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パラシャ第18週:ミシュパティーム(定め)

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基本情報

パラシャ期間:2024年2月4日~2月10日

通読箇所

トーラー(モーセ五書) 出エジプト記 21:1 ~ 24:18
ハフタラ(預言書) エレミヤ 34:8~22, 33:25~26
新約聖書 マタイ 5:38~42、15:1~20、マルコ 7:1~23
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所) 

知恵と憐れみ
ユダ・バハナ

計4か月の予備役、2か月間のガザでの任務を終え、エルサレムに帰って来たユダ・バハナ師。
皆さま、お祈りありがとうございました!!

これらはあなたが彼らの前に置くべき定め(ミシュパティーム)である。

出エジプト記 21:1 

このように始まる今週のパラシャだが、この節の「これらは」という表現から、このパラシャは先週呼んだ十戒授与(パラシャ・イテロ)から一続きのように聞こえる。
しかしそれと同時に、何世紀にもわたって私たちユダヤ人は今週のパラシャがトーラー授与よりも、時系列としては先だったのでは、との疑問を投げかけてもいる。この一節がトーラー/十戒を与える際の、前置きの言葉のようにも聞こえるからだ。 

先週のパラシャのおさらい

モーセとイテロ

さて先週のパラシャでは、モーセの義父イテロがイスラエル民族を訪ね、リーダーシップ・指導体制における危機的状態を目撃した。モーセが全てを一手に担っており、大小様々な全ての決定に彼が関与せざるを得なかった。イテロはそれを見、そのやり方では国としては崩壊すると理解していた。モーセも民もそんな方法を続けることはできない。
たとえモーセが史上最も偉大な賢人でも、国の全ての民事・刑事裁判を担当し判決を下す、という負荷には耐えられない。もし彼が耐えられたとしても事件・事例の数が膨大過ぎて長蛇の列ができ、いずれ人々は別の方法を探し、無法状態になる。
そこでピラミッド型の組織立ったシステムを導入するよう、モーセに助言した。 

そのー例が、ダビデ王の物語に見られる。
ダビデ王の義の欠如は、アブサロムの反乱という悲劇的な結末を生んだ。
その物語のなかで、アブサロムは「民の心を盗んだ」とある。彼はどうやってそれを行ったのか?アブサロムは毎朝早く起きて城門に降りて行き、そこで裁きを求めに来た人々にこう語ったのだ―現行の司法制度は遅く、効率も義も欠いている。迅速・効率的かつ公正な裁きを望むなら、王の息子である私がそれを約束しよう― 

アブサロムは、さばきのために王のところにやって来る、すべてのイスラエルの人にこのようにした。アブサロムはイスラエルの人々の心を盗んだ。

Ⅱサム 15:6 

イテロの進言を受けて改善されたイスラエルの司法システムであっても、司法制度がアブサロムの反乱の直接的な引き金となったのだ。 

イェシュアと「目には目を、歯には歯を」

山上の垂訓教会
(waynestiles.com より)

さて、今週のパラシャは人と人との間の裁きについての定め(ミシュパティーム)が続いている。これらのマニュアルは神から与えられた後、イテロのアドバイス通りモーセは10・50・100・1000人の長(裁き人)に、これらの内容を教えたのだろう。
 
様々な事例―奴隷の処遇、殺人罪、傷害罪、堕胎罪など―が取り上げられているが、やはり最も有名な聖句は原則となっている次の内容だ。 

目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、
火傷には火傷を、傷には傷を、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。

21:24~25 

そしてイェシュアはこのトーラーの聖句を引用し、自身の教えを展開している。 

『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。
悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頰を打つ者には左の頰も向けなさい。

マタイ 5:38~39 

「目には目を、歯には歯を」に見られる「XにはXという同等の復讐を」という原則は、復讐が度を過ぎエスカレートすることを抑制するためのものだ。私たちは攻撃者・加害者に対して『復讐』を大義名分に、無制限に傷つけ仕返すことは許されてない。相手側も不均衡な復讐をすれば罪の意識よりも被害者としての意識の方が強くなり、それに対して復讐を行う。このように復讐は連鎖し、雪だるま式にさらに大きく悪化していく。
そんな人の性を熟知している神は、この単純な戒めをもって暴力の連鎖に終止符を打とうとされた。
 
しかしイェシュアは新約聖書で、別の可能性・やり方を提示している。正義のために法が定めた枠組みの中で最大の罰を要求することも出来るが、あなたは相手を許すという選択もできるのだ。
 
イェシュアはここで、家族・財産を守るべきではない、守る必要がないと教えているのではない。私たちは家族や自身の財産、そして社会を守るために、できる限りのことをしなければならない。またイェシュアは泥棒や強姦犯を無条件に許し、告発するなとも言ってはいない。
もしそのように振舞ったならば、犯罪者が社会にあふれ人々を傷付け続けるだろう。
 
