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第8週:ヴァ=イシュラフ(送った)

(パラシャット・ハシャブアについてはこちらを)

基本情報

パラシャ期間:2022年12月4日~12月10日
通読箇所
トーラー(モーセ五書) 創世記32:3 ~ 36:43
ハフタラ(預言書) ホセア書 12:12 ~ 14:9/ オバデヤ書 1:1 ~ 21
新約聖書 マタイの福音書 2:13~23
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所) 

見えないことへの投資―
 ヨセフ・シュラム

ヨセフ・シュラム
(エルサレム)

胎内から始まった、双子間の争い

このパラシャから導き出せる重要な結論の1つは、母親リベカの胎の中にいる時から始まった双子の兄弟の戦いが、仮にではあるが関係修復・和解を行ったということだ。しかし実際には現在に至っても、この問題は完全な終結・和解には達してはない。
この章では、和解するための相互間のパワーバランスについて学んでいこう。

子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったので、彼女は「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう、私は」と言った。そして、主のみこころを求めに出て行った。
すると主は彼女に言われた。
 「二つの国があなたの胎内にあり、
  二つの国民があなたから分かれ出る。
  一つの国民は、もう一つの国民より強く、兄が弟に仕える。」 

創世記 25:22~23

これはカルヴァン主義的な運命予定説などとは、全く違う。子供たちは生まれた時に両親の性格のいくつかを受け継ぎ生まれ出てくる、ということだ。ヤコブはどちらかというとイサクの性格、エサウはリベカの家系からの性格を持って生まれたようだ。

ヤコブが長子としての特権=相続権と引き換えにスープ一杯を売ったことから、エサウは双子の弟に対して殺意を抱くことになり、それを非難することは容易である。
しかし重要なのは、この双子の間の複雑な関係性、対立構図はリベカの胎の中から始まっている、という点だ。

ネゲブ砂漠では父祖たちの生活様式に近い、
遊牧民ベドウィンの生活を体験できる場所も…

今回はエサウ目線から、このストーリーを読んでいきたいと思う。創世記はエサウをアウトドア系で粗野な、猟師として描いている。そんな性格から彼の興味は、物質的かつ一時的、そして自身が感じる欲求に対して向いている。
その瞬間瞬間を生き、獲物というひとつのターゲットに夢中になって没頭し、かつ衝動のままに動いていた。空腹の状態で「長子の特権が何になるのか」という彼自身の言葉からも、彼には長期的な視点が欠落していたことが分かる。

その反面、長子の特権という値札をスープに付けたことからも、弟であるヤコブの関心は今・現在ではなかったことが、分かる。これは潜在的な能力なのか、もしかすると深層心理で母リベカの中での格闘を覚えており、彼のそんな性格が形成されたのかも知れない。そして双子ということもあり、ヤコブは兄の特徴を熟知しており、上記のようなポイントを知ったうえで取引を始めたのだろう。

この兄弟間の取引を俯瞰から見ると、スープという『かたちあるもの』と長子の特権という『かたちなきもの』の等価交換とも見られる。
エサウは前者を、そしてヤコブは後者の『かたちなきもの』を選んだ。人は古代も現在も、目に見えるものにより大きな価値を見出す傾向がある。特にこの時点では2人の祖父であるアブラハムに神がした約束は、全く現実味のないものだった。
そして実現するとしても、いつ・どのように神がその契約を実行するのか、誰にも予想がつかない。そんな状況で、ヤコブは全くかたちなく、見えなかった『長子の特権/契約の継承権』を選択するという、大きな博打を打ったのだ。

ヤコブの帰郷、兄との対峙ー

そして今週のパラシャ、創世記32章でヤコブは自身がエサウから逃亡する際に通った同じ道を通り、父祖アブラハムに約束され、その後イサクに対しても再度約束されている、故郷カナンの地に戻って来た。
28章に兄エサウから逃げるようにしてベエル・シェバを出た際、ヤコブは1人だった。そんな孤独な逃避行から20年以上が経ち、ヤコブは2人の妻と12人の息子そして娘たちと、巨大な富を持って約束の地へ戻って来た。しかしヤコブの足取りは決して軽いものではなかった。それはハランの地で蓄えた財産・荷物ではなく、兄から向けられているであろう敵意からであった。
ヨルダン川を渡るヤコブの心は、20数年前の自身が感じていたのと同じ恐怖に包まれていた。

ヤコブはここでいくつかの重要なポイントについて理解しており、これは私たちも理解すべき点である― 

  • ヤコブは兄エサウと、素晴らしいビジネスを行い契約を結んだ。しかしこれは兄側からすると不当であり、公平なものではなかった。このビジネスが違法ということではない。
    しかし、命をかけた狩りから戻り、空腹と疲労感から論理的な思考が働かない状態だと知っていながら、それを利用するような形でまとめたこの『ディール』を、倫理的で公平なものだと客観的に見て感じる人は少数だろう。

  • 合法だからと言って、それがイコール公平・倫理的ということにはならない。この双子間のやり取りはまさにそれに当たり、私たちも(生活するうえでも)意識すべきである。

  • エサウには以下のような言い分・主張があること:
    ① 空腹は、人をまともな思考や論理的な行動から逸脱させる。まさに空腹時に人は、許可なしに盗み食いをしたりもする。
    ② ヤコブの態度や行動は、兄弟に対するものとは、程遠いものだ。
    ③ この「双子の弟にだまされた」というのは至極自然な感情であり、その苦い思い出は簡単に消えるものではない。和解をしたとしても、そのトラウマによる感情や疑心を、時として抱いても不思議ではない。
    ④ 弱みに付け込んで蹴落とし、上に立とうとする兄弟に対して誰が信用でき、そんな兄弟と誰が平和的な関係を築けるだろうか。そして実の母もそのバックに居り、父親は年老いており助けにならない。

