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基本情報

2023年10月15~21日
通読箇所
トーラー(モーセ五書) 創世記6:9-11:32
ハフタラ(預言書) イザヤ54:1-55:5
新約聖書 ルカ17:20-27
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所) 

神に仕えるとは?ー ユダ・バハナ 

先週に引き続き、ガザ付近で予備役兵として奉仕するバハナ師。

自身を神のように振舞ったことが原因に

今週のパラシャ(通読箇所)は、先週のパラシャの厳しい言葉の後に始まっている。 

それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。

創世記 6: 6 

これは残酷で冷酷な世界を目撃している一文だ。洪水世代の人々は自身の欲望だけに支配され、その結果として地は暴虐で満ちていたた(創世記6:11)。それから神は洪水を起こし、世界を一掃した。 

ノアの時代、人はみな他人を犠牲にし、自分の必要と益だけに腐心していた。人間は獣の群れのようになり、食糧や避難所、狩猟場を求めて戦った。その結果自らの欲を充分満たすため、殺戮や強姦なども行った。世界は終わりのない戦争地帯と姿を変え、自分以外の全てが敵となり、死の恐怖や強姦など暴力行為を常に恐れながら暮らしていた。
ルールや規制はなく、暴力と不正のみが地を満たした。 

このパラシャでは、ノアとその息子・孫たちについて語っている。洪水後の、ノアとその家族が構築する新しい世界についてもあるが、再び悲しいが待っていた。神が地球上に人間を散らすきっかけとなった、バベルの塔の物語だ。
このパラシャからは次のことが分かる―
人が自身をこの世界の主とし神の権威を受け入れないこと=自身を神としていることであり、それが続く限りは世界は存続し得ないのだ。
神がそれを許し続けることはないからだ。

破壊することも造り直すことも出来る人

エルサレムのシネコン『シネマ・シティ』の屋上には、
ノアの箱舟が
(rjstreets.com より)

先週のパラシャ・ベレシート(はじめに)の終わりには、ノアの誕生についてがあった。彼の父レメクは、希望のしるし、または預言として息子を「ノア」(慰め)と呼んだ。 

「この子は、主がのろわれたこの地での、
私たちの働きと手の労苦から、私たちを慰めてくれるだろう。」

創世記5:29 

このレメクの言葉はこの世界が壊れ堕落していることだけではなく、私たち人間がそれを修正・改善することができるという重要な事実を伝えている。私たちの仕事は現状を改善し、物事をより良くするために何ができるかを見出すことだ。改善できるものを探し、何を修正・修復してより良い世界にできるか探す。
私たちは人生のあらゆる分野で立ち上がり、行動しなければならない!
 
そして私たちが行動できる最初の場所は、自身の家庭だ。そこから私たちは周囲― 近所、職場、社会に影響を及ぼすことができる。
 
神はノアを呼び、召しを与えた。ノアは行動の人だったので、この仕事に適していると神が判断したのだろう。次のように書かれている。 

ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。

創世記 6:9 

トーラー(モーセ五書)は、ノアを義人としている。しかし私の意見では、神はノアの持つ能力のために召命されたと考える。ノアは土地で働いていたがこれは神の創造物を世話し守ることになるため、洪水によって破壊されたものを植え直し、修復する能力を有していたのだろう。
 
そして彼は喜んで行動し、箱舟を作りその中の動物園とも言える設備に必要な全てを準備し、完全な形ではないだろうが全世界を復元し再現するという仕事を遂行した。
神は私たちを自身のかたちに造られたため、人は創造する能力が備えられたのだが、それが洪水直後の世界の復興に必要となっているのだ。 

私たちも、ノアのような働き手

(answersingenesis.org より)

メシアを信じる者として、私たちも同じように天の王国の働き手になるよう召されている。新約聖書の中で、イェシュアは「収穫は多いが、働き手が少ない」と教えている(マタイ 9:37)。
私たちは信じる者(ビリーバー)であるだけでなく、働く者(ワーカー)なのだ。
 