イェシュアは個人的な問題について語っているのだ。誰かがあなたのひととなりや信仰・アイデンティティや人種的側面を攻撃した。このような問題については、ここでイェシュアが提示するように慈悲深く振舞うこともできる、と提示しているのだ。 

誰に慈悲深くあるべきか

聖書時代の裁きの様子
(thetorah.com より)

あなたは寄留者を虐げてはならない。
あなたがたはエジプトの地で寄留の民であったので、寄留者の心をあなたがた自身がよく知っている。

出エジプト記 23:9 

この聖句もよく知られており、聖書全体を通してさまざまな形で登場する。私たちもエジプトや荒野では外国人で、エジプトをはじめ世界中で苦しんできたので、在留外国人という弱い立場を理解している。したがって、外国人に対して倫理観ある振る舞いをするべきだ。
 
しかし、他人を傷つける犯罪者であれば、どうだろうか。
それに関しては、こんなユダヤのことわざがある。 

残酷な人に対して慈悲深い者は、
慈悲深い人に対して残酷な者になる。 

このことわざはアマレク人に憐れみを示し、処刑せよという神の命令に従わなかったサウル王の物語がルーツになっている。その後彼は、ノブの住民に対して腹を立てて同じやり方で彼らを皆殺しにしている。それを命じられていたアマレク人ではなく、ノブびとにそれをすることとなったのだ。
 
それがこのことわざの由来だが、これは非常に深い考えで、私たちの生活にとって重要なものだ。
このことわざを聞くと私はいつも連想するのが、あらゆる種類の問題やスキャンダルが信仰を持つ兄弟姉妹の間で起こった際、それらをもみ消したり何もなかったことのようにしようとする私たちが持つ傾向だ。盗みや虐待、権力の乱用や時としては性的嫌がらせ。信仰者の世界は清くそれらとは無関係― それは残念ながら、嘘だ。
 
これは他に対する批判ではなく、自戒の意味合いを込めて言っている。
私たちは汚れた洗濯物が外側から見えないように、スキャンダルや重要な問題をうやむやにする傾向がある。もしそれが表沙汰になれば、神聖なものであるはずの教会・コングリゲーションのイメージ・名声・評判を傷付けてしまう、それへの危惧もあるだろう。
 
また他人への損害を最小限に抑える、というのもあるだろう。
特に著名な指導者や牧師・ラビについては、これが特に言える。そのような話が外部に知られると、他の人が傷つき、組織全体の信頼性が損なわれる恐れがある。
 
そしてよくあるのは、「許し、悔い改めのためにもう一度チャンスを与えよう」という考えであり、そこから(警察などの必要な場所という)公にせず、「私たちは皆、罪人だから」という形で事を丸く収める傾向だ。
もちろん私たちはみな罪人であり、それは正しい。しかし、そんな時に私はこのことわざを思い出すようにしている。 

残酷な人に対して慈悲深い者は、
慈悲深い人に対して残酷な者になる。 

例えば信仰者によるコミュニティー内で性的暴行が起こったとして、それを適切な形で報告・対応せず、ただ単にそれを起こした人を共同体・コングリゲーションに留まることを許したならば―
私たちは誰を助け、誰を傷つけているのだろう?
 
またある人が金銭または物質的利益のために他人を悪用していることを知って、目をつぶっている場合―
私たちは誰を助け、誰を傷つけているだろう?
 
私たちは家族と共同体のメンバーと彼らの霊を守るため、最善を尽くさなければならない。 

裁きにおける正義と公正

(larshaukeland.com より)

今週のパラシャでは、公正な裁き(裁判)の必要性も取り上げられている。
繊細で弱者に寄り添い、慈悲・恵み深くあることは非常に重要だ。聖書によく出てくるように、やもめ・寄留の他国人・孤児への思いやりは重要だが、裁きにおいてはその事案で実際に起こったことだけを客観的に見て調査すること、それが正義だ。
それはたとえある人が貧しいやもめ・孤児で不幸な人生を送っていたとしても、もし加害者であればその事件においては彼を憐れむことは許されない、ということを意味する。
 
トーラー・聖書は、その点については徹底している。 

また、訴訟において、弱い者を特に重んじてもいけない。
・・・
訴訟において、あなたの貧しい者たちへのさばきを曲げてはならない。

出エジプト 23:3,6

媚びるように富裕層や権力者に対して甘くなるわけでも、憐れみから不幸な弱者の方を持つのでもなく、真の正義をもたらすというのが裁きという場での真の公正・正義なのだ。
 
社会・経済的な強者と弱者の間の公正・正義で考えると、私たちを含め多くの教会・コングリゲーションでこんなことが起こり得るのではないだろうか?
裕福で多くの献金を行っていたり、社会的に影響力のあるメンバーや支援者が礼拝に来て、彼らが端の席に座っている場合に、その人をより良い前の場所で前に座るように勧め、敬意を表するというようなことだ。
 
