言及している。特に「私の父(アビ אבי)」や「私たちの父(アビヌ אבינו)」という表現が目立ち、これを聞いたヨセフの感情を想像すると胸が熱くなる。
そしてついにヨセフはそれ以上我慢できなくなり泣き出し、感動の再会劇になる。 

ヨセフ・兄弟との和解
   ⇔イェシュアと兄弟の和解

自身を現した後ヨセフが最初に尋ねたことは、「父上はお元気ですか」だった(創世記45: 3)。ヨセフは一人でいるのに疲れきって、家が恋しく、父親の愛に飢えていたようだ。メシヤの信者として、そしてメシヤ・イェシュアと新約聖書を信じるユダヤ人=メシアニック・ジューとして私たちは、ヨセフとイェシュアの間多くの類似点を見る。
ヨセフと同じようにイェシュアも、自身の兄弟・同胞たち、自身の家族・民であるイスラエルのもとに帰りたいと願っている。
 
そして、イスラエルの民の準備が整った時、イェシュアは告白して私たちに言われるだろう―

「私はあなたの兄弟イェシュアです。
私の所に来てください。命のパンを与えます。」 

 そしてヨセフは兄弟たちに「どうか私に近寄ってください」と言い、この瞬間までに起こったことはすべて神の計画の一部であると説明した。 

私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。

創世記 45:5 

そしてイェシュアが私たちの肉なる兄弟であるユダヤ人のもとに戻った際、彼は私たちを責めるのではなく慰め、彼を外国人に売ったことを心を痛め・自身を責めないように言うだろう。なぜならそれは(ヨセフのヤコブ一家と対照的に)世界全体救うようにするという神の計画の一部であり、イェシュア自身はそのために遣わされたからだ。
この45:5のヨセフの言葉は、ヨセフの子であるイェシュアが最後の時にイスラエルに対して掛ける言葉でもある。
 
神はメシヤ・イェシュアを私たちの前に遣わされた。多くの人を救うために、私たちは彼にあって永遠のいのちにあずかっている。
 
さて置換神学や反ユダヤ主義の根本には、私たちユダヤ人が神を殺したという非難がある。
しかしまず第一に、人間がどうやって神を殺すことができるだろうか。そして第二に、ヨセフの「神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わした」という言葉をイェシュアに当てはめるべきだ。彼は世界を救うために、神のご計画の一部として、いのちのパン、そのすべてを世界に与えるために来られ、それを十字架という形で全うされた。
 
そしてエジプトの奴隷に強制的に売られ、状況が彼に課されたヨセフの人生とは違い、イェシュアは全てを自由意志によって行った。彼は人類の罪を自らかぶり、いのちを与えるため来られたのだ。 

ついに平安を得る父

一族としてファラオの前で謁見する、
ヨセフや兄弟たち

そしてヨセフの言葉にしたがい、兄たちはヤコブのもとに帰っていく。

彼らは父に告げた。
「ヨセフはまだ生きています。しかも、エジプト全土を支配しているのは彼です。」
父は茫然としていた。彼らのことばが信じられなかったからである。

創世記 45:26 

兄弟たちはヨセフが生きており、エジプト帝国を支配していることを自分の目で見た。しかし最初は、信じられなかっただろう。ヨセフは自身が本当にヨセフであることを、彼らに説得する必要があったはずだ。
 
さて兄弟たちはヤコブの所に戻ってきた。
彼らと一緒に帰って来た車は、エジプトが提供する最高のものでいっぱいだった― 食物、衣類。しかしヤコブは最初、彼らを信じなかった。それらの物品を見るが、信じられなかったのだろう。
 
これは、今日の私たちの状況に似ている。イェシュアは確かに生きているが、彼はエジプト(=外国)人のように見え、エジプト(=外国)人のような服を着ている。彼は自身が生き育った文化から離れ、青い目や金髪と共に描かれ、ヨーロッパ人として世界中がイメージするまでになった。
 
そして私たち、イスラエル/ユダヤ民族はどうだろうか。私たち(イエスを知る者以外は)は霊的な飢饉の中で、飢え苦しんでいるのだ。
しかしその時が来れば、私たちメシヤを信じるユダヤ人や異邦人が共に捧げる祈りが聞き入れられた時― イェシュアはご自身を明らかにして、こう言われる。

「私はイェシュアです。あなたの兄弟、あなたの肉血です。」 

今週のパラシャは、最も感動的なパラシャと言えるだろう。
和解と家族関係の癒しについて語っており、人生の終わりにヤコブはついに心に平和と慰めを得たのだ。
 
ヤコブがファラオの前に出て、彼の年齢について尋ねられたとき、彼は答えた: 

ヤコブはファラオに答えた。
「私がたどってきた年月は百三十年です。
私の生きてきた年月はわずかで、いろいろなわざわいがあり、私の先祖がたどった日々、生きた年月には及びません。」

創世記 47:9 

生きてきた年月はわずかだが多くの困難・わざわいがあったと話したヤコブだが、彼はやっと家族という腕の中で平安を得た。そしてゴシェンの土地を受け取り、そこで彼は落ち着きと繁栄を残りの人生楽しむこととなる。
 
そして今週のパラシャはヨセフの劇的な啓示で始まり、良い励ましの方法で終わる。  

さて、イスラエルはエジプトの国でゴシェンの地に住んだ。彼らはそこに所有地を得て、多くの子を生み、大いに数を増やした。

創世記 47:27

こうしてヤコブは、家族と一緒にエジプトに17年住んだ。
まさに、めでたしめでたし、だ。
 
日本の皆さまに、安息日に平安があるように。
シャバット・シャローム。

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