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第4週:ヴァ=イェラ(そして現れた)

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基本情報

パラシャ期間:2023年10月29日 ~11月4日

通読箇所

トーラー(モーセ五書) 創世記18 ~22章
ハフタラ(預言書) 列王記第一4:1 ~4:37
新約聖書 ルカによる福音書 17:26 ~37
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所) 

神を称えるのか、人を称えるのか?
ユダ・バハナ 

パラシャの主題=おもてなし

このトーラーの部分で最初で最も重要なトピックはおもてなし、ホスピタリティだ。アブラハムは天幕の入り口に座って、目を上げて、通り過ぎる人々を見ていた。そこで3人の人を見た際、彼は走って行って旅人たちを中に招き入れ、自分のもてなしを受けるよう彼らにお願いした。
このエピソードから、ユダヤ教ではよく知られているこんなことわざが生まれている。 

臨在よりも、客人を迎えることのほうが偉大である

バビロニア・タルムード シャバット127a 

ラビたちはどのようにして、神との交わり(臨在)ことよりも客をもてなすことの方が重要であるとの結論に達したのか。異端だと非難を浴びそうな内容だ。そしてその考えに沿って生活することは、かなり賛否を呼びそうだ。金銭・時間的な犠牲を払って人々をもてなし世話することが、神よりも重要で優先すべきなのか?
聖書の教えを実践するビリーバーとして、このコンセプトを受け入れるのはかなり難しい。
 
そしておもてなしは、このパラシャの主題となるトピックである。もうひとりの人物が客を歓迎してもてなし、自分の命をも危険にさらしても客人たちを守った― そう、ロトである。
神は人のように見える御使い(天使)たちを、ソドムに遣わされた。
天幕の入り口に座っていたアブラハムと同じように、ロトは城門に座っていた。ロトがこれらの御使いたち(天使)を見ると、自分の家に来るように促した。彼らが広場で寝ると主張したにもかかわらず、だ。
 
ソドムの乱れ・危険を知っていたロトは、これらの旅人を保護したいと考えた。
ロトは喜んで客を守り、町の人々が彼の家に押しかけ彼らを外に(差し)出すよう要求すると、ロトは自分の家の玄関から出て後ろの戸を閉め、彼らを保護しようとした。
彼は客人に危害を加えられるのを防ぐため、身を呈して何でもしたのだ。

ラビ的解釈と私の考え―

マムレとされる、ラマット・アル=ハリール。
現在はヘブロン市内になっている。
(ebaf.edu より)

さぁ、アブラハムの話に戻ろう。
なぜラビたちは、神との交わりよりも客人との(歓迎や)交わりが重要だと言ったのだろうか?
 
ラビたちの見解によれば、神はすでに幻の中でアブラハムに自身を明らかにしているのだ。 

主は、マムレの樫の木のところで、アブラハムに現れた。

創世記 18:1 

そしてこの現れた直後に、こう書かれている― 

彼が目を上げて見ると、なんと、三人の人が彼に向かって立っていた。

創世記 18:2 

幻(1節)の後にアブラハムは旅人/主の使いが通り過ぎるのを見た(2節)ため、神に立ち止まるよう声を掛け、彼らをもてなすために走って行ったのだ。
ラビたちの解釈では1節で神だということを知ったアブラハムは、2節の3人が神の御使いだと分かっていた。
そしてこのような解釈・理解から、次の考えが生まれたのだ。 

臨在よりも、客人を迎えることのほうが偉大である
(バビロニア・タルムード シャバット127a)

しかし、私はこの解釈は少し違うと感じている。
アブラハムは天幕の入り口に座り、神または神の使いたちを見ていた。ここで私は、アブラハムが彼らを御使いと認識していなかったと思っている。アブラハムにとって彼らは、さすらいの旅人たちだった。それでも彼は走って行き、食事のため立ち寄るようにと主張したのだ。 

神より人なのか?

(yahadoot.co.il より)

しかし立ち止まり、このことわざの深さを味わいたいと思う。 

臨在よりも、客人を迎えることのほうが偉大である

バビロニア・タルムード シャバット127a 

繰り返しになるが、この言葉のように考え、それを実践して生きることは、異端的ではないだろうか?神を差し置いて、人を優先するのか?神が必要な時や困り祈っている時でさえ、神よりも人にウェイトを置くのか?
 
新約聖書は、この議論についてさらなる洞察を与えている。
ヨハネの第一の手紙の中でその著者は、私たちの前に目に見える形でいる人々、私たちの隣にいる人々、直接コミュニケーションをとることができる人々を愛し、尊厳と愛をもって接することができるかどうかを、尋ねている。
目の前にいる人を愛したりリスペクトできないのであれば、どうして目の前には見えない神を愛し、リスペクトができるだろうか。
神のかたちにかたどって創られた人を愛すことなく、どうして私たちは「神を愛している」と自信をもって言うことができるだろうか?
 