イェシュアは私たちに(時間や労力を)投資し、その王国の建設に加わるよう呼びかけている。だから困っている人々を助ける多くのメシアニックの慈善団体があり、ネティブヤも人道支援をエルサレムの地で行っている。周りの貧しい人々を助け、治療や世話を必要とする子どもたち、困った家族やアリヤ(イスラエルへ帰還)した移民たちを支援するのだ。
 
もちろん彼らがイェシュアを信じるようにとの希望はあるが、困っている人々へ手を差し伸べるのは、彼らを改宗させるというのが主たる目的ではない。イェシュアが私たちに、できる限り助けるようにと命じているから行うのだ。
 
やるべきことはたくさんあり、その仕事内容も決して容易ではない。それは、私たちを精神・肉体的にすり減らすこともあるだろう。しかし私たちはノアのように、未来に投資するよう求められている。私たちは来たるべき洪水を前に、イェシュアという真理について聞こうとする全ての人のため、救いという箱舟を造るよう召され、その船をそれぞれの造船所の場で仕事を行っているのだ。
ノアの箱舟は、彼の家族に必要な大きさよりもはるかに大きかった。私たちは箱舟の中に居る人々に対して、必要なものを提供し世話をするという形で仕えるよう召されている。 

神に仕える=楽しいことか?

ノアのことを考えてみよう。
彼と家族にとって、これは簡単なことだっただろうか?彼らは持っていたものすべてを箱舟に投資し、動物園のような騒音と動物の匂いに満ちた息苦しい混雑した場所で、閉じ込められるように1年以上過ごした。
 
神に仕えることが「簡単」また「楽しい」と思うなら、それを考え直す必要がある。
それは喜んで仕えるという、自分の心にフォーカスがあるからだ。神に仕えることは簡単で喜ばしいことも時としてあるだろうが、難しいことも多々ある。時には私たちの姿勢や信仰・心持ちに関係なく、困難かつ厳しいこともある。
預言者が良い例だ―
彼らの人生の中で、簡単で心地よく喜ばしい瞬間は、数えられるほどだった。

ノアの義ー 

山上の垂訓教会にある、ノアの箱舟のモザイク。
左下は黙示録にある祭壇の下の殉教者、右下は教父アウグスティヌス。

神はノアをなぜ、救われたのだろうか?
神はノアにこう言われている:
 

あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、
わたしが見たからである。

創世記 7:1 

神はご自分の創造物・被造物を試されていることが、この1節からわかる。
私たちが罪を犯し互いを傷つけるとき― それは創造者である神を裏切っていることであり、神は傷付き、極論すると私たちを造ったことを悔い、心を痛めている(6:6)。
神は私たちが忠実に従うかどうか確認するために、私たちの心を試されもする。
 
エゼキエルはノアの義を指摘している―

たとえ、そこに、ノアとダニエルとヨブの、これら三人の者がいても、
彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけだ。

エゼキエル書 14:14 

新約聖書もノアを、偉大な信仰の人として語っている。彼は神を信じた。
そして洪水がもうすぐ来るといった時に、彼はその準備ができていた。
 

信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。

ヘブル 11:7 

ヘブル人への手紙の著者の「まだ見ていない事がら」とはどういう事か?

伝統的なユダヤの見解では、洪水以前は地上にまだ雨が降っておらず、露が地球上の植物をうるおしていた(2: 6)と考える。ノアは洪水まで「雨」を見たことがなく、水が空から落ちてくると信じた―
ユダヤ的な解釈はそう考える。

そんななかノアは巨大な箱舟の建設にすべてを投資し、自身の信仰を証明した。ユダヤ的伝統によれば隣人が彼を嘲笑し軽蔑しても、ノアは神の命令に忠実であり続けた。
 
今週のパラシャは洪水・バベルの塔という、二つの重要かつ誰もが知る出来事で始まり、終わっている。言い換えるならば世界の破壊・(一時的な)終わり/滅亡と、地球全体での人類の離散だ。 

ハフタラ(預言書)から学ぶー

バチカン・システィーナ礼拝堂にある預言者イザヤの絵画
(ミケランジェロ作)

今週のハフタラ(パラシャに対応する預言書)はイザヤ書 54章からで、詩になっている。比喩的な方法で預言者はイスラエルを不妊のやもめに譬え、彼女に希望と恥辱からの贖いを約束している。
 
