随筆3 雨の道程①

 目が覚めたのは午後二時過ぎのことだった。普段通り目覚めるのであればそれは朝方のことのはずであるから、僕は首を傾げる。ここのところは薬の副作用も軽くなってきて、午後まで眠りこけるなんてことはなかったはずなのに。せいぜい朝どうにも体が動かないということがあるぐらいだ。思い当たる事柄はない。週末ということもあり疲れがたまっていたのかもしれないが、それほど疲れるようなことをした覚えはない。正直理由なんてどうでもよかった。現に僕は盛大に寝坊をし、講義は既に終わっていたのであるから。目覚まし時計を止めた記憶はない。

 布団から体を起こし、牛乳をコップ一杯分流し込んだ。口の中に残る乳臭さがどうにも不快で、体に良くないとは知りながら起き掛けの煙草に火を点ける。肺まで突き刺さるようなメンソールの冷涼さで、重かった体と頭が動き出す。こんな「不健康な」生活を二年も続けている。フーコーを読んでから僕は健康というものに大して関心を抱かなくなった。健康に、長生きし、子を作り育てよという言葉に嫌気すら差す。これは生物の宿命なのだと、そう考えていたのであるが、どうやらそれだけではなかったらしい。

 ここのところ週末は実家に帰っていることが多い。今日もいつもの如く帰り支度を始める。鞄に万年筆と原稿用紙、まだ整理が済んでいないフィールドノートを詰める。荷物は軽いほうがいいからと、パソコンは入れなかった。重荷は文字通り精神の重荷になる。昨日着たままのジーンズに足を通して洗面台の鏡を見る。いつもと変わらない、けれどもゆっくりとその姿を変えている誰かの顔が映っている。お前は何者だ。私はまだ、何者でもない。

 まだ何者でもない僕は、何者でもないなりに今日を生きている。起きて飯を食い、勉強して眠りにつく。そうしたことが、習慣になっていはしないか。生きるために飯を食い、将来のために勉強する。生産よりは再生産のために、僕は今日を生きている。いや、習慣に、生かされている。何者でもない僕にはまだ、人生が生きるに値するかというあの問いは大きすぎる。けれども、こうして生きるというのは危険だ。倦むという可能性があるし、現に僕は倦み始めている。身体が、精神が、刺激を求めて止まぬのだ。起き掛けの煙草も晩酌も、等しく刺激剤なのである。

 何か、何かないかと、部屋の中を這いずり回る。何か目新しいもの、この繰り返す日々の生活に、強烈な一撃をくれる何かが、ないのか。あった。一冊の文庫本。閉店する書店で最後に買った一冊。アルベール=カミュの『異邦人』。お前を旅の供にしてやろうと、ジャケットのポケットに入れてドアノブを回す。僕はここでも「異邦人」であるし、実家に帰ったところでもうその土地の人間ではないのであるから。お似合いじゃないか。いつか旅に出て、旅先でひっそりと死ぬのが僕の夢だ。願い、と言ってもいい。或いは、山奥に隠れ棲んで、そのままというのもいい。せせこましい世というものに、僕はもう疲れてしまった。

 家からバス停までは十分ほどの距離がある。しとしとと、雨が降っている。信号待ちをしていたら、通りがかりの車に水をかけられた。この野郎と言う気力もない。

 こういう気分になってから、他人を責めるということが出来なくなってしまった。正真正銘の悪意というものに、触れたことがないだけなのかもしれないけれど。世の様々な「悪事」というものが、本当に純粋な悪意によるものであるとは思えないのだ。勿論、理解しがたいほどに凶悪で悲惨な事件は世の中にある。けれども悪事を、当事者の単純で純粋な悪意に還元してしまうのは、危険なことに思えてならない。人間の心理、精神というものがそう単純なものではないという以上に、世が、理解しがたい何か欠陥のようなものを抱えているような気がしてならない。人間が生み出したものにおいて、欠陥のないものなど存在した試しがない。個人主義の危険性は、時にその欠陥の存在をも個人に転嫁して「割り切ろう」とするところにある。そうやって世界は動いているのだからと人は言うのだろうけれど、そうやって世界が動いていることの方が本当は奇妙なのだということを、人は忘れてしまったのだろうか。

 バス停は坂の上にあるから、僕は坂を上らなければならない。大した坂ではないから別に苦労を感じることはないけれども。今の人間の発想は、坂があって不便なら山を切り崩してしまえばいいと言っている気がする。目先の不便や不都合を、人間自身に苦労を負わせるのではなく、その周りを改変することで解決してしまおうとするのだ。何故これが問題解決として認められているのか僕にはわからない。下手に周囲のものに手を出せば、目先の不都合より大きな問題が生まれることすらあるのに。楽な方、苦労のない方に人間が流されがちなのは認めざるを得ないけれども、自分に都合の良いように周囲を改変し続ければ、「不自然な」状態でしか人間は生きていけなくなる。例えば、インフラへの依存。もしある日突然、電波による通信ができなくなったら。考えすぎかもしれない。しかし現に、インフラの停止という事態は起こるものであるから、心しておかねばならない。

 バス停で次のバスを待つ。周りには数人の待ち人。予定の時刻を過ぎてもバスは来ない。時刻表を見遣る人が一人、時計を見る人が一人。ここではバスが時間通り来るのが当たり前なのか。「時間通り」ということに過敏になりすぎて神経をすり減らしたくないから、「まあそういうこともあるだろう」と、思うようにする。いや、そう思えるのは幸せなのかもしれない。今の僕は時間に縛られていないからだ。五分経ったが、バスはまだ来ない。

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貝音 尚

人類学専攻の大学生。身辺雑記を中心に随筆を主に書いています。
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