神が私たちの前に自らを明らかにされる時、信仰的な生活を送るのは簡単だ。そして神の臨在を受け、交わりを持つのは簡単なことだ。
しかし三人の旅行者の後ろに隠された御使い、そして神の存在を見ることは難しい。
 
アブラハムにとって、見えない神に仕えること見知らぬ人をもてなし仕えることは、同じことだったのだ。そして神は全ての人を通して働いており、アブラハムはその事実についてもよく理解していた。
 
ここで私たちビリーバーは、私たちの人生の上で重要かつ基本的な原則を学ぶことをできる―
私たちは、神のイメージである人を敬い愛すことによって、神を愛し敬うことを学ぶのだ。 

パラシャと良きサマリアびと

良きサマリアびと博物館/国立公園
(Youtube @relaxing.walker より)

イェシュア(イエス)は、ルカ10章の善きサマリヤ人の譬えで、同じ疑問を投げ掛けている。彼は私たちに名前も知らない、旅人の話をしている。
 
エルサレムから下る途中、ある旅人は強盗に襲われて負傷し、道路の脇で死にかかっていた。
祭司とレビ人の二人は彼の姿を見たが、助けるために立ち止まらなかった、とイェシュアは語っている。

たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。
同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

ルカ 10:31~32 

なぜ彼らは、助けなかったのか?
そして、なぜイェシュアは譬えの登場人物として、祭司とレビ人を特別に選んだのか?
 
負傷した人はいずれ死ぬか、すでに死んでいた可能性があった。もしそうであるならば祭司やレビ人がその旅人に触れた場合、彼らは汚れることになるのだ。彼らは不浄になり、神殿で神に仕えることができなくなることを意味する。
 
そして、これはまさにこのパラシャの難題であり、私たちのジレンマに戻ってくる。
神への働きと、神のかたちとして創造された人への助け・働き― どちらが重要なのか?
 
このような祭司・レビびとというユダヤ的背景から、彼ら2人の思考をシミュレーションしてみよう― 

私はこのかわいそうな人を助けたいのもやまやまだが、神への仕事はもっと重要だ。しかも祈りや聖書の学びではなく、神殿で仕えるというのは神との最も直接的な交わりだ。やはり人助けとの間にはヒエラルキー・優先順位で、大きな違いがある。
私にはそんな神のための仕事があるので、不浄になるわけにはいかない。私は祭司/れびびとだ。神殿で人々を導くというのが、神自身が私たちに与えた役割で、私たちの存在意義だ。これはすべて神のためだ。しかも、レビ族でない他の誰かがおそらく数分後、ここを通りかかるだろう。神に仕える特別な必要性がない人だ。
その人がこのかわいそうな人を、きっと助けてくれるだろう。 

私が思うに祭司とレビ人は悪人でもなければ、利己的な人間でもなかった。彼らは心の中では助けたかったのだろうと、私は確信している。
しかし彼らは、神の働きに対する自身の責任・義務と、エリコ・エルサレムの道上に横たわる見知らぬ人を助けることとを比較した。そしてこう思った― 私たちは医者ではない。死にかけている人間を助けられるかどうか分からない。
そして彼らは、神の働きがより重要であると決定した。そしてそれを正当化するように、助けることができる他の人がすぐ来るだろうと(ある種、都合良く)考えた。
 
そして譬えでイェシュアは、イスラエルの子らではない一人の素朴なサマリヤ人について語り続けている。負傷した人物を見た時、サマリヤ人は彼を救うために立ち止まり、丁寧に彼の世話をした。
そしてこのサマリア人も、人を救うことを生業にする医者ではなかった。しかし彼は負傷した男を治療し、世話をすることができる場所に連れて行った。
 
そして、イェシュアはこう続けている―
このなかで、『あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい』という戒めを守ったのは、誰か?
誰がそれを実践し、負傷した人に親切を示したか?
 
答えはもちろん、サマリア人だ。
彼は自身の都合やその日の予定などすべてを止めて、彼を助けるために立ち止まった。サマリア人も急いでいただろうが、彼は他人を助けるために自らの人生の動きを止めた、と言えるだろう。
 
このたとえ話の教訓はシンプルで、私たちもサマリヤ人のように行動しなければならないということだ。そしてイェシュアは、私たちの前に立っている貧しく必要のある人を優先すべきであり、神の働きよりも先だと教えている。
これはこのパラシャのアブラハムから導き出した、「臨在よりも、客人を迎えることのほうが偉大」というユダヤ的原則に通じているのだ。 

もてなしはヘブル書にも―

イスラエル南部には父祖時代に思いを馳せれる、
遊牧民ベドウィン様式の宿泊施設も
(kfarhanokdim.co.il より)