エサウは家庭内で四面楚歌の状態だったのだ。

この事件から何千年も経った現在でも、その敵意はいまだに続いており、神がアブラハムに約束された約束のものを受け取るため、いまだに戦いがある。ヤコブの子孫であるユダヤ人と、エサウとイシマエルの子孫になるアラブ人は、現在に至っても和解の道、関係を修復する道が見つかっていない。いったい和解というものが可能なのだろうか。兄弟間の和解に、2つの民族が至ることがはたしてできるだろうか。

私は、可能であり和解すべきだと考えている。そしてそのためにも、この聖書の箇所から有益な教訓を学ぶことができると考えている。 

ヤコブの備え―

ヨルダン西部を流れる、ヤボク川。

ヨルダン川を自身の家族と渡る際、ヤコブはいくつかのことを行った。

  1. ヤコブは最悪の事態を想定し、それに備えていた。

  2. ヤコブは神に祈った。自分たちが今から戻るカナンの地に無事戻って住むことが、神の約束と預言の実現のためである事を、神と自分自身に思い出させるためだった。この祈りによってヤコブは自分自身を励まし、力を得ることができた。
    これは、私たちも覚えておかなければならないポイントである。神の約束、これこそ、そしてこれのみが私たちの力の基、励まし、そして真の希望であり、私たちが神にすべてを委ね、信頼することができる根拠なのである。(創世記 32:9-12)

  3. ヤコブは対策を練り、自身のキャラバンをふたつの軍団に分けてリスクマネージメントをした。エサウによる攻撃を受けたとしても、半分は生き残ることができる。これは神に対する疑いではなく、ヤコブの知恵や戦略眼からきたものだった。

  4. まずは平和を求め、使いと贈り物を先に送り出した。こうしてヤコブは自分の側から、和解を申し出た。これを通してヤコブは過去の関係・出来事において、自身に非・不誠実があったことを暗に告白し、謝罪の意を表す行動でもある。

  5. ヤコブは敬意と感謝、そして謝罪の意を表すため、多くの贈り物をエサウに送った。これは中東ではとても大切で、平和な状況におけるビジネスにおいても、スムーズな契約成立のために重要だったりする。

  6. ヤコブは自分の言葉で兄に対して、敬意と尊敬を表した。(創世記 33:4-11)

  7. ヤコブは家族の一人一人を、エサウに紹介した。これはとても大切な行為だ。敵と和解し平和をもたらす時、またそんな交渉を行う時に、自身の弱い部分をさらけ出して、歩み寄ったのである。
    もしそうではなく、エサウが最初に家族ではなくヤコブの兵士たち・軍団を目にしたとすれば、不信感や疑い、恐れが再び生まれていたであろう。

兄弟が和解することはとても困難なことではあるが、決して不可能ではない。
しかしこの箇所から私たちは、長年の深い敵対関係がエサウ・ヤコブのように劇的な形で、和解というハッピーエンドを迎えたとしても、それが永続するとは限らないということが分かる。ユダヤ人とアラブ人という兄弟間の現状を見ると、双方の間違いやボタンの掛け違いにより、創世記33章の和解からは考えられないような、悲しい現状となっている。

ヤボクでの出来事―

「ヤボクの渡し」は、ヨルダン川の東側の小さな支流である。ヤコブは北東部のハランから旅をしてやって来た。細い支流の場所であり小川程度の場所を選んで、ヤコブに最も近い妻たちレアとラケルの集団が川を渡るのを手伝った後、自分自身はその川を渡らずに朝まで待っていた。
すると突然『ある人』が、ヤボク川に現れた。

24ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。25その人はヤコブに勝てないのを見てとって、彼のももの関節を打った。ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。26すると、その人は言った。
「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」
ヤコブは言った。
「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
27その人は言った。
「あなたの名は何というのか。」
彼は言った。
「ヤコブです。」

創世記32章

このヤコブとある人との興味深く謎の多い格闘は、多くの聖書解釈や憶測を生んでおり、ユダヤ教のカバラ(神秘思想)においては非常に重要な出来事とされている。しかしここでは最もベーシックな事実のみを抑えよう。

創世記において改名は神からの介入によって起こるものなので、ここでは『ある人』という形で神(に近い使い・天使などの存在)がヤボク川の前に立ちはだかり、エサウと会う直前のヤコブと戦ったのだ。

この格闘劇とヤコブ(「2番目」や「従う・付いて行くもの」という意味も)から、神と戦い生き残った(または勝った)というイスラエルという名前に代わったことの、意味は何なのだろうか。
この意味は、いたってシンプルなものではと私は考える。

以前のヤコブは「テントに住んで考える人」だったが、ここではイスラエルという「神と闘って負けなかった人」になった。この人こそ祖父アブラハムの約束を受け継ぎ、新しい天と新しい地、そして罪も病もない永遠に続く平和の世界へと、世界全体を先導するという役割を担う人となったのだ。 

これは私たちが1日に数回捧げる、祈りの中にも見られることでもある。

天において平和をつくられるお方が、
私たちの上に、
そしてイスラエルの上に、
平和をつくられますように。
そして私たちはこう答えようー
アーメン!!

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