随筆2 「完全な他者」との対話

 つい先日、ツイッターでこんな話があった。所謂文系と言われる人々は、何をモチベーションに研究をしているのか、と言っていた人がいたのだ。文系に「新たな知」の創造は可能なのか、という問いを添えて。嘗ていた学者の研究を読み返して焼き直すことにどのような意義があるのかという率直な感想とも言えるこの意見は、常々人類学を学ぶ僕自身考えてきたことでもあった。確かに、そう言われてしまうと特に人文学というのは意義や動機を見出すのが難しいかもしれない。未知として残されている領域は、理系が対象とする事物に比べて少ない。我々が少なくとも地球上での人間の営みを対象にしているのに対し、彼らはこの世界の存在そのものを、ある意味で対象にしているのであるから、当然単純な発見の機会の数にも差がある。人文学不要論とまでは行かないまでも、顧みられることが少なくなっているのは否めないし、汲みつくされている感があることも否定できない。これはまた僕の率直な感想であるから、そんなことはない、我々は我々についてまだ知らないことが多くある、と言われてしまうと痛いのだけれども。
 僕は先端を行く学者たちのような意見は言えないが、自分なりにこの問いに対する答えを持っているつもりだ。論点のすり替えというか、変化球のような答えになるけれども。ツイッターの返信で、僕はこういった。「いつか宇宙人に出会ったときに、きちんと自己紹介するために勉強してます」と。変な物言いであるとは自分でも思う。真面目に考えれば、自分が宇宙人に出会うことなんてまずないだろうし、そもそも言葉が通じることもない。馬鹿なロマンチストかお前は、と言われてしまいそうであるが、僕は割と真剣にこう考えている。特に人類学を学んでいる身としては、強くそう思うことがある。
 宇宙人、というのには二重の意味を込めてそう言っている。正真正銘の地球外生命体としての宇宙人という意味と、明白な他者の比喩としての意味だ。確かに空想的なニュアンスがあることは否定しない。宇宙人の存在を信じているかと言われれば、僕はこの広い宇宙のどこかにいるんじゃないかという程度には信じている部類に入るから、その隠れた願望の投影と受け取られるかもしれない。けれどもどうか後者の意味についてよくよく考えてみてほしい。僕が強調したいのはそちらの方だ。
 「完全な他者」―我々と思考の枠組みを共有せず、倫理や道徳に共通点がなく、勿論同じ生産・再生産のサイクルの中にもない完全に別の存在―など存在するのだろうか。既存の人類学の議論や姿勢を参照するならば、少なくとも人間、ホモ・サピエンスの内には、もっと言えば地球上の生命の内には、おそらくそのような者は存在しない。古い議論であるが構造主義、レヴィ=ストロースの『野生の思考』などを見れば、認知のレベルにおいて我々人類はおそらく共通の構造を持っていることが示唆されているし、ハラウェイを読めば、まるでバタフライ効果のようであるが、地球上のあらゆる生命が今や人類と無関係でないことが分かるだろう。「人新世(anthropocene)」の議論は、正にこのことを言っているのだと僕は思う。ラトゥールらのアクターネットワーク論や、ジェルのエージェンシーの話などを見る限り、この数十年、人類学の主題は他者の存在から非存在へとシフトしているようであるから、殊にこの領域で話をする限り、「完全な他者」というものの存在は否定される。「我々」は、皆どこかでつながっているのだ。
 であるから、人類にとっての「完全な他者」というのは架空の、概念上の存在でしかない。しかし実はこれには、ある但し書きが存在する。僕はこの但し書きがこの「完全な他者」という問題の最も重要な部分であり、同時に最大の落とし穴であるように思うのだ。それは「この地球上で」という文言である。確かに、この地球上で、人類と無関係なものは最早存在しないかもしれない。だが地球の外、太陽系の外、銀河系の外ならどうか。人類と、或いは地球上の生命と、全く異質な形質と組成を有し、全く異なる発達を遂げた存在がもしいたら。万が一、そのような存在と人類が接触した時に、我々はきちんと「自己紹介」ができるのだろうか。「完全な他者」の内包する問題は、ここに現れると僕は考えている。
 はじめの方で書いたことであるが、実は人間は、思っているほど自分自身について知らないのではないか。そのような「完全な他者」と出会ったときに、僕は今の人類が自信をもって自分たちのことを伝えられる状態にあるとは到底思えないのだ。勿論、おそらく言葉の通じない相手にどうやって伝えるかといった実際上の問題はあるけれども、少なくとも人類は、そのようなことを問題にするより遥か手前の段階にいる。別に僕は、『人間と地球上の生命』と題された百科事典を作るべきだ、と言っているわけではない。が、今のままではきっと、相互理解などとは程遠い結果に終わるに違いない。
 人文学に新たな知の創造は難しいかもしれない。「何かの役に立てるために人文学をするのは間違っている」という意見もあるだろうけれども、もし人文学に何とかしてそういった意義や動機を見出すとするならば、こんなことが言えるのではないかと僕は思う。多分、そうした目的による人文学は徒労に終わる。「完全な他者」との接触はないまま、先に人類は滅び去るだろうから。けれども個人的な動機として、こんなことを夢見ながら人文学をやるのは、それはそれで面白いし「素敵な」ことであるのではないだろうか。

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貝音 尚

人類学専攻の大学生。身辺雑記を中心に随筆を主に書いています。
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