このように新約聖書ももてなしを非常に重要であると見なし、ヘブル人の手紙の著者は次のように述べている。
 

兄弟愛をいつも持っていなさい。
旅人をもてなすことを忘れてはいけません。
そうすることで、ある人たちは、知らずに御使いたちをもてなしました。

ヘブル人への手紙 13:1~2 

なんとエキサイティングな言葉だろうか。
例えば多くのハシディズム(ユダヤ教超正統派内の敬虔派と呼ばれる宗派)では、もてなしは基本的なミツバ(戒め・善い行い)とされている。失礼でうす汚れた客をもてなすという話は、非常にたくさんある。これらの物語は全て似ていて、失礼で貧相な客人は後になって、隠された義人やホストする側をテストする御使い・天使だったことが明らかになる、というものだ。
 
客へのもてなしは、難しいテストになる可能性がある。
それは見知らぬ人が私たちの生活に入り込み、客人の存在とそのための仕事は日々の平和と快適さを乱す可能性がある。また個人的なパーソナルスペースと、家の中にある自由を侵害もするだろう。客人に食べ物や軽食を提供することは、難しいタスクだ。
 
しかしそんな時、私たちはアブラハムとロト、そしてこの聖句を思い出すべきだ―

ある人たちは、知らずに御使いたちをもてなしました。

ヘブル 13:2 

この聖句は私にインスピレーションを与え、希望で満たしてくれる。そして私は常に自問する―
家に天使を迎えたのだろうか?
会衆として御使いを迎えただろうか?

もてなしのため自らが動く―

ベドウィンの集落では、彼ら特有のコーヒーと紅茶の作法も学べる。
(elegantsufficiency.org より)

アブラハムの話に戻ろう。
彼はこのテストに合格し、御使いたちを家に招いた。アブラハム自身が走って行き、急いで客の世話をし、食べ物や飲み物を提供した。
アブラハムには多くの働き手がいたのだが、彼の労働者に任せるだけでなく、主人である自分自身もそのために働いた。18章8節を見ると、彼自身が給仕として動いているのが分かる。そして彼が自分も動き働いたという事実は、アブラハムにとって客人へのもてなしが面倒なものではなかった、ということを示している。
彼は喜んで奉仕し、素早く喜んでそれを行なった。
 
アブラハムは、人へのもてなしは神へ仕えること・神のための働きでもあると教えている。
通りすがりの旅人はいつ給水や食事、そして安全な休息/睡眠が行えるか― 分からないのが常であり、日中の暑さの中でマムレの木のそばに座っていたアブラハムはそれをよく理解していた。彼らの気持ちを汲みとることができたのだ。
そこでアブラハムは、彼らをもてなし世話をした。困っている見知らぬ人が日中の暑さの中を歩いている。アブラハムは迷わず彼らに食べ物、飲み物、そして休息を提供した。
 
そしてイェシュアは、この原則の理解をさらに深めている。
人は神のかたちに創造された。したがって、必要としている人々を助けることと、神のための働きは創世記の原則を通して自然と結びついてくる。私たちが兄弟姉妹や隣人のためにしたことは、イェシュアご自身にしたのと同じであると、教えているのだ。 

まとめ―

この教えは新約聖書に何度も登場するが、最も明確な教えはマタイ25: 37だ。 

すると、その正しい人たちは答えます。
『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか…』
・・・
すると、王は彼らに答えます。
『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』

マタイ 25:37・40

このイェシュアの教えから、悲しむ人や病人を訪問し、慈善を行ない、客をもてなすことは、私たちが王であるメシア・イェシュア(イエス・キリスト)にしていることと、同義なのだ。
「臨在よりも、客人を迎えることのほうが偉大」というユダヤの原則は、イェシュアを通して初めて100%理解することができる。
 
私たち人が互いに助け合うとき、それは世界の創造主のための働きのようなものだ。私たちは神のために、人をもてなして慈愛を示し、悲しむ者を慰め、病人を見舞い気遣う。これができない時、聖霊は私たちのうち、そして家族や共同体の中に本当の意味で宿ることはない。
私たちが義にかなった倫理的な行動をしなければ、コングリゲーションや教会・シナゴーグに座って祈ったとしても、私たちが助けられ癒されることは困難だ。義にかなった生き方がなければ、主の御霊は私たちのうちに宿らない、これも当然の原則だ。
 
さて最初に、よく知られたユダヤのことわざ・原則から今日の学びを始めた。 

臨在よりも、客人を迎えることのほうが偉大である。

バビロニア・タルムード シャバット127a 

では最後に、この言葉と密接に関連しているもう一つの有名なユダヤのフレーズで終わりたい。 

デレフ・エレツ(倫理的な正しい生き方)はトーラーに先行する。 

私たちがお互いに対してどう接しているのか― 神はそれを、私たちが思うより見られている。
皆さまに、祝福の安息日があるように。
シャバット・シャローム

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