随筆1 蹂躙される生命


 コンビニの端の喫煙所でピースをふかしていたときに、ふと下を見遣ると、小さな、一匹の蟻が、パンの欠片をせっせと運んでいるのが目に入った。僕は小さな生命への憐れみという、気まぐれとも人並みの優しさともとれるものを発揮して、彼を踏んづけないように、そっとその進路から足をどけた。蟻はきっと、僕が意図してそうしたのだとも気付かず、勿論礼など言わず、ただそれが日常の使命であるからと言わんばかりに、とてとてとパンをしっかりと咥えたまま去って行った。僕は特に苦労もなく、ただ足をどけただけであったから、そのまま煙草を吸い続けていたが、立ち上り消えていく煙を見て、自分が小さいけれども一つの生命の行方を左右したということの、事の重大さを思い当たり小さく慄いた。あの時もし自分の足元を見遣ることがなければ、きっと僕は思いがけず一つの生命を奪っていたのだろう。生命の儚さというのは、言い古された主題であるけれども。こうも身近にそれを実感すると身震いせずにいられない。生命というのは、理不尽にぷちっと踏み潰されるものであるのだ。

 人間は、と言う人がいる。人間は道具と技術で以て、生命を奪う―奪われるの関係の頂点に君臨したのだと。病はまた別として、どんなに強い力を持ったものであっても、一発の銃弾の前には無力である。もし人間が、他の生命に踏み潰されることがあるのだとしたら、それは宿命ではなく事故なのだと。最早構造的に人間の天敵は人間を除いて他になく、捕食の関係で言えば、日常的に人間が何者かに喰われることはない。喰われたとしたらそれは事故である。人間が天寿を全うせずに命を落とすとしたら、戦争か事故か殺人か病か、或いは自殺である。この五種によってのみ人間は死に至るのだ。何者かに気付かぬうちに踏み潰されて死に至ることは、無いと言うのである。
 僕は戦争をしないという国の、戦争を知らない世代に育った。語りや書籍で知ることはあっても、実感することはない。朝元気に話をしていた友人が、昼には虚ろな目で横に転がっているということを、理解することすらできない。小さな鉛の弾に、生命がぷちっと踏み潰されるということが日常的に起こる世界がこの地球にはあるのかもしれないけれど、僕はまだそれを目にしたことがない。戦争というものについては、僕は徹底的に無知である。
 事故や殺人はこの国でも起こる。ニュースを見れば、いついつどこで誰が殺されたとか、事故で何人亡くなったという情報を目にすることがしばしばある。こうして生命を絶たれた人々の感想は、揃って「まさか自分が」というものであろう。覚悟しての死ではない。そういうものの外から、突然に訪れる。「次はお前の番だ」と言わんばかりに。死神の手帳にはその順番が書かれているのかもしれないけれど、人間にそれを見ることは出来ない。
 これら五種の中で、僕たちにとって最も身近であるのは病であるかもしれない。病、病気、疾患。様々な呼び名がある。外的なものによるものと、内的な、人間それ自身の不調によるものがある。いずれにせよ、病による死は人間にとって最も身近な死の一つだ。病による死はしばしば予測可能である。突然に理不尽に、病によって命を落とすこともあるけれども。時に病による死は「余命宣告」として提示される。絶対のものではないとしても、自らの死期を知ることもできる。それを残酷なものと見るか。唐突に、知ることもなく命を落とすのか、自らの死に向き合い、備えて死を迎えるのか。僕は勿論どちらの経験もしたことはないし、どちらとも真剣に向き合ったことはない。想像で語るには繊細に過ぎる話題ではあるが。けれども僕には、唐突に命を奪われることの方が、酷く残酷に思えるのだ。
 五種の中で最も特異なものが自殺である。これだけは確実に言えることであるが、自殺はそれに至る明確な「準備」を経て実行される。それが論理的思考の結実であっても、発作的な自殺念慮によるものであっても、明らかに「自分はこれから死ぬのだ」ということを認識したのちに実行されるのだ。その点で、事故的に、ぷちっと踏み潰されて訪れる死とは、全く対極に位置するものなのである。それ故かアルベール=カミュは、『シーシュポスの神話』に於いて、真に重大な哲学上の問題として自殺を挙げたのだと思う。いずれ万人に等しく訪れる生命の終わり、それを如何に死ぬかという問いへの一つの極端な解答として自殺はある。死が万人に唯一等しく与えられるものであるからこそ、カミュは自殺を哲学上の最大の問題として位置付けたのではなかろうか。もし人間にとって真に普遍的なものは何かと問われれば、僕は即座に死であると答える以外の術を持たない。
 これら五種以外の死というものを、今の人間は知らない。何者かの気まぐれで、或いは意図しない手の一振りによって踏み潰され蹂躙され死に至るということを、人間は知らないのだ。僕は、踏み潰される蟻の気持ちを想像しようと努める。けれども一向に思い浮かべることができない。当然だ。踏み潰されることのない者に、踏み潰される者の気持ちなど想像のつくはずがない。そのようなことのない者に、日夜何者かに命を理不尽に奪われることへの恐れに慄く者の気持ちなど、想像のつくはずがないのだ。その点人間の方が特異な生き物である。天敵への、自分の命を理不尽に奪い去る者への「種としての恐れ」を持たなくなったのが、殊に「先進国」に生きる人間なのである。天敵の存在ではなく、自らの自殺を最大の問題とする位には、人間は「抜歯」されているのだ。
 人間の世界から死は隠されている、とフーコーは言ったらしい。そしてそれを実行したのが「権力」であると。権力とは人間が人間に対して作り上げたものであるから、遠回しに、人間は自らの世界から死を排斥したことになる。人間は自ら自身の牙を「抜歯」したのだ。死を排斥することは、死に対抗する自らの生命としての手段を放棄し退化させることに他ならない。そしてそれは何によって。銃と剣という具体的な道具と、社会や集団という概念的な道具によって。人間は自身を「抜歯」したのだ。
 僕たちには獣のような牙は最早ない。蟻のような頑強な顎もない。生命が脅かされたときに構えるのは銃か剣だ。身を守る手段すらその身体に持たない人間は、もしある日、その生命を理不尽に奪い去る存在が現れたとしたら、全く無力のうちに死に至るだろう。

 気が付けば、煙草の火はもう消えていた。「平和」の名は無残に黒焦げている。いつの日か僕たちの生命が人間以外の何者かに踏み潰される日が来るのだろうか。踏み潰される者故の牙を持たないために、ただ自分より強大なる者の存在を想像して慄くことしかできない。灰皿で煙草を揉み消し、重さ1トンの鉄塊に乗り込む。今日はこの先車を走らせる中でどれだけの蟻を踏み潰さなければならないのだろう。つい先ほどの慄きは瞬く間に消え、僕は無慈悲に車のキーを回した。

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貝音 尚

人類学専攻の大学生。身辺雑記を中心に随筆を主に書いています。
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