さて聖書は不妊の女性が出産した話が多くある。サムエルの母ハンナ、ヨセフとベニヤミンの母ラケルなどが代表的な例だ。またラビたちは、神がその子宮を開くまではレアも不妊だったと語っている。そして、もちろんサラも不妊だった。
 
不妊とは準備の期間であり、それは(その後生まれてくる)子どもの価値・重要性を教えてくれる。
そしてこれら不妊の女性たちから生まれてきた子どもたちは、英雄や父祖となり聖書の中で重要な役割を担っている。そんな特別な状況下で生まれた子供たちの中で、最も重要なのがもちろん私たちのメシアである、イェシュア(イエス)だ。 

54章2節で預言者イザヤは、エルサレムを拡大させ、やって来るすべての子たちのために備えるよう言っている。そして今日のエルサレムは、歴史のなかで最大で、かつ最も進んでいると言える。
そして、そんなエルサレムの土地を相続するようになる、『子ども』とは誰のことだろうか? 

確かにイスラエルの子らは、約束に基づいた子どもだ。
しかし、パウロはイザヤの約束をイェシュアを信じるすべての者と結びつけている。ガラテヤ人への手紙第4章27節で彼はイザヤ書を引用し、イェシュアを信じる者はみな、神の約束の子どもだと言っている。
そしてイェシュアのすべての信者は、イスラエルという大きな家族に加わるので、彼らはその人生の中にエルサレム・イスラエルというベクトルを持つ義務がある。
間違いなく、イスラエルは神の長子だ。ローマ人への手紙の中で、パウロは世界の国々をオリーブの木の根に接ぎ木された若い枝と比較している。この木とはイスラエルだ。 

ハフタラはノアの物語と明確なつながりがある。イスラエルを祝福し、自らの顔を隠さないという神の約束は、洪水によって人類を滅ぼさないという洪水後の神の約束と同じくらい強く、安定している。

「このことは、わたしにとっては、ノアの日のようだ。
わたしは、ノアの洪水をもう地上に送らないと誓ったが、
そのように、あなたを怒らず、あなたを責めないとわたしは誓う。

イザヤ書 54:9 

イスラエルの子らと主の民に加えられた人々に対する主のあわれみは、これからも永遠に続く。 これは非常に大きな励ました。

『尺には尺を』という原則

ユダ王国第二の都市ラキシュから出土した、
重さを測るための分銅。

このパラシャは「尺には尺を」と呼ばれる、聖書の原則も教えてくれる。トーラーの最初の物語からイェシュアの最後の教えまで、それはすべてこの単純な原則に基づいている。
 
洪水は地球を崩壊させたのだが、これは世界を腐敗・破壊させたという罪に対応する、同等の罰だった―
 

神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。
すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。

創世記 6:12 

そこで神は洪水を用いて、地球を崩壊させた。ヘブライ語でこの部分は言葉遊びになっている。
そして洪水の直後、明確なルールが設定されている―
 

人の血を流す者は、
人によって血を流される。

創世記 9:6 

これこそ、自身の行ったことが(良いことも悪いことも)同等のことが返ってくる/支払うことになる、という「尺には尺を」の原則だ。
そしてトーラーにおける「尺には尺を」の最も明白な例は、出エジプト記にある。
 

いのちにはいのちを与えなければならない。
目には目。歯には歯。手には手。足には足。
やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷。

出エジプト記 21:23~25 
山上の垂訓教会
(waynestiles.com より)

イェシュアもまた、私たちにこの聖書・ユダヤ的な「尺には尺を」の原則を教えている。

それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。
これが律法であり預言者です。

マタイ 7:12 

さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。
人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。
赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。
与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。
あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。

ルカ 6:37~38 

イェシュアの教えの基礎は、
トーラーだ。

復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。
あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。

レビ記 19:18 

これは、自分の強い欲望と欲求に溺れ自分のことだけを考えていた、洪水前の世代とは正反対だ。イェシュアは私たちにこう教えている―
何事でも、自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい。(マタイ 7: 12)
 
皆さまに平安・平和なシャバットがあるように―
シャバット シャローム。

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