しかしヤコブはそのような行動について私たちに警告し、次のように述べている。 

私の兄弟たち。
あなたがたは、私たちの主、栄光のイエス・キリストへの信仰を持っていながら、人をえこひいきすることがあってはなりません。
あなたがたの集会に、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来て、また、みすぼらしい身なりの貧しい人も入って来たとします。
あなたがたは、立派な身なりをした人に目を留めて、
「あなたはこちらの良い席にお座りください」
と言い、貧しい人には、
「あなたは立っていなさい。でなければ、そこに、私の足もとに座りなさい」
と言うなら、自分たちの間で差別をし、悪い考えでさばく者となったのではありませんか。

ヤコブ 2:1~4

貧しいメンバーを立たせたり、床に座らせたりという部分はなかなか無いだろうが、ヤコブが意味しているような1コマは世界中の教会・シナゴグで起こり得ることだ。
 
しかし新約聖書は、神の目にはすべての人が全く平等であると教えている。
男性と女性、ユダヤ人と異邦人― 神の目にはすべての人が平等で、他の人よりも価値のある人はいないのだ。 

パレスチナ紛争にも同じ構図が…

(timesofisrael.com より)

憐れみを持ちたいという願望は、私たちの倫理的性質に組み込まれている。
私たちは貧しい人々をより正しいと考えたいものであり、実際に「弱者」の側に立つのは簡単なことであったりもする。私たちはしばしば不幸でかわいそうな人を、『=正しい人』と断定しがちだ。
あるニュースなどで強者と弱者の対立構図を見た時、真実がハッキリしていない段階であっても、私たちの多くは貧しく弱い人を正しい善人と見なす傾向がある。
 
これはイスラエルとパレスチナの紛争において、もっとも言えることだろう。
構図としてはイスラエルが圧倒的な強者になるため、私たちが侵略者と見なされ、その全ての行動が非難される。真実やその裏にある事情などに関係なく、世界の圧倒的多数が「弱者・パレスチナ」を支持している。
 
しかし法律は、(上記で述べたように)強者・弱者のどちらに肩入れすることなく、公正でなければならない。
私たちは情け深くいる必要はあるが、同時に真実で公正な決定を下すため、事実を(感情ではなく)客観的に見る必要があるのだ。決定は、強者の権力や影響力に対する恐れや媚びる気持ち、そして弱者への心理的同情・感情のどちらに影響されてもならない。
 
パレスチナという隣人との紛争状況において、このイェシュアの言葉は非常に重いものになる―

しかし、わたしはあなたがたに言います。
自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

マタイ 5:44 

この教えは山上の垂訓のアンチテーゼの文脈に登場し、旧約にあるとされる「あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め」という考えを、反駁するものとして多くの場合捉えられている。
 
しかし、トーラーにはこれと同じような考え方の一節がある。
それが今週のパラシャにある聖句だ。 

あなたを憎んでいる者のろばが、重い荷の下敷きになっているのを見た場合、それを見過ごしにせず、必ず彼と一緒に起こしてやらなければならない。

出エジプト記 23:5 

ユダヤのラビたちの話に、こんなのがある―
お互いに憎み合っている、二人が居た。
ある時、その一方がろばを連れて歩いていると、ロバがバランスを崩して道から落ち、荷物の下敷きになって。
するとちょうど、お互いに嫌っているもう一方が通りかかり、相手のろばが道から落ちて重い荷物の下敷きになるのを見た。
憎しみから通り過ぎようとしたが、彼はこの戒めを思い出して守り、相手を助けることを選んだ。 

(shutterstock.com より)

この結果二人の敵は協力しなければならず、ろばの上の重い荷物を取りのけるため、互いに助け合わなければならなかった。ろばと荷物を救出して道の上に置いた2人は、その後荷物を分割し、半分の荷物を持ち主の(バランスを崩し、少し弱った)ロバの上に載せ、もう半分の荷物を通り掛かったもう1人のろばの上に載せ、町へと歩いて行った。
共闘し一緒に働くという行為を経て彼らは憎しみ合う敵ではなく友人になり、互いに好意を持つ間柄になった。
 
イェシュアが私たちに求めていることは、まさにこれである。
敵・味方関係なく、このラビの話の通りがかった人のように、私たちが歩んでいく道の上で、道から落ちている人々を見れば、救いの手を差し伸べるべきなのだ。
 
イスラエル・日本とお互いの置かれた場所で、正義と公正を持ったビリーバーの群れを築いて行けるよう、祈り合えればと思う。
日本の皆さまに、平安の安息日があるように。
シャバット・シャローム。

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